”ご当地ソング”というのがある。
北島さぶちゃんやデューク・エイセスが多く歌った。
戦前には大正・昭和初期に”新民謡”が流行した。
他にも、童謡の「赤い靴」や「鞠と殿様」も、ご当地ソングにはいる。
作州・院庄を舞台にした「忠義桜」は戦前、岡山県を代表する歌の一つだったが、
敗戦によって、日本が神の国でなくなると、神を歌った「忠義桜」も唱和される事が無くなった。
今はかすかに、記念碑的な歌として残っている。
戦前の全国の女学校で人気、それも岡山県では特に人気の歌であった、
というような事を母は話していたが、
レコードが発売されたのは昭和16年。既に母は女学校を卒業している。
忠義桜
〽
桜ほろ散る院庄
遠き昔を偲ぶれば
幹を削りて高徳が
書いた至誠の詩(うた)がたみ
天莫空勾践 時非無茫蠡
(~天勾践を 空しゅうする莫れ 時に茫蠡 無きにしも非ず~)
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旅の場所・岡山県津山市神戸・作楽神社(院庄館跡)
旅の日・2008.4.20
書名・太平記
原作者・未詳
現代訳・「太平記」 永井路子 文春文庫 1990年発行
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児島高德
当時備前国に、児島備後三郎高徳という者がいた。
後醍醐がまだ笠置にいたころ、同調して地元で義兵を挙げたが、目的を達しないうちに笠置も落城し、楠正成も自害したという噂が伝わってきたので、落胆してそのまま行動を中止していたところ、
後醍醐が隠岐へ移されると聞き、裏切る気づかいのない、信頼できる一族たちだけを呼び集め、評定。
「道の途中の難所に待ちうけて、隙を狙ってことを起そう」
と、備前と播磨の境の舟坂山の嶺にかくれて、行列の通過を今か今かと待っていた。
ところが、いつまで待っても行列が通らない。
後醍醐を警固する武士たちは、山陽道を通らずに、播磨の今宿から山陰道に入る道をとったので、
高徳の計画は、目算がはずれてしまったということがわかった。
そこで高徳たちは、
「では、美作の杉坂こそ、もってこいの深山だ。そこで待ち奉ろう」
と三石の山から斜めに道なき道を突切って杉坂に急行したが、着いてみると、行列ははやくも院庄に入られたという話。
ついに力及ばず、一行は散り散りに別れることになったが、
高徳は、せめて自分たちの心だけでもお耳に入れたいと思い、身をやつしてひそかに帝に近づく機会を窺ったが、その折もなかなかこなかった。
そこで、後醍醐の宿の庭にあった桜の大木の幹を削りとって、そこに大きな文字で一句の詩を書きつけた。
天よ勾践を見殺しにしたもうな
いずれは忠臣范蠡の現われんものを
警固の武士達は翌朝これを見つけ、
「いかなる者が、なんと書いたのか」
と騒ぎになったが、誰もその意を読みとることができなかった。
その騒ぎが後醍醐の耳にも達し、たちまちその意を悟った後醍醐は、快げに微笑んだが、
警固の武士達はそこに含められた故事や詩の意味もわからず、その行為の主を深く詮索することもなかった。
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児島高徳は、戦前も存在を疑問視されていたが、戦後はその論争すらない。
岡山県倉敷市児島林にある五流尊瀧院は、現在も多くの修験僧がいて、高徳はそこの山伏一団の総称ではなかったか?
という記事が地元紙に出ることもある。
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