1180年東大寺の伽藍が焼け、奈良の大仏は首から落ちた。
清盛の命による平家の「南都焼き討ち」だが、
その後、重源による東大寺復興や、
「歌舞伎十八番」勧進帳もよく知られている。
大仏はその後、1567年に松永秀久によって二度目の落首。
現在の大仏様は、頭部が江戸時代、腹部が鎌倉時代、下部が奈良時代のもののようだ。
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旅の場所・奈良県奈良市・奈良公園
旅の日・2021年11月5日
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」古川日出男 河出書房新社 2016年発行
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奈良炎上
「よし、南都も攻めてしまえ!」
大将軍には頭の中将平重衡、副将軍には中宮の亮平通盛、すなわち入道清盛公の子息と甥でございます。
この二人がつごう四万余騎を率いまして、奈良へ向かって出発しました。
邀え撃たんとする興福寺の大衆は、老人もいれば若いのもいる、そうした年のほどなど区別せずに七千余人が兜の緒を締め、
奈良坂と般若寺の二カ所の道に堀を作ります。
道を掘り切って断ってしまい、また搔楯をしつらえまして、
それから逆茂木を並べて待ち構えます。
平家方はと申せば、四万余騎のその軍勢を二手に分け、奈良坂と般若寺の二カ所の城郭に押し寄せて、どっと鬨の声をあげました。
官軍は馬、駆けまわり駆けまわり、もちろん弓矢も擁する。
興福寺の大衆をあそこに追い、ここに追いつめ、ああ、そこにいる限りの者全部が討たれます。
無間地獄といった炎の底の罪人どもの発する声も、これには過ぎまいと思われた一大叫喚なのでございました。
ああ。 興福寺は藤原氏代々の氏寺です。
東金堂にましますのは仏法伝来と同時に我が国に渡ってきた最初の釈迦の像ですし、
西金堂にましますのは自然にこの世に湧いて出た観世音像でございます。
それから九輪が空に輝く二基の塔がございます。いえ、ございました。
この日、この夜に、一切はたちまち煙となったのです。
なんたる悲しさ。
東大寺には大仏像がましました。
常在不滅で、実報と寂光の二土に通じる生身の御仏に象られあそばされて、聖武天皇がご自身で磨きたてられた、金銅十六丈の盧遮那仏が。
お首は焼け落ちて大地にある。
お身体はと申せば鎔け崩れて、ただ山のよう。
なんたる、ああ。
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