しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

お茶を飲む

2023年04月21日 | 食べもの

お茶は、ご飯を食べて
茶瓶から・・・湯吞み茶碗でなく・・・ご飯を食べた、その空の茶碗についで呑んでいた。

茶瓶も時代劇に出るような立派なものでなく、鋳掛屋が何度も修理しつくした茶瓶だった。
お茶の味は不味かったが、学校の先生が「昔はさ湯を吞んでいた。病気の時だけお茶を飲んだ」と話していたので、家のお茶は不味かったが、飲めるだけ贅沢なのだと思っていた。

小学生は水筒を持って行くのは、遠足の日だけだった。
昼の弁当は、お茶なしで食べていたのだろうか?思い出せない。


(中学生の時は、アルミ弁当のフタに当番がヤカンからついでいた。それは麦茶だったように思う)

 

・・・

(父の話)
お茶
うつろの畑でつくりょうた。
葉っぱ。若い葉っぱ。

これをうむしょうた。

もちをつくときうむす、あわあな感じでうむしょうた。くどで。
ホトンドが番茶じゃ。

何ぼか客用に買うとくが、家のようは自給じゃ。

2000・12.24

・・・・



江戸時代末期に国民的飲料になった。
畑の畔とか岸などに、チャの木を何本か植えておく。
春には新芽を摘み、冬の12月には軸から刈り取って,葉とともに刻み、蒸して干す。
「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行



・・・・・

・・・


「鴨方町史」 鴨方町 昭和60年発行


たいていの家では、畑のギシなどに茶樹を植えており、自給する。

 

・・

 

「米・麦・豆」 ポプラ社 2009年発行

大麦

平たくつぶしたおし麦を、米と混ぜて麦飯にする方法で食べられてきました。

お菓子、ビール、ウイスキー、家畜の飼料などします

(麦茶)

大麦を炒ったもので、お湯で煮だして飲む

江戸時代から飲まれていて、夏は冷やすとおいしい、

最近はペットボトルのものが主流になっている。

 ・・・


ほうじ茶

畑の周りにお茶の木を植えていた。
夏に葉をつんで天日でよく干して押し切りできざみ、ほうろくでカラ炒りしてほうじ茶を作った。
香りがとてもよく、
今でも緑茶よりほうじ茶をのむ家が多い。

「中央町誌・民俗編」 美咲町 平成29年発行

・・・

 

 

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スイカを食べる

2023年04月20日 | 食べもの

冷えたスイカを食べる時があった。
冷えたスイカは美味しかった。
それはお盆の時。

盆の来客用にスイカを一個か二個、井戸で冷やしていた。
タライに井戸水とスイカを入れて1晩以上かけて冷やしていた。

客が揃った頃を見計らい、母が包丁で真っ二つに切る。
この時、見る方も少し緊張する。
そのわけは、
稀に熟れていない、または逆に盛りが過ぎてスカスカの場合があるから。

更に等分に小さく切って盆にもって客に出す。
そのスイカを食べる。
冷えたスイカはうまい。うまかった。



(スイカを食べる・松竹映画「馬鹿っちょ出船」都はるみ)


・・・・

普段は冷えてないスイカ、
というより熱いスイカを食べていた。

形の悪いスイカを、おやつ代わりで食べていた。
水よりは少し腹が太るし、それに甘みもある。
スイカの種はカドに向かって吹き飛ばし、食べくさしは牛のエサ箱にほうり込んでいた。

・・・




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カブトガニの味 ~腹が減ったらドンガメを食べる~

2023年04月20日 | 食べもの

夏休みのことを、ヒトコトで言えば「海で遊ぶ」ことだった。
海は楽しかった。
面白かった。
飽きなかった。
足の裏には、いつも切り傷があった。

朝、目が覚めると、「汁かけ」を食べて海へ行っていた。
海に行けば、必ずどこかで子供が遊んでいた。
満潮では泳ぎ、
干潮では磯遊び。

ほっとけば朝から暗くなるまで、海にいるのだが、途中で腹が減る。
腹が減るので帰る。
家の柱時計を見ると、昼飯時間は12時から午後2時半の間の、日変わりだった。
食べたら昼寝をした。親も昼寝をしていた。


しかし、遊びをやめられず、家に帰らずに海で遊ぶ日があった。
その時はドンガメを食べていた。

海辺で、木の葉、紙、木切れ、の薪燃料を集める。
石ころで、くどを作る。
猟師の船からドンガメを一匹失敬する。
ドンガメを焼く。

焼き始めると、強烈な臭いが、まわりに漂う。
鼻をつまんで、風をおこし、くどの火の勢いを増す。

焼いたドンガメを食う。
不味い。
臭い。






それでも、腹をいくらか満たしてくれる。
目的を果たし、
海での遊びを再開する。

ドンガメを食った日は、朝から晩まで、海で遊んでいたが、
今思うに、ほんとうに、夏休みに勉強はしていなかったな。



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鳥獣の肉

2023年04月20日 | 食べもの

いちばん多かったのは、卵を産まなくなった鶏の肉。

他に、

家で飼っていた羊が死んだとき、何日間も羊の肉を食べた。

空気銃を持っていた人が雀を撃って、それを焼いて食べたが、中身は少なく炭を食べているようなものだった。

父母や姉は食べたようだが、自分はない。

戦後すぐの日本や、戦時中の外地で野犬を食べていたそうだ。(父の体験談)

戦時中の外地(中国)で、民家の豚を横取りして食べていたそうだ(父の体験談)

 

・・・

「成羽町史民俗編」 成羽町 平成3年発行

鳥獣の肉
農家は家畜として牛を大切にしたため、普通これを食べなかった。
兎・鶏・猪等の肉も食べるようになったが、一般の農家が食べるようになったのは、そんなに古くからではない。

 

・・・

 

・・・


「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

獣肉
廃鶏を食べる程度であった。

・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

古代の日本は牛をイケニエ(生贄、犠牲)として神に捧げ、
酒を振舞い、肉を食べた。
中世以降、獣肉食の衰退は、仏教の殺生を嫌ったこと、土公神信仰の影響が大きい。
明治になって徴兵制が施され、軍隊内では獣肉食をさせた。
兵隊帰りが軍隊でおぼえた肉食を秋祭りなどでするようになり、庶民の間に広まっていった。
牛肉の鋤焼は大正中ごろ大阪でその名が起こったといわれる。
ごく新しい名称である。


明治以後各地で普及した。
トンカツにキャベツをそえて食べるようになるのは昭和7~8年以後のことであり、
キャベツは明治以降普及した野菜である。

山羊
明治以後飼育の家畜である。
第二次大戦以降、欧米食の浸透が獣肉食を普遍化していった。

鶏肉
かつて民家では2~3羽の地鶏を放ち飼したものである。
夜になると鳥屋にはいってねたのである。
一羽は必ず雄鶏を飼い、自然交配で孵化させた。
一番ドリが鳴いた、二番ドリが鳴いたで、などで仕事に出かけた。

・・・

 

 

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「誘蛾灯」は、初めて見た蛍光灯

2023年04月19日 | 初めてのこと

6月の楽しみは蛍狩りだった。
暗くなると、竹ぼうきを持って田んぼ方面に出かけた。
かまんどうの南側、砂川土手ふきんに蛍は多かった。

砂川の”しんやん”の近くに誘蛾灯があった。
ぼっけぃ明るかった。電球とは輝く光がちがった。白く光っていた。
蛍光灯の下には四角形の器に水・薬品・油が混ざって、その中に蛾をはじめ昆虫や虫の死体が浮かんでいた。

独特の匂いがしていた。
茂平ではもう一ヶ所、西ノ谷にも誘蛾灯があったような気がする。

中学生になって、父が勉強机に置く蛍光灯スタンドを買ってくれた。
それが、我が家では蛍光灯の第一号だった。

・・・


「福山市引野町誌」 ぎょうせい  昭和61年発行 

メイ虫
昭和15年農村電化の誘蛾灯(蛍光灯)が普及した。
山峡のカンテラで、二化メイ虫(=ドウ虫=蛾)を駆除した。


・・・

「北川の民俗」 北川の昔を訪ねる会 2022年発行

誘蛾灯

戦後の昭和20年代の後半頃、誘蛾灯というものが作られた。
田んぼの多い所で電線の届きやすいところに小さな電柱を建て、蛍光灯を一灯つける。
其の下に水が入る四角の木の箱で作ったものを台の上に置き、
蛍光灯で田んぼに来る虫や蛾など集め、水に落とし殺すものである。
虫たちは逃げられないし、早く死ぬように工夫がしてあった。
暗くなったら誘蛾灯をつけ、明るくなったら消す手間があった。

 

 

・・・・

 

 

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麦飯

2023年04月19日 | 食べもの

ご飯とか、晩飯、朝飯という言葉は、イコール「麦飯」だった。

茂平は農業・漁業の家で9割を占めていた。

米のご飯を食べていた家は1~2軒あるか、ないかだったように思う。

 

・・・

「金光町史 民俗編」 金光町  平成10年発行

麦ご飯
農家でご飯といえば麦飯が当たり前であった。
どこの農家でも裸麦と小麦を栽培していた。
食用の裸麦はコピンという品種で、ヤハズは麦稈真田用の裸麦で、この実は主に家畜の餌になった。
米も麦も家で唐臼を踏んで、五分から七分程度まで搗いた。
雨が降ると唐臼踏んで、子供も学校から帰ると臼を踏んだ。
大正前後までは丸麦だったが、大正の後半から「ひしゃぎ麦」にと呼ばれる,押し麦が使われるようになった。
昭和30年ごろまでに米飯が主体となった。

・・・


「美星町史」  美星町 昭和51年発行

主食

水田がかなりある地区でも、米を常食とすることはなく、
明治・大正のころは麦・米の比は9:1でくらいで、
貧しい家ではそれさえもできなかった。
麦よりも粟を食べることが多かった。
麦は丸麦(大麦・裸麦)で、朝炊くためには、前の日の夜、
一度煮てからソウケに打ち上げてヨマした。
丸麦一升に水二升ぐらいいれた。
主婦は一回の麦飯を炊くためには、このように二回も手を煩された。
大正の終わりころ、ヒシャ麦が普及し手数が省かれた。

・・・・

 

「野々浜むかし語り」  野々浜公民館 1991年発行

野々浜で百姓をしている家は、米は多くを地主に取られてあまり残らず、
麦飯を食わざるをえなかった。
大抵の家では、普段麦を2割から3割も混ぜて食べ、
米だけの飯は盆か正月位しか食わなかった。
そういえば戦時中、
小学校で米だけの弁当を持って来てはいけないと、子どもの弁当を調べたこともあったな。

 

・・・・

 

・・・


「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行


麦飯
麦飯にする麦は裸麦である。
荒麦をからうす(唐臼)でついて白(はく)にするといい、精白する。
たいていの家には、からうすは母屋の入口を入ると右手の壁にそってあった。
精米所を営むものができてから、精米所で平麦にしてもらった。
大正初めから第二次大戦中からのところもある。

・・・


「福山市引野町誌」 ぎょうせい  昭和61年発行



麦は主に田の裏作として栽培された。
深津郡の裏作率は非常に高く78.5%幕藩時代から産していた。

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「米・麦・豆」 ポプラ社 2009年発行

 

大麦

平たくつぶしたおし麦を、米と混ぜて麦飯にする方法で食べられてきました。

お菓子、ビール、ウイスキー、家畜の飼料などします。

(麦茶)

大麦を炒ったもので、お湯で煮だして飲む

江戸時代から飲まれていて、夏は冷やすとおいしい、

最近はペットボトルのものが主流になっている

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美星高校

2023年04月19日 | 無くなったもの

場所・岡山県井原市美星町三山
無くなった日・昭和61年分校廃止
撮影日・2019年10月27日(美星ふるさと祭)  

 

”美星高校”は、自分の記憶にないので、
どういう歴史の学校だったのだろう?と思っていたが
「美星町史」に載っていたので転記する。

 

 

・・・


「美星町史」 美星町 昭和51年発行

昭和18年青年学校が、現在の矢掛高校美星分校の地に設立され、
昭和23年4月1日に岡山県立第一矢掛高等学校美星分校として衣替えし、
農業、家庭の二課程をおく職業課程の高等学校として再発足した。

その後、地域農業との結びつきを強めたこともあって、進学者は年々増加し、
昭和27年10月には「美星高校」として独立した。
さらに昭和29年6月1日、美星町の誕生に伴い「町立」となり、
町民の教育優先の思想に支えられて、校舎等諸施設の整備が新町発足時の重点施策として推進された結果、
昭和38年4月1日県営に移管され、
畜産課、家庭科の二課程をおく、待望の県立美星高等学校となったものである

その間、昭和37年岡山県下で開催された第17回国体において、
並みいる古豪を押さえて、堂々、旧道日本一となった快挙は、
当美星高校の輝かしい伝統として受け継がれ、
矢掛高等学校美星分校となった今日も、当時の誇る運動部活動として定着している。

・・・


(Wikipedia)

岡山県立矢掛高等学校

(美星高校関係を抜粋)

1971年(昭和46年) - 4月1日、岡山県立美星高等学校を統合し、美星分校とする。
1986年(昭和61年) - 3月31日、美星分校を廃止。

・・・

 

 

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2023年04月18日 | 食べもの

山間部の人は魚を食べる機会が少ない、という本を見ることが多いが
農山漁村に生まれ育った管理人が思うに、山村も漁村も大差はなかったと感じる。

漁師は魚を売って生活するので、獲った魚は食べないで売る。
管理人が食べていた魚は、
雑魚の代表であるママカリ、(漁師の隣家からザルにいっぱい)
母が行商の魚屋からたまに買うサバ、サンマくらい。

山村の人よりも雑魚のママカリが多かった程度だ。(と思う)

 

・・・


「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行



正月ぶり、春のサワラ、イカ、秋祭りに食べるぐらい。

間では月に二、三回程度であった。

・・・

 

・・・


「成羽町史民俗編」 成羽町 平成3年発行


魚肉のおかず
海魚
海魚では春は鰆の季節、山間部でも何軒かは鰆を買って、刺身や吸物にして、
平素手伝ってもらう人をねぎらう風習もあり、鰆振舞と言った。
祭りには、
刺身の魚と蛸と寿司魚としての鰶(つなし)を買う家が見られ、
正月には、
鰤(ぶり)・蛤が見られたぐらいで、平常は塩物が主流であった。
中でも塩鰯が一番多く、籠に入れ、塩を全体にまぶしてあり籠鰯(かごいわし)ともいった。
塩鯖(ぶり)・目刺しはご馳走の部類であった。
正月には、塩鰤を一尾買い庭に吊るして毎朝少しづつ切って煮た。
鰤を買うことは近隣への自慢で、鰤一尾が米一俵の値段に相当し分限者でないと買うことができなかった。

・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


魚肉

無塩
生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。

鰯と鯖
鰯と鯖は庶民にとって、最も代表的な魚である。
高瀬舟の復り荷物に積載した物資は塩鰯、塩鯖、イリコ。
月に一回も買わない家もあった、昔は米で支払ったものである。
塩鯖は年に5回くらい買ったという。塩鰯や塩鯖についている塩がまたよい麦飯のおかずになったという。


5月初め魚島には、出買船が海上でサワラを買い集めて笠岡市西浜とか寄島町安倉などの漁港に荷揚げしてそれを何人かがリレー式に魚篭を担いで吉備高原まで運んだものである。
高原の村々では春の鰆として買ったものである。

その他
打瀬漁師が打瀬網でとったシャコなどをその日とれた分を売りに来たり、鯖、ボラ、メバル、アジ、カレイなどを行商に来た時、少しずつ買っていた。
秋には児島湾産の塩アミとか笠岡湾産のモガイまたはアサリなどをまれに売りに来ることがあった。

・・・・

・・・


「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行


海の魚
刺し身、塩干物


一般に刺し身を食べるようになったのは明治時代からである。
それまでは生ものを食べる習慣はなかった。
江戸時代以前は、魚は塩干物であった。
明治以降も塩干物が主体である。
生魚(鮮魚)は無塩(ぶえん)といって、尊ぶ風があった。
無塩は,日もちがよくないので、遠方まで運ぶことができなかった。
塩物や干物は、焼いたり、焦がしたりしたが、
味付けする時には、塩物は水につけて塩抜きし、干物は水でもどした。

県南の海の魚
瀬戸内海に近い村々でも、普段には、塩サバとか塩イワシなどを月に1~2回買う程度であった。


カツギ(担ぎ)
結婚式とか建前には、例えば笠岡市西浜(ようすな)の漁村で買い求めてのカツギ(担ぎ、担ぎ人)は魚籠を一荷にして、オーコ(天秤棒)で担ぎ、何人かのカツギがリレーで駆けて交代で吉備高原まで運んだ。
カツギは、運んだ距離によって賃金をもらった。
昭和10年頃までのことである。

サワラ
5月初め魚島でよく捕れる。
寄島町安倉などの漁港に荷揚げして、何人かのカツギがリレー式に魚籠を担いで、県中部(吉備高原)の村々に春のサワラを売った。
刺し身、煮つけ、塩焼き、なます、あら煮、吸い物、茶漬け、味噌漬けにする。
寒ザワラは、脂がのっておいしい。

ブリ
出世魚で祝い品、贈答品として使われる。
正月における本来の年玉である。

 

・・・


ブエンの魚
ブエンの魚は年に数回、祭りや特別の場合に食べられたにすぎない。
春のサワラブルマイ、春ザカナなどと称する行事には、
笠岡の西浜から魚仲仕によって運搬された無塩の魚が使われ、至上のぜいたくとされていた。
田植えがすんだシロミテの宴にサワラはなくてはならぬものであった。
また、
時折、訪れる行商から買う干物、塩鰯も無上のご馳走であった。
海産物ことにアラメ、切昆布などは盆のご馳走とされた。

「美星町史」  美星町 昭和51年発行
・・・

 

 

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米の飯

2023年04月18日 | 食べもの

米の飯を食べるのは年に2~3回で、
麦の入っていないご飯に強いあこがれがあった。
高校に入学する頃、やっと、家では麦飯から米の飯になった。

米の飯はうれしかったが、いったん慣れてしまうと、
あこがれていた程には美味しく感じなかった。

高校卒業後、寮の食堂が外米(長い米)だった。
食費は安かったけど、あれは美味くなかった。
タイかどこか、東南アジアから輸入しているということだった。

・・・

米飯


米の飯を食べたのは
「正月三日に盆・祭り」
それに節供や冠婚葬祭のときであった。


「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

 

・・・

 

 ・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。


米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。


糧飯
少量の米飯とか麦飯の中に、多くの野菜とか山菜とかをいれて塩とか醤油で味付けして食べる。
大根飯、菜飯、栗飯、蜂の子飯、稗飯、粟飯、黍飯、芋飯、豆飯、鮒飯、・・・・。

・・・

 

「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行

昭和40年代にはいると、米は過剰となる。
昭和45年頃から、麦飯や雑穀食、サツマ芋食はしなくなっていった。
昭和46年から、稲作転換が行われた。麦類の栽培はやめた。

・・・・

もち米・・・もちやおこわをつくる。

うるち米・・・ふだん食べる米。

精米

玄米・・・もみがらをとりのぞいたもの

精米して、

精白米・・・真っ白、やわらかくおいしい

米ぬか・・・つけもの、洗ったり、化粧品、肥料などに利用される

 

「米・麦・豆」 ポプラ社 2009年発行

・・・

 

 

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美星町八日市

2023年04月17日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県井原市美星町黒忠

訪問日・2023.4.16

 

美星町の八日市は山々がひろがる美星町に、突然のような商店街が出現する。
江戸時代から三歳市で町並みを形成していたようだ。

 

・・・・

「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行


黒忠八日市


黒忠八日市は、毎月八日、十八日、二十八日に市が立つ三歳市として、
近郊農村の中心として栄えた。
特に七月八日の盆市と、十二月十八日の暮の市とはともに大市であった。
川上郡・小田郡・後月郡の境界にあたり、
近くの村々はもちろんのこと、
成羽・地頭・井原・矢掛など各方面からの交通路が早くから通じ、
明治中期まで三斎市が立っていたのである。
笠岡や西浜(ようすな)からは魚や塩、
成羽・領家からアユ、
井原から酒と餅などが搬入され、
八日市は主として食べ物を扱い、
市には、民家のおもてを借りて商いをした。
暮の大市は、
コンブ・タイ・ハマグリ・ブリなど正月用品が商われて大にぎわいをした。
農家は、藍葉粉、タバコ葉を売りに出した。

明治中期幹線道路が谷筋を通るようになり、葉タバコの専売制や藍の衰退により、
三斎市は取り止めとなった。

・・・・

・・・

「美星町史」 美星町 昭和51年発行

近世・黒忠村

黒忠村高内原
高内原には八日市がある。
この市場は毎月8日、18日、28日の3日間、市が立って、
最寄りの村々から時の産物、諸品が売物に持ち出された。
7月8日と12月8日は大市だった。
おびす祭の入用銭として売物に応じて底銭を集めていた。

同じ三歳市であった後月郡東三原村枝郷高山上市は古くから毎月5日、15日、25日の三度と2月10日の巳の日に市を立ててきたので、諸商人が近国近辺より商品を持って売買市が立っていた。
文政2年(1819)ごろには、隣村の川上郡高山市村が新市場として繁盛するようになり、穀物、古着、小間物商が出入りを始めた。

 

・・・

 

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