しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

笠岡工業高校がなくなる?

2024年05月10日 | 令和元年~

一学年で100人未満の生徒数の県立高校が、毎年、統廃合の対象校として新聞に載る。
今年はついに「笠岡工業高校」が載った。

 

笠岡工高は、昭和30年代末に笠岡商工から分離し、笠工となった。
笠岡商工は、昭和20年代に笠岡高と同一校だったことがある。

ということは、
再び「笠岡商工」となり、
その次は、大「笠岡」高校に戻っていくのだろうか?

 

人が減る(生まない・出る・死ぬ)、学校が無くなる、市町村が消滅していく・・・この風景はさみしい。

 

・・・

 


2024年5月2日・山陽新聞記事】

 

 

ここポイント!

岡山県教委による県立高校の再編は、歯止めのかからない少子化が最大の要因だ。
「一定の教育水準を保つには再編整備は避けられない」との考えも一理ある。
ただ、地域では統廃合による活力衰退への懸念が強い。
エリアを支える人材の輩出という役割を担う高校は「宝」とも言える存在なだけに、 
アクションプランの策定に当たっては十分に配慮しながら進めることが必要だ。
もとより、実効性を伴う少子化対策を同時に進めなければ、根源的な解決は見えてこない。

・・・

 

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阪谷朗廬(さかたに ろうろ)

2024年05月10日 | 銅像の人

場所・岡山県井原市芳井町吉井

井原市を代表する偉人の一人、阪谷朗廬。
井原市の歴史に欠かせない人物。
今も多くの井原市民に敬愛されている。

・・・


【井原の文化財】 井原市教育委員会 平成12年発行


阪谷 朗廬(さかたに ろうろ)
1822年12月29日~ 1881年1月15日。

阪谷朗廬は、現在の美星町に生まれた漢学者で、
江戸で学び、現在の芳井町で塾を開いていた。
その後、興譲館に招かれ、領内の子弟の教育を行った朗廬の名声は各地に広がり、
遠くは九州地方からの入門者もあった。 
その後、広島藩、明治政府に招かれ要職を務めるとともに、
森有礼、福沢諭吉の主催する明六社に漢学者としては唯一参加した。

 

・・・

【桜渓塾】の看板

桜渓塾

嘉永4年(1851)、阪谷朗廬が簗瀬の桜谷に漢学塾(桜渓塾)を開き、
青少年の人材育成のため大いに尽くしました。
桜渓塾の朗廬を訪ねて全国各地から漢学者や漢詩仲間がやって来て賑わいました。
嘉永6年(1853)、一橋領代官所江原役所は郷校を設立して朗廬に教授を依頼しました。 
朗廬は、これに応じ郷校興譲館へ居を移しました。
その後、15年間興譲館で子弟育成に当たり多くの人材を世に出しました。

・・・

桜渓塾は、現代の井原市を代表する有名人【千鳥・ノブ】の実家とは1~2kmの距離になる。

 

訪問日・2024年4月28日

 

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