しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

二十四の瞳  (香川県小豆島)

2024年05月21日 | 旅と文学

小説「二十四の瞳」は、文学作品として有名だが、それよりも
日本映画史上を代表する名画として「映画史」に残る作品。


映画の脚本は、ほぼ原作通り。
小説を映画のために変えてなく、映画でも原作を味わえる。
小豆島や瀬戸内海の風景が美しい。

 


小石先生

十年をひと昔というならば、この物語の発端は今からふた昔半もまえのことになる。 
昭和三年四月四日、農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。
百戸あまりの小さなその村は、入り江の海を湖のような形にみせる役をしている細長い岬の、そのとっぱなにあったので、
対岸の町や村へゆくには小舟で渡ったり、うねうねとまがりながらつづく岬の山道をてくてく歩いたりせねばならない。
小学校の生徒は四年までが村の分教場にゆき、五年になってはじめて、片道五キロの本村の小学校へかようのである。 

 

 

 

旅の場所・香川県小豆島町田浦「 二十四の瞳映画村」  
旅の日・2007.5.3 
書名・二十四の瞳
原作者・壷井栄
発行・岩波文庫 2018年発行

 

 

泣きみそ先生

近年、村の柿の木も、栗の木も、熟れるまで実がなっていたことがなかった。 
みんな待ちきれなかったのだ。
子どもらはいつも野に出て、茅花をたべ、いたどりをたべ、すいばをかじった。
土のついたさつまをなまでたべた。
みんな回虫がいるらしく、顔色がわるかった。
病気になっても村に医者はいなかった。
よくきく薬もなかった。
医者も薬も戦争にいっていたのだ。
村の善法寺さんまでが出征して留守だった。

・・・

今日、「二十四の瞳」の大石先生の長女の死を読んでいたら、
茂平の同い年の女の子「やえちゃん」のことを思い出した。

 

やえちゃんの家とは少し離れていたが、畑が隣どうしだった。
笹舟を作って、川に流して、どちらの舟が長く流れるか競争してあそんだ。

やえちゃんと遊んで三日も経たない時、
「やえちゃんが死んだ」と聞かされた。
やえちゃんは畑で生のナスビをかじって食べたそうだ。
それが悪くて、赤痢か何かの伝染病になってすぐに死んだ。
自分が、やえちゃんの死を知った時には、
既に話は(死体を)「焼くのが大変だった」に移っていた。
当時は伝染病の死者だけが焼かれた。
茂平の海岸の、一番東の端が「焼き場」で、そこで骨になった。

 

 

ある晴れた日に


「はい、一本松の写真!」
となりの吉次は驚きでいった。
「ちっとは見えるんかいや、ソンキ。」
「目玉がないんじゃで、キッチン。
それでもな、この写真は見えるんじゃ。
な、ほら、 まん中のこれが先生じゃろ。
先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ。
マッちゃんが左の小指を一本にぎり残して、手をくんどる。それから――。」
磯吉は確信をもって、そのならんでいる級友のひとりひとりを、人さし指でおさえる。

 

 

 

 

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