中学生の頃、”学習雑誌”があった。
旺文社の「中学〇年生コース」
小学館の「中学〇年生の友」
女性用にはさらに「女学生の友」。
そういう学習誌に「野菊の墓」はよく載っていた。
「まさおさん」と「たみさん」の話は、中学生の年代にぴったりのお話だった。
金浦中学校では、各教室にラジオが置いてあり
「名作」をラジオ放送する時、教室で全員聴いていた。
そのなかに、もちろん「野菊の墓」もあった。
悲しい純愛の物語だった。
旅の場所・東京都葛飾区柴又
旅の日・2018年8月7日
作品名・野菊の墓
作者・伊藤佐千夫
発行・「名作文学6・野菊の墓ほか」 学習研究社 昭和53年発行
映画「野菊の如き君なりき」
後の月という時分が来ると、どうも思わずにはいられない。
幼いわけとは思うが何分にも忘れることができない。
もう十年余も過ぎ去った昔のことであるから、こまかい事実は多くは覚えていないけれど、心持だけは今なお昨日のごとく、そのときのことを考えてると、まったく当時の心持に立ち返って、涙がとめどなくわくのである。
僕の家というのは、松戸から二里ばかり下って、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村といってる所。
矢切の斎藤といえば、この界隈での旧家で、屋敷の西側に一丈五六尺もまわるような椎の樹が四、五本重なり合って立っている。
僕はちょっとわき物を置いて、 野菊の花を一握り採った。
民子は一町ほど先へ行ってから、気がついてふり返るやいなや、あれっと叫んでかけ戻ってきた。
「民さんはそんなに戻ってきないっだって僕が行くも のを......」
「まァ政夫さんは何をしていたの。私びっくりして
・・・・・・まァきれいな野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き・・・」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。」
「民さんはそんなに野菊が好き・・・・・ 道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菜を顔に押しあててうれしがった。ふたりは歩きだす。
「政夫さん・・・・・・私野菊のようだってどうしてですか」
「さァどうしてということはないけど、民さんは何か野菊のようなふうだからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって......」
「僕大好きさ」
よそから見たならば、若いうちによくあるいたずらの勝手な泣きがおと見苦しくもあったであろうけれど、
ふたりの身にとっては、真にあわれに悲しき別れであった。
互いに手を取って後来を語ることもできず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、
泣きの涙も人目をはばかり、一言の言葉もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。
無情の舟は流れを下って早く、十分間とたたぬうちに、五町と下らぬうちに、お互いの姿は雨の曇りに隔てられてしまった。