しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

麦飯

2023年04月19日 | 食べもの

ご飯とか、晩飯、朝飯という言葉は、イコール「麦飯」だった。

茂平は農業・漁業の家で9割を占めていた。

米のご飯を食べていた家は1~2軒あるか、ないかだったように思う。

 

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「金光町史 民俗編」 金光町  平成10年発行

麦ご飯
農家でご飯といえば麦飯が当たり前であった。
どこの農家でも裸麦と小麦を栽培していた。
食用の裸麦はコピンという品種で、ヤハズは麦稈真田用の裸麦で、この実は主に家畜の餌になった。
米も麦も家で唐臼を踏んで、五分から七分程度まで搗いた。
雨が降ると唐臼踏んで、子供も学校から帰ると臼を踏んだ。
大正前後までは丸麦だったが、大正の後半から「ひしゃぎ麦」にと呼ばれる,押し麦が使われるようになった。
昭和30年ごろまでに米飯が主体となった。

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「美星町史」  美星町 昭和51年発行

主食

水田がかなりある地区でも、米を常食とすることはなく、
明治・大正のころは麦・米の比は9:1でくらいで、
貧しい家ではそれさえもできなかった。
麦よりも粟を食べることが多かった。
麦は丸麦(大麦・裸麦)で、朝炊くためには、前の日の夜、
一度煮てからソウケに打ち上げてヨマした。
丸麦一升に水二升ぐらいいれた。
主婦は一回の麦飯を炊くためには、このように二回も手を煩された。
大正の終わりころ、ヒシャ麦が普及し手数が省かれた。

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「野々浜むかし語り」  野々浜公民館 1991年発行

野々浜で百姓をしている家は、米は多くを地主に取られてあまり残らず、
麦飯を食わざるをえなかった。
大抵の家では、普段麦を2割から3割も混ぜて食べ、
米だけの飯は盆か正月位しか食わなかった。
そういえば戦時中、
小学校で米だけの弁当を持って来てはいけないと、子どもの弁当を調べたこともあったな。

 

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「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行


麦飯
麦飯にする麦は裸麦である。
荒麦をからうす(唐臼)でついて白(はく)にするといい、精白する。
たいていの家には、からうすは母屋の入口を入ると右手の壁にそってあった。
精米所を営むものができてから、精米所で平麦にしてもらった。
大正初めから第二次大戦中からのところもある。

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「福山市引野町誌」 ぎょうせい  昭和61年発行



麦は主に田の裏作として栽培された。
深津郡の裏作率は非常に高く78.5%幕藩時代から産していた。

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「米・麦・豆」 ポプラ社 2009年発行

 

大麦

平たくつぶしたおし麦を、米と混ぜて麦飯にする方法で食べられてきました。

お菓子、ビール、ウイスキー、家畜の飼料などします。

(麦茶)

大麦を炒ったもので、お湯で煮だして飲む

江戸時代から飲まれていて、夏は冷やすとおいしい、

最近はペットボトルのものが主流になっている

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