しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

美星町八日市

2023年04月17日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県井原市美星町黒忠

訪問日・2023.4.16

 

美星町の八日市は山々がひろがる美星町に、突然のような商店街が出現する。
江戸時代から三歳市で町並みを形成していたようだ。

 

・・・・

「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行


黒忠八日市


黒忠八日市は、毎月八日、十八日、二十八日に市が立つ三歳市として、
近郊農村の中心として栄えた。
特に七月八日の盆市と、十二月十八日の暮の市とはともに大市であった。
川上郡・小田郡・後月郡の境界にあたり、
近くの村々はもちろんのこと、
成羽・地頭・井原・矢掛など各方面からの交通路が早くから通じ、
明治中期まで三斎市が立っていたのである。
笠岡や西浜(ようすな)からは魚や塩、
成羽・領家からアユ、
井原から酒と餅などが搬入され、
八日市は主として食べ物を扱い、
市には、民家のおもてを借りて商いをした。
暮の大市は、
コンブ・タイ・ハマグリ・ブリなど正月用品が商われて大にぎわいをした。
農家は、藍葉粉、タバコ葉を売りに出した。

明治中期幹線道路が谷筋を通るようになり、葉タバコの専売制や藍の衰退により、
三斎市は取り止めとなった。

・・・・

・・・

「美星町史」 美星町 昭和51年発行

近世・黒忠村

黒忠村高内原
高内原には八日市がある。
この市場は毎月8日、18日、28日の3日間、市が立って、
最寄りの村々から時の産物、諸品が売物に持ち出された。
7月8日と12月8日は大市だった。
おびす祭の入用銭として売物に応じて底銭を集めていた。

同じ三歳市であった後月郡東三原村枝郷高山上市は古くから毎月5日、15日、25日の三度と2月10日の巳の日に市を立ててきたので、諸商人が近国近辺より商品を持って売買市が立っていた。
文政2年(1819)ごろには、隣村の川上郡高山市村が新市場として繁盛するようになり、穀物、古着、小間物商が出入りを始めた。

 

・・・

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高山市(こうやまいち)

2023年04月17日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県高梁市川上町と井原市芳井町

訪問日・2023年4月16日(日)

 

”弥高つつじ祭り”が4年ぶりに開催された。

つつじを見たあと、高山市(こうやまいち)を歩いた。

 

 

地図を見るとわかるけど、高山市は「備中」「備後」二か国の、ほぼ中央に位置している。
岡山県新見や、広島県東城の物資は高山市を中継地として繁栄した。

吉備高原の山間部にあるこの町は、備後に接し、
町内は川上郡・後月郡に分断され現在も岡山県高梁市と井原市に行政が分かれている。

 

・・・


「岡山県史・自然風土」 岡山県 山陽新聞社 昭和58年発行

高山市


高山市には毎月己の日には市が立ち、
特に春秋二度ずつの市は大にぎわいだった。
牛市・魚市・藍市・煙草市が立ち、
新見あたりでも「魚がほしけりゃ高山へ行け」と言われていたという。
成羽川と小田川の分水嶺にあり、
もとの高山市と三原村の村境が入り乱れ、旧市場敷地権のあとを残している。

もともとこの地方の交通路は、
吉備高原の尾根筋を縦横にはしり、なかでも「東城馬」という言葉が示すように、
この高山市を通る道筋は、高原の幹線道であった。
笠岡へ八里、東城へ九里の道程で、
東城の米、
笠岡の海産物を運ぶ東城馬の中継地として発達していった。
東城~河内~油木~上豊松~花済~杖立~高山市~千峰坂~吉井~井原~七日市~岩倉~蛸村~東大戸のコースを通り、
ここから小平井~追分~笠岡へ出るものと、
東大戸から西浜(ようすな)笠岡へ出るものがあり、駄送には二日を要した。

高山市の市場圏については「高山八八里」と言われ、
八里離れた八方の地点、すなわち
東城・上下・高梁・成羽・笠岡・矢掛・福山・府中と結びついていたという。

 

・・・

「備中町史」

東城-高山往来


東城・高山往来は笠岡からの魚の運搬路として発展したものと考えてよい。

笠岡から高山市まで約8里、高山市から東條間約9里、高山市から新見約10里であり、高山市を中継点として発展していった。
現在もこの地方の商人は祭礼や正月、春のさわらは、笠岡の西浜まで買いに行くことが多い。

高山市は穴門山神社の門前町として栄え、また備中国における陸路輸送の中心地であり、馬継場として繁栄した。
高山市の市場圏は10里四方といわれ、井原・笠岡からも送られてきた。
輸送機関は馬背・牛背であり、近距離では人肩で物資が運び込まれた。
東城からは、米・木炭・麦・大豆・小豆・こんにゃく・菜種等が高山市を経由して笠岡へ、
またその逆に笠岡から(七日市・井原)~高山市をヶて塩・魚類・海藻類の水産物、呉服等の日用品、砂糖、味噌等の調味料がもたらされた。

 

・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

斎藤の「中華そば」

2023年04月17日 | 食べもの

父はたまに笠岡に行くことがあった。
その時は”ふうまん”(=ふーまん・夫婦饅頭・大判焼)を土産に買って帰ってきた。
既にふうまんは冷えていたが、小豆のあんこがなんとも美味かった。
そして必ずのように「斎藤で支那そばを食べてきた」と言っていた。

父の笠岡行は、子ども心に「ふうまん」と「斎藤の支邦そば」がセットになっていた。
しかし「ふうまん」はわかるが、「支邦そば」はわからない。
なんだろう「支邦そば」?、蕎麦、うどん、???

何年か経つうちに「支邦そば」は「中華そば」と呼び名が変わってきた。
「即席ラーメン」という商品が田舎でも見聞きしだした。
その「ラーメン」という言葉は「中華そば」を意味することのようだった。
麺の色が黄色らしい。




高校生になって、クラスで笠岡の人がこっそりと、
「昨日斎藤が保健所に、△△したので営業停止された」と教えてくれた。
そういうことが、他にも耳に入ってきた。
それでも斎藤の前を通ると店の暖簾は出ていた。

「中華そば」の斎藤のすぐ前に、笠岡中央劇場という洋画専門の映画館があった。
土曜日の午後は、斎藤も中央劇場も高校生で溢れかえっていた。
斎藤の中華そばを食べてみたいのう。
中央劇場の洋画を見てみたいのう。

その夢はどちらも高校2年生になる前に実現できた。
斎藤の中華そばは、つゆも麺も肉も、みな美味かった。
肉やシナチクの他に、もやしや、かなぼこも乗っていた。
値段は60円だったような気がする。

あの肉は斎藤独自の特殊な豚肉だろうな、
と思っていたが、
アレは豚でなくニワトリの肉だと知ったのは、高校を出てから何年も経ってからのこと。
今では、汁の中に指があることが地方誌でも記されているが、
あの時代は安全も衛生も、その程度のことは、自分たちの家庭の中にありふれた事であって、
気にする人はいなかった。
それを言うのは、
斎藤が「支那そば」から始まり「中華そば」店となり、最後の「ラーメン」店となった店仕舞い頃のことだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする