しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

銭形平次捕物控  (東京都神田明神)

2024年05月31日 | 旅と文学

”捕物帳”はどんな話もジャンルとしておもしろかった。
最初は映画。明神下の銭形平次(長谷川一夫)や、黒門町の伝七(高田浩吉)。
次にラジオ。松島トモ子の捕物帳。
大人になって小説。平次、半七、佐七、伝七、その他。

テレビでも、番組名に平次、半七、佐七、伝七の親分名が付いた。
なかでも、テレビの長寿番組としても知られのが、「銭形平次」
主役は大川橋蔵。舟木一夫の主題歌もよかった。
東映の時代劇スターだった橋蔵の代表作となった。

 

 

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旅の場所・東京都千代田区外神田 神田明神
旅の日・2022年7月10日
書名・「銭形平次捕物控」
著者・野村胡堂 文春文庫 2014年発行

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BS12チャンネル 2024.3.2

 

金色の処女


「平次、折入っての頼みだ。 引受けてくれるか」
銭形の平次は、相手の真意を測り兼ねて、そっと顔を上げました。
二十四、五の苦み走った好い男、藍微塵の狭い袷に膝小僧を押し隠して、弥造に馴れた手をソッと前に揃えます。


「一つ間違えば、御奉行朝倉石見守様は申すに及ばず、御老中方にとっても腹切り道具だ。
押付けがましいが平次、命を投げ出すつもりでやってみてはくれまいか」
と言うのは、南町奉行与力の筆頭笹野新三郎、奉行朝倉石見守の知恵嚢と言われた程の人物ですが、不思議に高貴な人品骨柄です。
「頼むも頼まないもございません。先代から御恩になった旦那様の大事とあれば、平次の命なんざ物の数でもございません。 
どうぞ御遠慮なく仰しゃって下さいまし」
敷居の中へいざり入る平次、それをさし招くように座布団を滑り落ちた新三郎は、
「上様には、また雑司が谷のお鷹狩を仰せ出された」
「エッ」
「先頃、雑司が谷お鷹狩の節の騒ぎは、お前も聞いたであろう」
「薄々は存じております」
それは平次も聴き知っておりました。
三代将軍家光公が、雑司が谷鬼子母神のあたりで御鷹を放たれた時、
何処からともなく飛んで来た一本の征矢が、危うく家光公の肩先をかすめ、三つ葉葵の定紋を打った陣笠の裏金に滑って、眼前三歩のところに落ちたという話。

 

それっ、と立ちどころに手配しましたが、曲者の行方は更にわかりません。
後で調べてみると、鷹の羽を矧いだ箆深の真矢で、白磨き二寸あまりの矢尻には、松前のアイヌが使うという『トリカブト』の毒が塗ってあったということです。 
「その曲者も召捕らぬうちに、上様には再度雑司が谷のお鷹野を仰せ出された。
御老中は申すに及ばず、お側の衆からもいろいろ諫言を申上げたが、上様日頃の御気性で、
一旦仰せ出された上は金輪際変替は遊ばされぬ。
そこで御老中方から、朝倉石見守様へ直々のお頼みで、是が非でもお鷹野の当日までに、上様を遠矢にかけた曲者を探し出せとのお言葉だ。なんとか良い工夫はあるまいか」
一代の才子笹野新三郎も、思案に余って岡っ引風情の平次に縋り付いたのです。
「よく仰しゃって下さいました。御用聞冥利、この平次が手一杯にお引受け申しましょう」

 

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「平家物語」扇の的  (香川県屋島)

2024年05月31日 | 旅と文学

屋島はかつて、四国を代表する観光名所だったが、近年は陰りがある。
台地状の半島は源平時代は島で、現在もその名残りを容易に想像できる。

 

屋島の展望台「談古嶺」から源平古戦場を望む。
正面が五剣山(八栗寺)で、談古嶺と五剣山の間が古戦場。
屋島の標高は、約300m。


では、山を下って古戦場へ下りて行きます。

 

 

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旅の場所・高松市屋島中町
旅の日・2013年9月6日 
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

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屋島古戦場に着いた。

 

早春の日はすでに傾いて、屋島の第一日目はあとわずかで暮れようとしている。
源平両軍とも、負傷者の治療や戦死者の死骸のあとかたづけにいそがしい。
沖の平家の船からも、陸の源氏の陣からも、細い数条の煙がゆるやかに立ち登っている。
これは夕食のしたくをする煙と見える。

その時、沖の方から小舟が一そう、陸を目がけて漕ぎ寄せて来た。
たった一そうだから、いくさいどむ舟とは見られない。
陸から八十メートルほどの所まで来ると、舟は横向きになった。 
乗っているのは三人で、
ひとりは老武者、
ひとりは梶取り、
他のひとりは若く美しい女である。 
年のころ十八、九ででもあろうか。
内裏に仕えている侍女とみえて、柳色の五衣に真っ紅な袴をはいている。
戦場で女性を見るのは珍しいので、源氏の兵たちはいっせいに彼女に注目する。 
さらによく見ると、舟の真ん中に一本のさおを立て、その先端に開いた扇をはさんである。
地の真ん中に、白い日が描かれた話である。
かの美しい侍女はその扇の下に立って、こちらをしきりに招いている。

 

 


大将軍義経は、
「あれは何か。」と聞いてみた。
「あの扇を弓で射よ、というのでしょう。」
「だれがよいか。」
「下野の国の住人、那須与一宗高がよろしいでしょう。小兵ではございますが、なかなかの手きと聞いております。」
「では与一を呼べ。」

那須与一宗高は、大将軍の前に呼ばれ、何度も辞退したのだが、
「この義経の命令が聞かれぬとあらば、はやはや鎌倉へ帰るがよい。」
と義経に言われ、ついに決心してその場を立った。

那須与一は、太くたくましい黒馬に乗り、弓を取りなおして、水際に向かって歩ませる。
その 後ろ姿にも、決死の覚悟がうかがわれる。
もしこれを射損じたなら、その場で腹かき切って死ぬつもりでいる。
陸からでは距離が少し遠いので、与一は十メートルほど海の中へ馬を乗り入れた。
磯打つ波もやや高い。
その高い波に舟はゆり漂うので、扇の的も定まらない。
沖には平家が船をいちめんに並べ、陸には源氏が馬のくつわを並べて、かたずをのんで見守っている。
那須与一はしばらく目をふさぎ、心もち手を合わせるようにして、神に祈りをこめた。


「なむ八幡大菩薩、那須湯泉大明神、なにとぞ、あの扇の真ん中を射させて下されませ。 
万が一 これを射損じましたなら、この場で弓を折り自害して、二度と故郷へは帰りませぬ。
いま一度私を本国へ返して下さる気なら、どうかこの矢をはずさせて下さるな。」
そう祈りをこめて目をあけると、心なしか風も少し弱まり、扇のゆれも静まったように思われ
与一は背中に負うたえびらから、かぶら矢を一本抜き取り、それを弓につがえて引きしぼった。

 

 

 

すると小さな扇が大きく見えてきた。
指が開き、矢は弓の弦を離れた。ひゅーっという、かぶら矢独特の音が、屋島の海に長鳴りし的て、真っすぐに扇を目がけて飛んでゆき、要より三センチほど上を、ひいふっと射切ったではないか。
扇はいったん空高く舞い上がり、やがて夕日を受けて、紅の蝶のように、ひらひらと海面へ舞い落ちてきた。


「ああ、みごと!」
「おお、やったぞ!」
沖では平家が船ばたをたたき、陸では源氏がえびらをたたいて、しばしは感嘆の声が鳴りやま ない。

 

 

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「扇の的」の話はあまりに有名なので、
与一にこじつけて”全国与一サミット”というのがある。

五剣山中腹にある「石の民俗資料館」前には、手のひらの記念碑がある。
2001年の第1回「与一サミット」の開催記念で、
高松市
井原市
大田原市
五箇荘町
庵治町
牟礼町
の3市長3町長の手形。

 

与一サミットは、いつまでつづいたのか知らないが、のんきな時代があったものだ。

 

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