しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

2023年04月18日 | 食べもの

山間部の人は魚を食べる機会が少ない、という本を見ることが多いが
農山漁村に生まれ育った管理人が思うに、山村も漁村も大差はなかったと感じる。

漁師は魚を売って生活するので、獲った魚は食べないで売る。
管理人が食べていた魚は、
雑魚の代表であるママカリ、(漁師の隣家からザルにいっぱい)
母が行商の魚屋からたまに買うサバ、サンマくらい。

山村の人よりも雑魚のママカリが多かった程度だ。(と思う)

 

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「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行



正月ぶり、春のサワラ、イカ、秋祭りに食べるぐらい。

間では月に二、三回程度であった。

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「成羽町史民俗編」 成羽町 平成3年発行


魚肉のおかず
海魚
海魚では春は鰆の季節、山間部でも何軒かは鰆を買って、刺身や吸物にして、
平素手伝ってもらう人をねぎらう風習もあり、鰆振舞と言った。
祭りには、
刺身の魚と蛸と寿司魚としての鰶(つなし)を買う家が見られ、
正月には、
鰤(ぶり)・蛤が見られたぐらいで、平常は塩物が主流であった。
中でも塩鰯が一番多く、籠に入れ、塩を全体にまぶしてあり籠鰯(かごいわし)ともいった。
塩鯖(ぶり)・目刺しはご馳走の部類であった。
正月には、塩鰤を一尾買い庭に吊るして毎朝少しづつ切って煮た。
鰤を買うことは近隣への自慢で、鰤一尾が米一俵の値段に相当し分限者でないと買うことができなかった。

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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


魚肉

無塩
生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。

鰯と鯖
鰯と鯖は庶民にとって、最も代表的な魚である。
高瀬舟の復り荷物に積載した物資は塩鰯、塩鯖、イリコ。
月に一回も買わない家もあった、昔は米で支払ったものである。
塩鯖は年に5回くらい買ったという。塩鰯や塩鯖についている塩がまたよい麦飯のおかずになったという。


5月初め魚島には、出買船が海上でサワラを買い集めて笠岡市西浜とか寄島町安倉などの漁港に荷揚げしてそれを何人かがリレー式に魚篭を担いで吉備高原まで運んだものである。
高原の村々では春の鰆として買ったものである。

その他
打瀬漁師が打瀬網でとったシャコなどをその日とれた分を売りに来たり、鯖、ボラ、メバル、アジ、カレイなどを行商に来た時、少しずつ買っていた。
秋には児島湾産の塩アミとか笠岡湾産のモガイまたはアサリなどをまれに売りに来ることがあった。

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「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行


海の魚
刺し身、塩干物


一般に刺し身を食べるようになったのは明治時代からである。
それまでは生ものを食べる習慣はなかった。
江戸時代以前は、魚は塩干物であった。
明治以降も塩干物が主体である。
生魚(鮮魚)は無塩(ぶえん)といって、尊ぶ風があった。
無塩は,日もちがよくないので、遠方まで運ぶことができなかった。
塩物や干物は、焼いたり、焦がしたりしたが、
味付けする時には、塩物は水につけて塩抜きし、干物は水でもどした。

県南の海の魚
瀬戸内海に近い村々でも、普段には、塩サバとか塩イワシなどを月に1~2回買う程度であった。


カツギ(担ぎ)
結婚式とか建前には、例えば笠岡市西浜(ようすな)の漁村で買い求めてのカツギ(担ぎ、担ぎ人)は魚籠を一荷にして、オーコ(天秤棒)で担ぎ、何人かのカツギがリレーで駆けて交代で吉備高原まで運んだ。
カツギは、運んだ距離によって賃金をもらった。
昭和10年頃までのことである。

サワラ
5月初め魚島でよく捕れる。
寄島町安倉などの漁港に荷揚げして、何人かのカツギがリレー式に魚籠を担いで、県中部(吉備高原)の村々に春のサワラを売った。
刺し身、煮つけ、塩焼き、なます、あら煮、吸い物、茶漬け、味噌漬けにする。
寒ザワラは、脂がのっておいしい。

ブリ
出世魚で祝い品、贈答品として使われる。
正月における本来の年玉である。

 

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ブエンの魚
ブエンの魚は年に数回、祭りや特別の場合に食べられたにすぎない。
春のサワラブルマイ、春ザカナなどと称する行事には、
笠岡の西浜から魚仲仕によって運搬された無塩の魚が使われ、至上のぜいたくとされていた。
田植えがすんだシロミテの宴にサワラはなくてはならぬものであった。
また、
時折、訪れる行商から買う干物、塩鰯も無上のご馳走であった。
海産物ことにアラメ、切昆布などは盆のご馳走とされた。

「美星町史」  美星町 昭和51年発行
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米の飯

2023年04月18日 | 食べもの

米の飯を食べるのは年に2~3回で、
麦の入っていないご飯に強いあこがれがあった。
高校に入学する頃、やっと、家では麦飯から米の飯になった。

米の飯はうれしかったが、いったん慣れてしまうと、
あこがれていた程には美味しく感じなかった。

高校卒業後、寮の食堂が外米(長い米)だった。
食費は安かったけど、あれは美味くなかった。
タイかどこか、東南アジアから輸入しているということだった。

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米飯


米の飯を食べたのは
「正月三日に盆・祭り」
それに節供や冠婚葬祭のときであった。


「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

 

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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。


米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。


糧飯
少量の米飯とか麦飯の中に、多くの野菜とか山菜とかをいれて塩とか醤油で味付けして食べる。
大根飯、菜飯、栗飯、蜂の子飯、稗飯、粟飯、黍飯、芋飯、豆飯、鮒飯、・・・・。

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「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行

昭和40年代にはいると、米は過剰となる。
昭和45年頃から、麦飯や雑穀食、サツマ芋食はしなくなっていった。
昭和46年から、稲作転換が行われた。麦類の栽培はやめた。

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もち米・・・もちやおこわをつくる。

うるち米・・・ふだん食べる米。

精米

玄米・・・もみがらをとりのぞいたもの

精米して、

精白米・・・真っ白、やわらかくおいしい

米ぬか・・・つけもの、洗ったり、化粧品、肥料などに利用される

 

「米・麦・豆」 ポプラ社 2009年発行

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