しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「新選組始末記」島原の角屋  (京都市島原)

2024年06月15日 | 旅と文学

「新選組始末記」は、作者・子母澤寛の取材の熱意と汗が伝わってくる作品だ。
新選組と、その関係者への取材は、人間の寿命があり時間が限られる。
大正末から昭和初期、日夜を惜しんでぎりぎり間に合ったと思える。
この作品のおかげでその後、多くの新選組の作品が生まれた。

 


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旅の場所・京都市下京区(島原大門・角屋)
旅の日・2020年1月30日                
書名・「新選組始末記」
著者・子母澤寛
発行・中公文庫  昭和52年発行

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島原の角屋

守護職会津侯、直々のお預りというので、京の町奉行与力同心も、新選組のする事については、 
良きにつけ、悪しきにつけ、見て見ぬふりをしているので、
その勢力が強くなるに従って、芹沢鴨は、性来の乱暴狼藉をはじめて来る。
世上これを「壬生浪士」といったが、蔭口には誰も「浪士」とは言わずただ「壬生浪壬生浪」といった。

芹沢はひどく大酒で、酔ってくると、段々むずかしい顔になり、誰彼の見境いもなくなるのである。
言わば、酒乱だが、何しろ腕が出来る上に、底の知れない腕力があり、さあ一旦暴れ出したとなると、その取鎮めに骨が折れる。
酔わない時には、ざっくばらんな如何にも豪傑らしいいい気質の人物であった。

この文久三年の六月末に、水口藩の公用方が、会津の藩邸へ出かけた時の雑談に、うっかり新選組の乱暴を話したというので、
芹沢は、永倉新八、原田左之助、井上源三郎、武田観柳の四人を、水口藩邸にねじ込ませ、公用人を生捕りにしようと騒ぎ立てたが、
二条通りに直心影流の道場を開いている戸田栄之助という剣客が、その間に入って口を利き、漸く芹沢を納得させて、
隊士一同を、島原の角屋に招待した事がある。

その酒席で、角屋の取扱いに気に入らぬ事があるといって、芹沢は、例の尽忠報国の大鉄扇を振り廻して、
膳椀から瀬戸物一切、手当り次第に打壊し、その上、二階の階段の欄干を引抜いて、これをもって帳場へ下り、酒樽を打割り、
更らに流し場へ行って、料理の器物という器物、殆んど一つ残さず滅茶滅茶にして終った。
家内の者は、忽ち逃げ去ったので、別に負傷者はなかったが、芹沢はそれ位では満足せず、遂に隊名を以って、
「角屋徳右衛門不埒の所為あるにつき七日間謹慎申付ける」旨を言渡した。
この角屋処分の一件には、島原廊内が慄え上った。

 

 

 

だんだら染の制服羽織

勇士はぞくぞく集まったが、貧乏世帯には困り果てて、局長筆頭の芹沢が、
自から、山南敬助、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 平山五郎、野口健司、平間重助の七人を引つれて、大阪へ出かけ、
鴻池善右衛門へ談じ込んで、金子二百両を借りて来た。

すぐに、松原通りの大丸呉服店を呼びつけて、麻の羽織、紋付の単衣、小倉の袴、ことに羽織は、公式の場合着用するものだからといって、
浅黄地の袖へ、だんだら染を染抜いて、一寸、義士の討入に着たようなものを、隊士全部の寸法をとらせて、注文した。
この羽織は、それから永く、新選組の制服になった。
ああ、よかった、と一同喜んだが、これをきいた会津侯は、少しびっくりした。
幕府が立つか倒れるかの、高等政策に、日も夜も足らぬ忙しさをつづけて、遂いうっかりしていたが、
これは如何にも浪士を預っている当方の手落ちだというので、すぐに、藩の公用人から芹沢を呼出して、 
「商人どもから金子を借用したとあっては、如何にも肥後守の不明という事になる。金子二百両は、当家から支出するから、
早速返済致すよう。今後は当方に於ても注意はするが、不足の事については、その都度公用方まで申出るがよろしかろう」
と申渡した。

 

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