コメント
伝説を残し伝えようとする人々
(
自閑
)
2016-06-23 21:12:23
sakura様
800年前の人が何時何処で亡くなったのかは余りよく知られていないですね。
しかし、その伝説を残し伝えようする方々には敬服する次第です。
sakura様が先日書かれていましたが、丹波の所領の一部だったのが伝説を生んだのかも知れませんね。
常山の涙は、とても興味深いです。丁度今年はオリンピック。国を代表し期待とプレッシャーに負けてしまうようなドラマが。プレッシャーに勝ってセンターポールに自国の国旗を掲げ涙 する姿が見られるでしょう。
拙句
かたつむり彼は彼なり雨の中
玉じゃくし生えたばかりですいすいと
お玉杓子
(
sakura
)
2016-06-24 12:37:14
自閑さま
おたまじゃくしが水の中をすいすいと泳ぐ姿に初夏をお感じになったのですね。
昔は水田などでよく見ましたが、農薬のせいでしょうか近頃はあまり見かけません。
丹波路をお歩きの時にでも遭遇されたのでしょうか。
与市堂の伝承は、丹波の所領の一部だったことや一の谷に赴いた義経軍が
丹波路を通ったことによるものでしょうね。
焼け焦げた阿弥陀如来像を拝観させていただくと、遠い昔を思い描いて、
今日まで守ってこられた地元の人の心意気が感じられました。
ところが、「那須系図」の与一の部分には、義経に従って一の谷、
屋島合戦に参加したことや扇の的を射きった賞として頼朝から
五ヶ所の所領を賜ったこと、建久元年十月の頼朝上洛に供奉したことなどが
詳しく書かれていますが、これらを裏付ける史料がまったくありません。
文治元年の屋島合戦、頼朝の上洛に供奉したメンバーを
「吾妻鏡」で探してみましたが、与一の名は見えません。
所領拝領のことも他の史料にはないそうです。
戦国時代を生きた天徳寺は、佐々木高綱や与一の苦悩を
自分のことのように受けとめて聞いていますが、
同じ激しい動乱の時代を生きた側近たちは、説明を聞くまで
この二人の必死な気持ちが理解できなかったようです。
平和な現代においては、腹をかききるなどという物騒な言葉も場面もありませんが、
オリンピックという舞台に立つ選手は、国民の期待と声援に
すごいプレーシャを受けるのでしょうね
与一も燃え尽き症候群だったかも。
(
yukariko
)
2016-06-24 22:09:59
オリンピックの選手は、国民の期待と声援を声高に言い立てるマスコミ、そのインタビューですごいプレーシャでしょうね。
それに耐えるには強い精神力が要りそうです。
いい成績を上げて当たり前、期待を裏切ると気の毒に思うぐらいの叩かれ方をしますから。
与一も病気が快復したと義経軍に従軍したものの、元気一杯の若武者というのではなかったでしょう。
それが射手に選ばれ辞退しても許されず、最後は自分を信じ、神仏に祈って事に臨んだ事でしょう。
うまく行き恩賞にもあずかれたから一族に対して充分責任を果たしたという満足感で、病もあって家督を譲り、出家したのではないでしょうか?
当主として転戦したり、幕府の役目などに就くと人の目にも止まり、功績や行動が書物にも書かれますが、若くして出家・病没では後世の記録にも残らないでしょうから。
燃え尽き症候群ですか…
(
sakura
)
2016-06-25 10:39:57
面白いことをおっしゃる。
那須与一の扇の的は華やかさと緊張感のある下りで、
「平家物語」の中ではもっともよく知られた物語ですが、
与一の名は「平家物語」、「源平盛衰記」などの軍記物語や「那須系図」にしか見えません。
各地に残る数多くの伝承は、軍記物語や那須家の子孫によって
流布されたと思われる。といわれています。
与一が頼朝から賜ったと伝えられる荘園には、武蔵国太田荘(埼玉県行田市・羽生市)
丹波国五賀荘(京都府船井郡日吉町)若狭国東宮河原荘(福井県小浜市)
信濃国角豆(ささげ)荘(長野県松本市・塩尻市)
備中国荏原荘(岡山県井原市)があります。
これは「日本荘園一覧」で確認することができ、そこには
国名、荘園名、荘園領主、時代などが記されています。
この史料は大きな図書館に行けば閲覧できるはずです。
(この近くだと京都府立資料館に行けば確実にあります。)
与一については原典を見ていませんが、荘園名に与一の名がないそうですから、
彼については、どこまでが史実でどこからが伝説なのかはわかりません。
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800年前の人が何時何処で亡くなったのかは余りよく知られていないですね。
しかし、その伝説を残し伝えようする方々には敬服する次第です。
sakura様が先日書かれていましたが、丹波の所領の一部だったのが伝説を生んだのかも知れませんね。
常山の涙は、とても興味深いです。丁度今年はオリンピック。国を代表し期待とプレッシャーに負けてしまうようなドラマが。プレッシャーに勝ってセンターポールに自国の国旗を掲げ涙 する姿が見られるでしょう。
拙句
かたつむり彼は彼なり雨の中
玉じゃくし生えたばかりですいすいと
おたまじゃくしが水の中をすいすいと泳ぐ姿に初夏をお感じになったのですね。
昔は水田などでよく見ましたが、農薬のせいでしょうか近頃はあまり見かけません。
丹波路をお歩きの時にでも遭遇されたのでしょうか。
与市堂の伝承は、丹波の所領の一部だったことや一の谷に赴いた義経軍が
丹波路を通ったことによるものでしょうね。
焼け焦げた阿弥陀如来像を拝観させていただくと、遠い昔を思い描いて、
今日まで守ってこられた地元の人の心意気が感じられました。
ところが、「那須系図」の与一の部分には、義経に従って一の谷、
屋島合戦に参加したことや扇の的を射きった賞として頼朝から
五ヶ所の所領を賜ったこと、建久元年十月の頼朝上洛に供奉したことなどが
詳しく書かれていますが、これらを裏付ける史料がまったくありません。
文治元年の屋島合戦、頼朝の上洛に供奉したメンバーを
「吾妻鏡」で探してみましたが、与一の名は見えません。
所領拝領のことも他の史料にはないそうです。
戦国時代を生きた天徳寺は、佐々木高綱や与一の苦悩を
自分のことのように受けとめて聞いていますが、
同じ激しい動乱の時代を生きた側近たちは、説明を聞くまで
この二人の必死な気持ちが理解できなかったようです。
平和な現代においては、腹をかききるなどという物騒な言葉も場面もありませんが、
オリンピックという舞台に立つ選手は、国民の期待と声援に
すごいプレーシャを受けるのでしょうね
それに耐えるには強い精神力が要りそうです。
いい成績を上げて当たり前、期待を裏切ると気の毒に思うぐらいの叩かれ方をしますから。
与一も病気が快復したと義経軍に従軍したものの、元気一杯の若武者というのではなかったでしょう。
それが射手に選ばれ辞退しても許されず、最後は自分を信じ、神仏に祈って事に臨んだ事でしょう。
うまく行き恩賞にもあずかれたから一族に対して充分責任を果たしたという満足感で、病もあって家督を譲り、出家したのではないでしょうか?
当主として転戦したり、幕府の役目などに就くと人の目にも止まり、功績や行動が書物にも書かれますが、若くして出家・病没では後世の記録にも残らないでしょうから。
那須与一の扇の的は華やかさと緊張感のある下りで、
「平家物語」の中ではもっともよく知られた物語ですが、
与一の名は「平家物語」、「源平盛衰記」などの軍記物語や「那須系図」にしか見えません。
各地に残る数多くの伝承は、軍記物語や那須家の子孫によって
流布されたと思われる。といわれています。
与一が頼朝から賜ったと伝えられる荘園には、武蔵国太田荘(埼玉県行田市・羽生市)
丹波国五賀荘(京都府船井郡日吉町)若狭国東宮河原荘(福井県小浜市)
信濃国角豆(ささげ)荘(長野県松本市・塩尻市)
備中国荏原荘(岡山県井原市)があります。
これは「日本荘園一覧」で確認することができ、そこには
国名、荘園名、荘園領主、時代などが記されています。
この史料は大きな図書館に行けば閲覧できるはずです。
(この近くだと京都府立資料館に行けば確実にあります。)
与一については原典を見ていませんが、荘園名に与一の名がないそうですから、
彼については、どこまでが史実でどこからが伝説なのかはわかりません。