平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



JR木津駅の東北に心道山安福寺(あんぷくじ=浄土宗西山派)があります。

最寄りの木津駅

安福寺は木津河原で処刑された平重衡の菩提を弔うために建立されたと伝え、
これにちなんで哀堂(あわれんどう)とも呼び、
山門前には「平重衡卿之墓」と標した石碑が建っています。



山門を入って左手に建つ十三重の石塔(重要美術品・鎌倉時代作)は、
重衡の供養塔と伝えられ高さは4・5mあります。
小ぶりで細身の石塔は花崗岩製で、十三重目と相輪は
当初のものではありませんが、各層の屋根の勾配はゆるく、
軒反りもおだやかで、鎌倉時代中期の様式をよくあらわしています。

平重衡卿之墓と刻まれています。

本堂に安置する本尊阿弥陀如来像(非公開)は、平重衡の引導仏といわれています。

寺宝に狩衣姿で合掌する紙本淡彩(しほんたんさい)
「平重衡像」(江戸時代作)を蔵し、重衡との関係を示しています。

また、江戸時代の紙本著色仏涅槃図が残っています。

『山州名跡誌』は、この寺の北に重衡の首を洗ったという首洗池、
重衡が斬首される前、勧められて柿を食べ、後世その地に柿を植えたが
実がならないという不成柿(ならずのかき)などを記しています。

不成柿・首洗い池へは、安福寺からJR奈良線をくぐって1筋目、
47号線沿いにある吉川医院の角を北へ進みます。

土堤の下、民家の庭先の脇にある柿の木は、もとの木の何代目かにあたります。
傍には、池というより水たまりのようなくぼみがあるだけです。
地元の人のお話によると、昔、池はこの場所から少し離れたところにあったそうです。



平重衡首洗い池は、生垣で囲んであります。



「平重衡首洗池・不成柿(ならずかき) 平清盛の五男、平重衡は、
治承四年(1180年)十二月二十八日、源氏に味方する
東大寺・興福寺を焼き打ちしました。 その後、一ノ谷の戦いで
源氏に敗れた重衡は、虜囚となって鎌倉の源頼朝の
もとへ送られましたが、南都の衆徒の強い引き渡し要求に頼朝も折れ、
元暦二年(1185年)六月二十三日、木津の地まで送られてきました。
南都の衆徒は、木津川の河原で、念仏を唱える重衡の首をはね、
奈良の般若寺にさらしました。 その際、
この池で首を洗い持参したと伝えられています。
その後、重衡を哀れんだ土地の人々は柿の木を植えましたが
一向に実のらず、このことから不成柿と称せられています。
 国鉄奈良線の東側にある安福寺には、重衡の引導仏という
いわれをもつ阿弥陀如来を納めた哀堂と十三重の供養塔があります。
昭和五十三年三月 木津川町教育委員会」(説明板より)

十二(上)重衡被斬 元暦二年(1185)六月
『平家物語絵巻』より転載。

木津川は南山城盆地を流れる淀川の支流をいい、
京都府・大阪府の境付近で宇治川・桂川と合流し淀川にそそぎます。



平氏滅亡後、南都大衆の要求にとうとう屈した頼朝は、
重衡の身柄を引き渡すことにしました。鎌倉から日野まで戻ってきた重衡は、
北の方大納言典侍(だいなごんのてんじ)と今生の別れをします。
重衡が長年召し使っていた木工右馬允知時(もくうまのじょうともとき)という
侍がいました。今は八条の女院(鳥羽天皇皇女)に仕えていますが、
かつての主が木津川の畔で処刑されると聞き、
急いで都から駆けつけると、重衡は喜んで「仏を拝んで死にたいと思うが、
何とかならぬか。」と頼みます。知時は警護の武士に相談をして、
付近から阿弥陀仏(来世の救済を約束する)を捜し出し、河原の砂の上に据えました。
知時は自身の狩衣の袖口に通したくくり紐を引き抜いて仏の手にかけ、
重衡にその紐を持たせると、重衡は仏に向かってやむなく犯した
自分の罪の大きさを申し述べ、仏縁によって極楽浄土に導かれますようにと
高らかに念仏を唱えながら首を差しのべて斬られたという。

この様子に警護の武士、見物の群衆、南都の僧侶らまでもが
涙を流しその死を悼みました。
『愚管抄』は、頼朝が南都の要求に屈し、重衡を南都に引き渡したことの非情さを、
人々は忌々しく思いながら重衡が通り過ぎるのを見送ったと記しています。

首は重衡が南都攻めの時、戦いの指揮をとった般若寺の大鳥居の前に
釘付けにされましたが、重衡の北の方はせめて骸だけでも
とりよせて供養しようと思い、輿をむかえにやって日野に連れてこさせました。
「生きておられた昨日までは、立派であったけれども
暑いさなかのこととて(現在の暦で7月28日)、

もう目もあてられぬ姿になっておられた。」と遺骸が
腐敗していく様を平家物語は生々しく語っています。

『延慶本』によると、八条院は石金丸に重衡の最後の
有様を見てくるよう鎌倉に護送される重衡の供をさせています。
石金丸ももとは重衡に仕えていた舎人(使用人)でした。
莫大な荘園をもつ八条院暲子内親王は、以仁王(もちひとおう)の後ろ盾となり、
その遺児(北陸宮)に心を寄せ、重衡の運命にも深い同情を寄せ動いたようです。
人々は彼の罪を憎んでも、その明るい思いやりのある
人柄のよさは愛したのだと思われます。

『高野春秋』元暦元年七月には、「法然上人を介して重衡の首をもらい受けて

日野に送ったこと、木工右馬允知時が 重衡の髑髏を高野山の奥の院におさめ、
往生院(蓮華谷)三宝院に宿泊した。」ことが記載されているが、
法然上人でなく、東大寺大勧進の任に当たった重源が衆徒を説得して、
重衡の首を
奈良から日野に渡されたというのが実伝であろう。
(『平家物語(下2)』P30)
平重衡の供養を行った法界寺(重衡の妻と重源)  
『アクセス』
「安福寺」
 京都府木津川市木津宮ノ裏274 JR関西本線・奈良線・学研都市線木津駅から
400mほど北に行き、右折してJR奈良線をくぐるとあります。(約10分)
「不成柿・首洗池」 木津川市木津宮ノ裏 安福寺から約5分
『参考資料』
角田文衞「平家後抄 落日後の平家(上)」講談社学術文庫、平成12年
富倉徳次郎「平家物語(下巻2)」角川書店、昭和52年 
新潮日本古典集成「平家物語(下)」新潮社、平成15年 
斎藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ選書6、1993年
武村俊則「昭和京都名所図会(南山城)」駿々堂、1989年
武村俊則・加登藤信「京の石造美術品めぐり」京都新聞社、1990年
林原美術館「平家物語絵巻」㈱クレオ、1998年
「図説 源平合戦人物伝」学習研究社、2004年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 



コメント ( 4 ) | Trackback (  )


« 平重衡の墓 平重衡の供養... »
 
コメント
 
 
 
平重衡公 (揚羽蝶)
2019-12-13 19:27:44
 12月も半ば、時のたつのは早いです。
重衡公は、墨俣川の戦いや水島の戦いで勝利し平家の中でも武勲をあげた尊敬できる武将で、優しく花の牡丹に例えられるほどカッコいい。また鎌倉に護送された時も、頼朝と堂々と渡り合った。
南都焼討ちでは、たまたま明かりを取ろうとした火が、東大寺や興福寺に延焼したと信じています。
醍醐のお墓にも、安福寺にも行きましたが、十三重の石塔が重要文化財だとは、知りませんでした。
首洗い池や不成柿の場所は、行っていないのでまた、機会があれば行きたいです。
 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2019-12-14 09:34:09
2019年も残りわずかとなりましたね。

早速ですが、安福寺の十三重の石塔は「木津川歴史散歩」には、鎌倉時代の重要文化財、
「昭和京都名所図会(南山城)」、「京の石造美術品めぐり」には、
鎌倉時代の重要美術品と書かれているので、重要美術品でしょうね。
重要文化財の指定を受けていたら、表示してあることが多いですものね。
訂正しておきます。ありがとうございました。

コメントにお書きくださったように、重衡は源頼政との橋合戦で
知盛・忠度とともに大将軍、そのすぐ後の三井寺攻めでも大将軍を務め勝利を収めています。

墨俣川合戦の大将軍は「吾妻鏡」によると重衡、平家都落ち後の
備中水島合戦で義仲軍、室山合戦で行家に勝利したのも重衡です。
「平家物語」では、史実に反し、重衡の活躍を兄知盛の武功に移しかえている場合が多く、
重衡の勇将としての印象はうすいですが、一時は連戦連勝の将でした。
「玉葉」にも、重衡は「武勇の器量に堪ふ」と書かれています。
 
 
 
十三重の石塔に立てかけられた施餓鬼等の卒塔婆は… (yukariko)
2019-12-31 22:55:31
「八百廿二回忌追善供養、盆供養」と書かれていますね。
安福寺は単に石塔を安置しているだけではなく、菩提を弔うために建立されたと伝えられるだけに、毎回きちんと供養されているのだなあと感心して眺めました。
物語の作者だけでなく、当時の一般人、庶民までもが哀れんで後世までも彼の菩提を弔ってほしいと言い伝え、残したのだろうなあと思いました。
 
 
 
卒塔婆、よく気づかれましたね (sakura)
2020-01-03 11:07:02
そうだと思います。
重衡は一ノ谷合戦で乳母子に裏切られ捕虜の身となりましたが、
驚くほど会う人ごとに情けをかけてもらい、
人々の好意と善意に囲まれていました。

平家物語(巻12・重衡被斬)は「日来の悪行はさる事なれども、今の有様を見奉るに、
数千人の大衆も守護の武士も皆涙をぞ流しける」と記しています。
清盛と時子の秘蔵子だったという重衡は、南都焼討という罪を犯したのにも関わらず、
人々に感動を与えるような武将だったようです。
 
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