しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

砂の器  (島根県亀嵩)

2024年05月21日 | 旅と文学

松下電器の松下幸之助さんが毎年、日本の納税額NO1を続けていた頃、
作家部門のそれは松本清張さんだった。

清張さんが書く推理小説はどれも皆、売れに売れ、読まれ、映画化もされた。
清張さんは何かの本の中で、
「小説よりも、映画の方が出来がいい作品が二つある」
と語っていた。
二つは覚えてないが、一つの方は「砂の器」だった。

「砂の器」は本も売れ、映画も日本中の話題になるほど大ヒットした。
奥出雲のズーズー弁も全国に知られるようになった。
街角に立つ、「砂の器」映画ポスターが物悲しく、人々の興味をそそった。

 

 


亀嵩駅(かめだけ)

今西栄太郎は、
「出雲のこんなところに、東北と同じズーズー弁が使われていようとは思われませんでした」
今西はうれしさを押さえて言った。
今度は、出雲から「亀」の字を探すのである。…すると、途中で、思わず息をのんだ。
「亀嵩」とあるではないか。

今西栄太郎は、署長の好意で出してくれたジープに乗って亀嵩に向かった。
道は絶えず線路に沿っている。
両方から谷が迫って、ほとんど田畑というものはなかった。
そのせいか、ところどころに見かける部落は貧しそうだった。
出雲三成の駅から四キロも行くと、亀嵩の駅になる。

・・・

旅の場所・島根県仁多郡奥出雲町郡  
旅の日・2020.10.28
書名・砂の器
原作者・松本清張
発行・新潮文庫 昭和48年

 ・・・

 


今西栄太郎は、長いこと考えこんだ。
彼の目には、初夏の亀嵩街道が映っている。
ある暑い日、この街道を親子連れの遍路乞食があるいてきた。
父親は全身に膿を出し、
この不幸な親子を見かけた三木駐在巡査は本人に説いて、岡山県の慈光園に入院の 手続きを取った。
連れていた男の子は七歳であった。
三木巡査はその子を保護していた。
だが、父親とともに放浪生活をしていたその子は、巡査の世話になじめなかった。
ある日、彼は、 突然脱走した。
七つの子は、垢と埃にまみれながら、中国山脈の脊梁を南に越えた。彼は、それから二つの道のどれかをとった。

一つは、広島県の北境の比婆郡に出ることだ。
一つは、備後落合から作州津山に抜けて岡山に出ることだ。
その男の子はどの道を歩いていったのだろうか。
――いや、その子は、中国山脈を越えなくてもいい。彼は父親といっしょに来た方角へ、一人で引き返したかもしれない。
それは宍道に出て、安来、米子と歩いていく のだ。さらに、そこから、鳥取の方へいったかもしれない。
浮浪児の取った放浪の道は、こうした三つが定できる。だが、いずれの道を取ったとしても、彼が大阪に出たであろうことは事実だ。
浮浪児は、大阪で、ある人間に拾われた。
拾った人間は、この子をどのように育てたか。

 

 

次に今西栄太郎が立ちあがった。
「ここに本浦秀夫という男がございます。
秀夫は、昭和六年九月二十三日生まれであります。
その父本浦千代吉は、原籍地、石川県江沼郡××村でありまして、中年にしてライが発病し、妻マサと離婚しました。

本浦千代吉は、発病以後、流浪の旅をつづけておりましたが、
おそらく、これは自己の業病をなおすために、信仰をかねて遍路姿で放浪していたことと考えられます。
本浦千代吉は、昭和十三年に、当時七歳であった長男秀夫をつれ、島根県仁多郡仁多町字亀嵩付近に到達したのでありました。
このとき、亀嵩駐在所に三木謙一という 親切な巡査がおりました。
同巡査は、まことに、立派な警察官でありまして、今でも、同巡査の善行は、同地方で語りぐさとなって伝えられてお ります」

三木巡査の親切にもかかわらず、亀嵩を脱走いたしまして、一人で、いずこともなく去っていきました。
これが、そもそも今度の悲劇的な事件の発端であります............」

 

 

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二十四の瞳  (香川県小豆島)

2024年05月21日 | 旅と文学

小説「二十四の瞳」は、文学作品として有名だが、それよりも
日本映画史上を代表する名画として「映画史」に残る作品。


映画の脚本は、ほぼ原作通り。
小説を映画のために変えてなく、映画でも原作を味わえる。
小豆島や瀬戸内海の風景が美しい。

 


小石先生

十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。 
昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、
対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。
小学校の生徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの本村の小学校へかようのである。 

 

 

 

旅の場所・香川県小豆島町田浦「 二十四の瞳映画村」  
旅の日・2007.5.3 
書名・二十四の瞳
原作者・壷井栄
発行・岩波文庫 2018年発行

 

 

泣きみそ先生

近年、村の柿の木も、栗の木も、熟れるまで実がなっていたことがなかった。 
みんな待ちきれなかったのだ。
子どもらはいつも野に出て、茅花をたべ、いたどりをたべ、すいばをかじった。
土のついたさつまをなまでたべた。
みんな回虫がいるらしく、顔色がわるかった。
病気になっても村に医者はいなかった。
よくきく薬もなかった。
医者も薬も戦争にいっていたのだ。
村の善法寺さんまでが出征して留守だった。

・・・

今日、「二十四の瞳」の大石先生の長女の死を読んでいたら、
茂平の同い年の女の子「やえちゃん」のことを思い出した。

 

やえちゃんの家とは少し離れていたが、畑が隣どうしだった。
笹舟を作って、川に流して、どちらの舟が長く流れるか競争してあそんだ。

やえちゃんと遊んで三日も経たない時、
「やえちゃんが死んだ」と聞かされた。
やえちゃんは畑で生のナスビをかじって食べたそうだ。
それが悪くて、赤痢か何かの伝染病になってすぐに死んだ。
自分が、やえちゃんの死を知った時には、
既に話は(死体を)「焼くのが大変だった」に移っていた。
当時は伝染病の死者だけが焼かれた。
茂平の海岸の、一番東の端が「焼き場」で、そこで骨になった。

 

 

ある晴れた日に


「はい、一本松の写真!」
となりの吉次は驚きでいった。
「ちっとは見えるんかいや、ソンキ。」
「目玉がないんじゃで、キッチン。
それでもな、この写真は見えるんじゃ。
な、ほら、 まん中のこれが先生じゃろ。
先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ。
マッちゃんが左の小指を一本にぎり残して、手をくんどる。それから――。」
磯吉は確信をもって、そのならんでいる級友のひとりひとりを、人さし指でおさえる。

 

 

 

 

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