しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

高山市(こうやまいち)

2023年04月17日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県高梁市川上町と井原市芳井町

訪問日・2023年4月16日(日)

 

”弥高つつじ祭り”が4年ぶりに開催された。

つつじを見たあと、高山市(こうやまいち)を歩いた。

 

 

地図を見るとわかるけど、高山市は「備中」「備後」二か国の、ほぼ中央に位置している。
岡山県新見や、広島県東城の物資は高山市を中継地として繁栄した。

吉備高原の山間部にあるこの町は、備後に接し、
町内は川上郡・後月郡に分断され現在も岡山県高梁市と井原市に行政が分かれている。

 

・・・


「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行

高山市


高山市には毎月己の日には市が立ち、
特に春秋二度ずつの市は大にぎわいだった。
牛市・魚市・藍市・煙草市が立ち、
新見あたりでも「魚がほしけりゃ高山へ行け」と言われていたという。
成羽川と小田川の分水嶺にあり、
もとの高山市と三原村の村境が入り乱れ、旧市場敷地権のあとを残している。

もともとこの地方の交通路は、
吉備高原の尾根筋を縦横にはしり、なかでも「東城馬」という言葉が示すように、
この高山市を通る道筋は、高原の幹線道であった。
笠岡へ八里、東城へ九里の道程で、
東城の米、
笠岡の海産物を運ぶ東城馬の中継地として発達していった。
東城~河内~油木~上豊松~花済~杖立~高山市~千峰坂~吉井~井原~七日市~岩倉~蛸村~東大戸のコースを通り、
ここから小平井~追分~笠岡へ出るものと、
東大戸から西浜(ようすな)笠岡へ出るものがあり、駄送には二日を要した。

高山市の市場圏については「高山八八里」と言われ、
八里離れた八方の地点、すなわち
東城・上下・高梁・成羽・笠岡・矢掛・福山・府中と結びついていたという。

 

・・・

「備中町史」

東城-高山往来


東城・高山往来は笠岡からの魚の運搬路として発展したものと考えてよい。

笠岡から高山市まで約8里、高山市から東條間約9里、高山市から新見約10里であり、高山市を中継点として発展していった。
現在もこの地方の商人は祭礼や正月、春のさわらは、笠岡の西浜まで買いに行くことが多い。

高山市は穴門山神社の門前町として栄え、また備中国における陸路輸送の中心地であり、馬継場として繁栄した。
高山市の市場圏は10里四方といわれ、井原・笠岡からも送られてきた。
輸送機関は馬背・牛背であり、近距離では人肩で物資が運び込まれた。
東城からは、米・木炭・麦・大豆・小豆・こんにゃく・菜種等が高山市を経由して笠岡へ、
またその逆に笠岡から(七日市・井原)~高山市をヶて塩・魚類・海藻類の水産物、呉服等の日用品、砂糖、味噌等の調味料がもたらされた。

 

・・・

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斎藤の「中華そば」

2023年04月17日 | 食べもの

父はたまに笠岡に行くことがあった。
その時は”ふうまん”(=ふーまん・夫婦饅頭・大判焼)を土産に買って帰ってきた。
既にふうまんは冷えていたが、小豆のあんこがなんとも美味かった。
そして必ずのように「斎藤で支那そばを食べてきた」と言っていた。

父の笠岡行は、子ども心に「ふうまん」と「斎藤の支邦そば」がセットになっていた。
しかし「ふうまん」はわかるが、「支邦そば」はわからない。
なんだろう「支邦そば」?、蕎麦、うどん、???

何年か経つうちに「支邦そば」は「中華そば」と呼び名が変わってきた。
「即席ラーメン」という商品が田舎でも見聞きしだした。
その「ラーメン」という言葉は「中華そば」を意味することのようだった。
麺の色が黄色らしい。




高校生になって、クラスで笠岡の人がこっそりと、
「昨日斎藤が保健所に、△△したので営業停止された」と教えてくれた。
そういうことが、他にも耳に入ってきた。
それでも斎藤の前を通ると店の暖簾は出ていた。

「中華そば」の斎藤のすぐ前に、笠岡中央劇場という洋画専門の映画館があった。
土曜日の午後は、斎藤も中央劇場も高校生で溢れかえっていた。
斎藤の中華そばを食べてみたいのう。
中央劇場の洋画を見てみたいのう。

その夢はどちらも高校2年生になる前に実現できた。
斎藤の中華そばは、つゆも麺も肉も、みな美味かった。
肉やシナチクの他に、もやしや、かなぼこも乗っていた。
値段は60円だったような気がする。

あの肉は斎藤独自の特殊な豚肉だろうな、
と思っていたが、
アレは豚でなくニワトリの肉だと知ったのは、高校を出てから何年も経ってからのこと。
今では、汁の中に指があることが地方誌でも記されているが、
あの時代は安全も衛生も、その程度のことは、自分たちの家庭の中にありふれた事であって、
気にする人はいなかった。
それを言うのは、
斎藤が「支那そば」から始まり「中華そば」店となり、最後の「ラーメン」店となった店仕舞い頃のことだと思う。

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サツマイモ

2023年04月16日 | 食べもの

農家の母屋の床下に芋壷があった。
スクモの中にサツマイモを入れていて、それを年中食べていた。
ふかし芋は大人の間食、子供のおやつを代表するものだった。

ふかし芋は戸棚に必ずあるもので、三食以外の腹の足しにしていた。
焼き芋・天ぷら・あんころ・切り干し・混ぜ飯等でも食べた。

笠岡には江戸時代”芋”代官がいて、昭和に”芋”博物館もあった。

 

・・・・

 

「金光町史 民俗編」 金光町  平成10年発行


サツマイモ


サツマイモは大切なご飯の足しであった。
納屋や下の間の下に穴を掘って芋床を作り、芋を山のように入れて、間にすくもを入れて保存した。
特に戦時中にはサツマイモ、ジャガイモ、南瓜は人々の命を支えた大切な主食であった。


「金光町史 民俗編」 金光町  平成10年発行

 

・・・・・

 

「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行


サツマイモ

米の代用によく食べた。
また第二次大戦中、砂糖の代用にイモヨウカン、イモアメを作った。

・・


「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行


サツマイモ(薩摩芋・甘藷)


原産地・メキシコ、ガテマラ
アメリカからヨーロッパに渡り、
日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。
九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。

 

 

・・・

「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より

サツマ芋


サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて普及し、その遺徳は芋代官と呼ばれた。
荒地、開墾地もけっこう育ち、豊凶が少なく、税の対象にもならなかった。
熱帯作物で腐りやすいので、いも壷を床下に大きな竪穴を掘り小麦藁を立て,底にはスクモを敷きサツマ芋を並べ、そのまた上にスクモを入れていた。
こうして年中食べる分を入れておいた。

 ・・・・


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


薩摩芋


サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。

 

・・・

芋飴

 
(母の話)
芋あめは売りにきょうた。たくみさんのとこで。戦後神戸から帰ってきて。
おばさんは「テンプラはどうですか?」いうて売りにきょうた。おじさんは自転車でトウフを売りにきょうた。
トウフは朝作って、それから芋飴をつくりょうた。子供のいーさんは1番じゃった。中学を卒業する時に引揚げて神戸にいんだ。

(父の話)
さつま芋で。芋を買うて作りょうたんじゃけい、高いもんにつく。狭い家に住んどったが、なんでもやりょうた。

 

 20002年10月14日

 

・・・

 

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おやつ・間食

2023年04月16日 | 食べもの

「おやつ」でまっ先に思い浮かべるのは、「ふかし芋」。よく食べた。

後年、大人が「焼き芋屋」でお金を払って買うのを知って、一瞬信じられなかった。

 


家にあるおやつ。
ふかし芋・はったいこ・炒り豆・吊るし柿・干しイチジク・あられ餅・柿・

子供が自給するもの。
びーびー・しーしー・ぽんぽん・ゆすらうめ・なつめ・ニッキ(にっけい)・どんがめ・さるきん・蜂の子・食用カエル・

買う物
飴玉・キャラメル・


行商
パンパン菓子・アイスキャンデー・

・・・

(母の話)


芋あめは売りにきょうた。
たくみさんのとこで。戦後神戸から帰ってきて。

金浦からは小麦を買いにきょうた。小麦を出せば、ちいとばあ「せんべい」をくれてんじゃ。
大事にしておやつにして食びょうた。

そのころはポン菓子が来ればようしょうた。


 2002年10月14日

・・・・・

「金光町史民俗編」 金光町 平成10年発行

おやつ

飴玉
大きな飴玉は二銭した。
お菓子を買って食べることはまれであった。

大豆やソラ豆を煎ったもの
氷餅を焼く
アラレを煎る
グミ、ユスラ、イタドリ
そら豆の塩ゆで

・・・・

「福山市引野町誌」 引野町 昭和61年発行
間食
ふかしいも
焼き芋
そらまめ、えんどう、など豆類を炒ったもの
吊るし柿
果物

・・・

「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

子供の間食
春にはグイビやユスラ・ノイチゴ・シャッポン・シイトーなど。
竹の皮を三角形に包み、なかに梅漬けのシソを入れ、角から吸う。
炒った大豆やそら豆・アラレ・カキ餅など。
夏には、
ビービー・サトウキビ・スイカ・マクワウリ・ヒシの実・
ヒシの実は塩ゆでして皮をむく。
トウモロコシは蒸したり焼く。
秋には、
ヤマブドウ・ヤマナスビ・アサドリ・カキ・カキのずくし・ミカン・キンカン・アケビ・ガラビ・桑の実などを食べた。
ニッケイの根を掘って、根を噛んだり、羽柄も噛むことがあった。
ゆでた栗や蒸したサツマイモも間食であった。
ハチの子やハミを食べる。
ハミは皮をむき、骨を干す。
焼いて食べたり、焼いた骨をすり鉢ですって粉にして飲む。
薬になるという。
丸ごと焼酎漬けにする家もある。

・・・
「矢掛町史民俗編」 矢掛町 昭和55年発行

こどものおやつ
豆類が多く、
ソラマメ、大豆のいりまめ、あげまめ。
山野のものとして、
アサダレ、グイビ、アケミ、山ナスビなどを採った。

・・・



「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行
炒り粉
炒り粉と呼んでいるが、麦コガシ・ハッタイコともいう。
裸麦をほうろくで炒って粉にしたものを茶碗にいれ、
塩または砂糖を加えて、熱湯あるいは水をそそいで箸でかきまぜて食べる。

 

・・・

砂糖
たいていの家で、子供の間食用にサトウキビを植えていた。
軸を噛み、甘い汁を吸った。
「鴨方町史民俗編」 鴨方町 昭和60年発行

・・・

野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

トウモロコシ
米・麦とともに主食としても食べられる世界三大穀物。

・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

子供の間食

冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、
春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フームーサー、野苺、イタドリ、竹の実・・。
夏には、桑の実、野苺、オオカワイチゴ、ホンボロイチゴ、ビワ・・・。
秋には、トウガキ、ザクロ、アサダレ、ヤマブドウ、ナツメ、ニッケー・・。
冬には、アラレ。

・・・

「成羽町史民俗編」  成羽町 平成3年発行

子どものおやつ
小どものおやつは、買い与えることはなく、農産物を加工したもお、又は果物等であった。
大豆を炒ったもの、餅を切って干した「あられ」「かき餅」「炒り粉」等であった。
正月餅と同時に搗いたり、あられは薄板に伸ばし四角に揃えこれを切って作った。
麦を炒って粉にした炒り粉は、熱湯を入れて食べた。砂糖を入れたものは上等であった。
山の幸を自分で採ってあやつとしたもの。
柿・栗・アケビ・クルミ・苺・いたどり・びわ・山梨。
蜂の巣から蜂の子をとる。

・・・

 

 

 

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パンと昭和

2023年04月15日 | 食べもの

パンは「アンパン」しか知らなかった。

小学校の3~4年生のころ、「完全給食」と呼ばれる学校給食が始まってから
コッペパン」というパンを知った。給食がある日にはコッペパンを食べていた。
人造バターでコッペパンを食べていたが、時折、小さく切ったほんとのバターが付いていた。
バターは美味かった。

中学2年生の時、何かの授業中「家で朝、パン食の人はいるか?」の問いに
3人(クラスの生徒数57~58人中)が手を挙げた。
日本人は家では「麦めし」か「米のめし」しか思ってなかったので、
パン食の家がある事にびっくりした。
3人のうち、1人は城見小学校出の人だった。城見にもパン食がいることにまた驚いた。
3人は「食パン」というものを焼いて食べているということだった。

 

・・・

 

「パンと昭和」 小泉和子 河出書房新社  2017年発行


終戦後の混乱期の学校給食は、
調理の人手も調理器具も不足しており、ほとんどの学校が
用務員室で湯を沸かすのに使っていた大釜などを代用し、
手に持った大きなへらでかき回しながら粉乳を溶かしていた。
よく乾燥してサラサラした質のいい粉なら溶かすのも楽なのだが、
質も悪く輸送中の管理も悪い粉乳は、船便で届く間にカチカチに固まっていたりした。
全校生徒分の大量のミルクは、溶かしきれずに釜の底で焦げつき、
なんともいえない臭いがしたという。
飲みなれないミルクでお腹を壊す児童も続出したが、なんとか飲ませなくてはならない。
そこで「三角食べ」が編み出されたのである。
ミルクとパンとおかずを交互に食べ進むよう指導された。
「鼻をつまんで無理やり流し込む」ようなしろものではあったが、
豊富な栄養源(とくに動物性タンパク質)のおかげで、
子どもたちの体格は大きく向上していった。

 

・・・

昭和30年代はコッペパン世代、40年代は食パン世代

その学校給食は「コッペパン」から始まった。
コッペパンは戦中から戦後にかけての配給時代に広まった日本独自のパンである。
当時の献立表には「パン」としか書かれていないが、ほぼ毎食コッペパン。
1971年(昭和51)「コメ余り」を背景に学校給食施行規則が改正され、米飯が導入された。

 

・・・・・

「日本の食はどう変わってきたか」  原田信男 角川選書 平成25年発行

水車の発展と粉商売

中世後期まで、水車を製粉の動力として用いたような形跡はうかがえず、
水田稲作が優先された日本では、揚水が目的であったと思われる。
全国的にみても、各地に水車が出現するようになるのは17世紀末頃のことで、
大都市では膨大な蕎麦が消費されていたが
まさに水車による製粉の開始は、こうした麵食の普及に対応するものであった。

粉食の展開

粉食は、製粉という過程を経なければならず、非常な手間を要することになる。
その意味では、粒食が可能である米をわざわざ粉食とするのは、
いわばハレを演出するための工夫であった。
すなわち正月儀式や人生儀式などに、餅・菓子が供されるのは、
同じ米を用いながらも、節目にはケとは異なった味覚を楽しもうとする目的があったとすべきだろう。

・・・

索麺
索麺は、小麦粉を食塩水で練って紐状とし、これに綿実油を塗って細くのばして熟成させた後、天日で乾燥させたもので、長期保存が利くことから、
乾燥地帯では農家の冬期の副業として広く生産された。

うどん
うどんは、小麦粉に塩を入れて打つが、夏と冬では冬に水を多くすべきで、
煮ぬき汁、垂れ味噌が合う、としている。


・・・・

軍事と軍隊

肉食と洋食の展開に果たした軍事と軍隊の役割は見逃すわけにはいかない。
肉食によって強健な身体をつくることができる。
卵や乳製品の栄養分も啓蒙された。
しかし毎日毎日の白い米の飯は、もともと米食を悲願としてきた人々からすれば、憧れの実現であった。
脚気のため、
陸軍では玄米を混入、海軍ではパン食を導入、肉食を増やすことにした。
陸軍では魚肉の缶詰、とくに牛肉大和煮缶詰は、米飯との相性も良く、栄養価も高く保存性・簡便性にすぐれて需要が高まり、日露戦争ではほとんどが牛肉大和に煮であった。
多くの民衆が軍隊で肉食の味を覚えたのである。

大正期の食文化
大正にはいると、都市には新たにサラリーマン階層が生まれて、
洋食文化が広く定着するようになった。
いわゆる三大洋食とされるトンカツ・コロッケ・カレーのほか、
オムレツやシチューも流行をみた。
ただ大正9年の国勢調査では就業男子の80%が農林水産業で、
食文化の大きな特徴の一つに地域差・階層差が著しいという傾向がある点に、留意しておく必要はあろう。

・・・・・

「日本の食探検」  長友麻希子 京都新聞  2007年発行

アンパン誕生

パンの伝来は、ポルトガル船が種子島に漂着した時といわれています。
パンが再び脚光を浴びたのは幕末になってからです。
携行に便利な兵糧として見直されたのでした。
米を炊く余裕のない戦場では、すぐ食べられるパンは貴重な食品です。
明治元年、薩摩軍は黒ごまパンを食べたそうです。
一気に普及したきっかけは、明治7年のアンパンの誕生。
木村安兵衛が考案したもので、
日本人好みのまんじゅうに似たアンパンは、たちまち評判になり、一般にもパンが親しまれるようになったのです。

・・・・・・

 

 

 

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ハレの日の食べもの  

2023年04月15日 | 食べもの

食べもの限定で「ハレの日」といえば、秋祭り、しか思い浮かばない。

正月はハレの日であるが雑煮と重箱(おせち)で、ご馳走といった感じはしなかった。
食べものに限れば、「ハレの日」は年に一度の秋祭りの一日だけだったように思う。
ご馳走は、田植え時の「しろみて」もあったが、ハレの日とは言わない。
運動会や遠足や学芸会の日は巻き寿司やキツネ寿司があった。


結婚式(嫁どり)や棟上げは「ハレの日」だが、そのそも何十年に一・二度しかない。

 

・・・・

ハレの日・ハレの食事



県南地方ではバラ鮨を作り、全県的に巻鮨、狐鮨、押抜鮨が作られる。

赤飯
赤飯はオコワともウムシ(蒸し)ともアカメシともいう。
糯米とタダ米(粳米)を混ぜて甑で蒸す。
別の釜で煮た小豆またはササゲを上から入れてしばらく蒸す。


正月用や節句に搗くほかクゲイ(クガイ)の贈答に用いる。
自分の家で食べる米の餅はなるべく倹約をして黍餅や粟餅を多く用いるようにした。

柏餅
カシワともいう。
米の粉の団子の中に餡をいれる。木の葉につつむ。
5月5日の節句に作る。
甑で蒸すことが多いが、羽釜の底に簀の子をいれて蒸気で蒸すこともある。

清酒
正月、節句、田植、秋祭、亥の子などの日や結婚式、建前などの他は、ほとんど買わなかった。

甘酒
笠岡地方では、旧1月11日の鍬ぞめにはカドに並べた農具や門松に甘酒を少しずつ供え、人も飲んだ。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

・・・・・

秋祭

一年中での、一番のご馳走を作るのが秋祭である。
何日も前から準備し、女は忙しい。
早朝に鮮魚の行商人が魚市をたてたりする。
カニ、イカ、タコを買う。
その他エビ、鯖、ナマコを買う。
揚げ芋を必ず作った。
狐鮨、巻鮨も作った。
お客には重箱へ一杯鮨を入れ、もう一つの重箱へ揚げ芋、魚、リンゴなどを入れて土産とした。
昭和36年頃から祭の客をしない家が多くなった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

・・・・・

(父の話)

さしみ
年に数えるほどじゃ。


酒を飲む

酒を飲むのは。
田植えの済んだ後とか。
収穫の秋とか。
春と、秋と・・・年3ぺんくらいかのぅ。
談・2002・9・23

・・・

(母の話)

雑な肉でも、肉がはいっとればおおごちそう、じゃった。
祭りや正月じゃいえば、江原から肉を売りにきょうた。
安い馬肉を楽しみにしょうた。

2000・12・17

・・・・

(母の話)

昔のボニゆうたら「かんぴょう」や「さつま」や「じゃがいも」や、ボニのごちそうゆうたら決まっとった。
昔は炊いて食びょうたんじゃ。
ボニのにしめをするするゆうたら、かんぴょうがなければできんゆうてようた。
くくってなぁ、家でこしらえたのはおいしかりょうた。こりこりして。

2001年10月7日


・・・・・

無塩

生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


・・・・・

豆腐

たびたび買うものでなく、重労働で疲れた夕食の煮物や白和えなど作る時に買う程度だった。
「金光町史」



・・・・・


・・・・・


「鴨方町史民俗編」

秋祭りのご馳走


祭りには普段は買えないサワラやカニやタコなどの魚類を購入し、
客を呼び、また客に招かれ、親類縁者が行ったり来たりした。
ばらずしやママカリずし、巻きズシ、赤飯を必ず作り、
里芋やゴボウ、シイタケの入った煮物、魚の煮物や焼き物、
菜種油で揚げたサツマイモやレンコン、おおばの実(シノの穂)の天ぷら、
ママカリの酢漬け、甘酒などを作り客をもてなした。
また客には、
重箱に詰めたすしや料理を土産とした。
祭りは大変賑やかで楽しみな行事であったが、
主婦は土産用のすしを見越して作らねばならず、大忙しであった。

・・・

「福山市引野町誌」 引野町 昭和61年発行
弁当
花見、神楽の見物など人前で食べる弁当は豪華にした。
寿司、こんぶ、豆腐、煮豆などや煮物を重箱に入れ、
見物しながら食事した。

・・・

 



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2023年岡山県井原市・矢掛町・里庄町・浅口市・早島町・岡山市・瀬戸内市他の桜

2023年04月09日 | 令和元年~

 

2023年3月20日~4月8日

岡山県井原市・矢掛町・里庄町・浅口市・早島町・岡山市・瀬戸内市

広島県福山市

の桜。

 

今年は遠出をしなかったぶん、多くの花見ができた。

 

 

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2023年岡山県笠岡市の桜

2023年04月09日 | 令和元年~

 

2023年3月24日~4月8日、笠岡市の桜を見た。

今年は晴れの日が多く、よく花見ができた。

 

 

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