松下電器の松下幸之助さんが毎年、日本の納税額NO1を続けていた頃、
作家部門のそれは松本清張さんだった。
清張さんが書く推理小説はどれも皆、売れに売れ、読まれ、映画化もされた。
清張さんは何かの本の中で、
「小説よりも、映画の方が出来がいい作品が二つある」
と語っていた。
二つは覚えてないが、一つの方は「砂の器」だった。
「砂の器」は本も売れ、映画も日本中の話題になるほど大ヒットした。
奥出雲のズーズー弁も全国に知られるようになった。
街角に立つ、「砂の器」映画ポスターが物悲しく、人々の興味をそそった。
亀嵩駅(かめだけ)
今西栄太郎は、
「出雲のこんなところに、東北と同じズーズー弁が使われていようとは思われませんでした」
今西はうれしさを押さえて言った。
今度は、出雲から「亀」の字を探すのである。…すると、途中で、思わず息をのんだ。
「亀嵩」とあるではないか。
今西栄太郎は、署長の好意で出してくれたジープに乗って亀嵩に向かった。
道は絶えず線路に沿っている。
両方から谷が迫って、ほとんど田畑というものはなかった。
そのせいか、ところどころに見かける部落は貧しそうだった。
出雲三成の駅から四キロも行くと、亀嵩の駅になる。
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旅の場所・島根県仁多郡奥出雲町郡
旅の日・2020.10.28
書名・砂の器
原作者・松本清張
発行・新潮文庫 昭和48年
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今西栄太郎は、長いこと考えこんだ。
彼の目には、初夏の亀嵩街道が映っている。
ある暑い日、この街道を親子連れの遍路乞食があるいてきた。
父親は全身に膿を出し、
この不幸な親子を見かけた三木駐在巡査は本人に説いて、岡山県の慈光園に入院の 手続きを取った。
連れていた男の子は七歳であった。
三木巡査はその子を保護していた。
だが、父親とともに放浪生活をしていたその子は、巡査の世話になじめなかった。
ある日、彼は、 突然脱走した。
七つの子は、垢と埃にまみれながら、中国山脈の脊梁を南に越えた。彼は、それから二つの道のどれかをとった。
一つは、広島県の北境の比婆郡に出ることだ。
一つは、備後落合から作州津山に抜けて岡山に出ることだ。
その男の子はどの道を歩いていったのだろうか。
――いや、その子は、中国山脈を越えなくてもいい。彼は父親といっしょに来た方角へ、一人で引き返したかもしれない。
それは宍道に出て、安来、米子と歩いていく のだ。さらに、そこから、鳥取の方へいったかもしれない。
浮浪児の取った放浪の道は、こうした三つが定できる。だが、いずれの道を取ったとしても、彼が大阪に出たであろうことは事実だ。
浮浪児は、大阪で、ある人間に拾われた。
拾った人間は、この子をどのように育てたか。
次に今西栄太郎が立ちあがった。
「ここに本浦秀夫という男がございます。
秀夫は、昭和六年九月二十三日生まれであります。
その父本浦千代吉は、原籍地、石川県江沼郡××村でありまして、中年にしてライが発病し、妻マサと離婚しました。
本浦千代吉は、発病以後、流浪の旅をつづけておりましたが、
おそらく、これは自己の業病をなおすために、信仰をかねて遍路姿で放浪していたことと考えられます。
本浦千代吉は、昭和十三年に、当時七歳であった長男秀夫をつれ、島根県仁多郡仁多町字亀嵩付近に到達したのでありました。
このとき、亀嵩駐在所に三木謙一という 親切な巡査がおりました。
同巡査は、まことに、立派な警察官でありまして、今でも、同巡査の善行は、同地方で語りぐさとなって伝えられてお ります」
三木巡査の親切にもかかわらず、亀嵩を脱走いたしまして、一人で、いずこともなく去っていきました。
これが、そもそも今度の悲劇的な事件の発端であります............」