しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「お伽草子」一寸法師  (大阪市住吉大社)

2024年05月06日 | 旅と文学

一寸法師は、親に半ば棄てられ、家出同然で京都に行った。
三条の宰相に雇われ、背丈は小さいが姫に恋した。
姫を手に入れるため謀をし、まんまと流浪の身に落とさせた。
なかなか煮ても焼いても食えない「小男」で、
自己の欲求のためには臆面もない行動をして結婚。
そして昇進を果たし、家は末長く栄えた。

それもこれも住吉大明神のご加護によるところ、だそうだ。

 

 

旅の場所・大阪府大阪市住吉区住吉「住吉大社」
旅の日・2021年12月1日     
書名・「お伽草子」
著者・作者未詳
現代訳・「日本の古典・お伽草子」 世界文化社 1976年発行

 

 

 

「日本の古典・お伽草子」 世界文化社 1976年発行

今を去ること、ほど遠からぬ頃、摂津の国は難波の里に、老人夫婦が住んでいた。
この夫婦は四十の年まで子供に恵まれないのを、大そう悲しんで、住吉の大明神に参詣、
「なにとぞ子供を授け給え」と、一心にお祈りした。
その甲斐あって、大明神も哀れに思われたのか、妻は翌年、のぞみ通りにみごもった。 
夫ももとより手放しの喜びようである。
やがて十月の月が満ちると、玉のような男の子が生まれた。
だが、どうしたことか、この子は身の丈が一寸しかない。そこで二人は、この子を「寸法師」と名づけた。

いつしか年月が経って、一寸法師は早くも十二、三歳 になったが、相変わらず背丈は一向に伸びない。
「この子はただ者ではあるまい。
化け物なのだ。
情ない、何の因果でこんな子を授かったのだろう」と、
老夫婦の嘆きは、端の見る目も痛ましい。
揚句のはて、思い余った二人が、「いっそいずこへなりと、あの子が出て行ってくれたら」と話し合っていると、
このことは、すぐにも一寸法師の耳に入ってしまった。
一寸法師は、「親にまで、そんなに 思われるとは情ない。いずこへでも出て行こう」と心に 決めた。
さて、身一つで旅に出るにも、刀がなくては何としよう。
母に針一本を所望すると、喜んで出してくれたので、先ずは麦藁で柄と鞘をこしらえた。
さて、都へ上ることにしたが、今度は舟がない。
またまた母に、お椀と箸を所望して、しきりに引き留めるのを振り切って、旅に出た。
一寸法師は、住吉の浦からお椀の舟に乗り込んで、都を目指して漕ぎ出した。


住みなれし難波の浦を立ちいでて
都へいそぐわが心かな

こうして鳥羽の渡りに着いたので、そこでお椀の舟は乗り捨てて、
いよいよ都に入り、あちらこちらと見て廻ったが、四条五条の賑わいは、口にも筆にも尽せない。
さて、一寸法師は、三条の宰相殿と申す人のお屋敷をたずね、
「お願い申す」と案内を請うた。
宰相殿は、面白い声がすると思って、縁先に出て御覧になったが、影もない。
一寸法師は、うっかり人に踏み殺されては叶わないと、足駄の下から案内を請うたのである。

(以下略)


・・・

 

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「潮待ちの宿」追跡者 ( 岡山県笠岡市)

2024年05月06日 | 旅と文学

人気作家の伊東潤先生が、笠岡を舞台にして小説を書いてくださった。
それが「オール読物」に連載された”潮待ちの宿”。

山奥の村から、湊町の小さな旅館に奉公に出された少女が主人公。
少女の成長と、それを見守る笠岡の人々の日常風景の中の出来事を物語にしている。

少女が歩いた湊、路地、坂道、神社、遊廓、寺小屋。
そのすべてが管理人の想い出と重なり、自分で想像を膨らませながら楽しみに読んだ。

伊東先生、ありがとうございました。

 

旅の場所・岡山県笠岡市笠岡
旅の日・2017年5月28日 
書名・「潮待ちの宿」追跡者  
著者・伊東潤 
発行・文芸春秋「オール読物」 2017年6月号

 

 

 


「潮待ちの宿」追跡者

笠岡の春は、瀬戸内海の潮風と共にやってくる。
潮の香りが街中まで漂ってくると、はるか沖合に真鯛の群れが到来する。
それを狙って「鯛しばり網漁」の漁船が漕ぎ出し、時には一度の漁で、千尾以上の真鯛を獲ってきた。
とくに、笠岡から四里半ほど南にある真鍋島の辺りは好漁場で鞆ノ津の船団と張り合うように漁を行っていた。
漁船が真鯛を満載して帰還すると、笠岡の町のそこかしこから笑い声が聞こえてくる。
漁師たちは、陽気に戯れ言を言い合い、子供たちのはしゃぐ声が、港の活気をさらに高める。

 

 

安政6年、備中松山藩の山田方谷の許に赴き、藩政改革の実際を学んできた。
「笠岡から大坂に向かう船便があると聞き、ここまで来たのだ」
愛宕宮は応神山の中腹にある社で、その参道が急峻なため、誰もが伏すように登ったことから、この辺りに伏越という地名が付いたという。
愛宕宮からは瀬戸内海が一望の下に見渡せた。
一面に広がる海は縮緬模様のように見える。
菅笠の武士が「眞に絶景だな」とつぶやく。
「長岡藩の河井継之助と申す。ここと違って雪深い地だ」

 

 


愛宕宮から真なべ屋のある笠神社方面へとつづく道は、遊女街の伏越小路から続いているため、遊女たちがよく歩いている。
朝の遊女たちは、夜の艶やかな着物と異なり、掃除や洗い物をするための前垂れに手拭いをかぶっている。
翌日、継之助が散歩をしたいというので観音鼻に連れていくことにした。
真なべ屋のある伏越の西には、古城山と呼ばれる低い丘が海までせり出している。その南端の崖下は観音鼻と呼ばれ美しい磯が広がっていた。
観音鼻の絶壁には、見事な姿の松が断崖にしがみつくように繁茂し、
海に目を転じると、木之子島と呼ばれる小さな岩礁が、独特の風情を醸し出している。
継之助は「よきところだ」と言っては感嘆しきりである。

 

 

真なべ屋から大仙院までは、おかげ街道を通るのが最短距離だが、陣屋の前を通るが嫌なので、
街中の小路や路地を伝っていくことにした。大仙院に着いた志鶴は、その象徴の赤い鐘楼門をくぐった。
「おかみさん、長岡というのは越後国にあるそうですね。小寺塾で習いました」
小寺塾とは、かつて敬業館と呼ばれ、西国で一、二を争う経学の名門だったが、
今では諸藩に藩校ができたため塾長の名を取って小寺塾と改め、寺小屋のようなものになっていた。

 

 

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