平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



JR奈良線の玉水駅で下り南へ進むと、東に高倉神社があります。
社にはこの地で戦死した以仁王を祀っています。その社のJR奈良線を挟んだ西側には、
以仁王の仏事を営むために開かれたという高倉山阿弥陀寺があり、境内には
光明山寺が焼けた時、運び出されたといわれる阿弥陀石仏(鎌倉時代)があります。

20年近く前のお正月に高倉神社を訪れると、村の人たちが
羽織袴の正装で迎えてくれました。お神酒を勧めて下さって、
話をして行くようにいわれましたが、その日は玉水駅から
近鉄電車山田川近くにある藤原百川夫妻の墓まで、史跡をたずねながら
歩く予定だったので、丁寧にお断りして社をあとにしました。
いつもはシーンと静まり返ったお社ですが、お正月には村の人たちが集まり
お酒を飲みながら、以仁王や筒井浄妙の話に花が咲いているようです。

その時にいただいた資料によると、
「阿弥陀寺は僧円輪の開基と伝え、もと阿弥陀堂三艸庵(さんそうあん)と
称したという。以仁王落命の折、仏事を営み、建久3年(1192)、
これに因んで山号も高倉山としたと伝える。なお、境内には厚肉彫の石仏
(阿弥陀如来坐像)があり、鎌倉時代の優品である。」と書かれています。










以仁王(もちひとおう)は後白河院の第三皇子ですが、兄の守覚法親王(仁和寺門跡)が
幼い頃に出家したので第二皇子とされています。同母兄の二条天皇が若くして
死去したとき、本来ならば弟の以仁王が皇位に就くはずですが、
清盛の妻時子の妹建春門院滋子が生んだ高倉天皇が天皇の座に就きました。
さらに建礼門院徳子が
高倉天皇の皇子言仁親王(安徳天皇)を生み、
治承4年(1180)2月には高倉帝が譲位し、3歳の安徳天皇が位を継ぐと、
以仁王の皇位継承の可能性は完全に消えてしまいました。

同年4月、以仁王は諸国の源氏や大寺社に宛てて平家追討の令旨を発しましたが、
すぐに謀反は発覚し、源頼政の指示で以仁王は高倉宮御所から
源氏とつながりが深い三井寺に逃げ込みました。南都の寺院はすぐこれに呼応しましたが、
延暦寺の協力が得られず、以仁王は頼政とともに三井寺を脱出し南都をめざしました。

『平家物語』は、以仁王と頼政軍を1千人、鳥羽作道から南都に向かって南下してきた
追手の平家軍を2万8千余騎と伝えています。一方、九条兼実は平時忠から聞いた話として、
その日記『玉葉』に頼政軍50騎ほど、平家300余騎と記しています。
「騎」は馬に乗った武者の数なので、徒歩(かち)の家来は数えません。
軍記物語では、
合戦の兵数は誇張されますが、実数はこんなものだったのかも知れません。


途中、一行は平等院に入って以仁王を休ませ、宇治橋の橋板を外して、
敵がきても橋を渡れないようにしておきましたが、頼政は馬筏で次々と川を渡ってくる
平家の大軍を見て、以仁王を南都へ先立たせましたが、もう少しのところで
南都に逃げ込めず、光明山寺の鳥居前で流れ矢に当たり戦死しました。
この時、南都の僧兵の先頭は木津に着いており、あとわずか5キロほどで
合流できたはずなのにと『平家物語』は、以仁王の不運を嘆き残念がっています。

このように以仁王はあっけなく敗死しましたが、その令旨は生き続け、
頼朝も義仲も平家打倒の挙兵は正義であるという大義名分を掲げ、
相次いで旗揚げし源平の争乱の導火線となっていきました。

世間から遠ざけられていたこともあって、以仁王の顔を知る者は少なく、
その首級の確定ができず、実はこの時王は東国へ逃れて源氏を指揮しているのだ
という以仁王生存説が広まり、平家を脅かしたことが当時の史料から知れます。
高倉神社・以仁王の墓・筒井浄妙の塚  
 『アクセス』
「阿弥陀寺」京都府山城町縛田神ノ木
JR奈良線玉水駅下車南へ徒歩15分
『参考資料』
永井晋「源頼政と木曽義仲 勝者になれなかった源氏」中公新書、2015年 
上杉和彦「戦争の日本史6 源平の争乱」吉川弘文館、2012年
斉藤幸雄「木津川歴史散歩」かもがわ出版、1993年 
「平家物語」(上)角川ソファ文庫、平成18年 
 竹村俊則「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂、1989



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コメント
 
 
 
平家と以仁王 (揚羽蝶)
2016-09-15 22:35:51
 平家にしてみれば、以仁王の事は良く思っていないし、頼政にしても最後は裏切られたという気持ちです。
令旨は、義仲や頼朝に、うまく利用され平家滅亡の一因
になりました。永遠に続くものはなく、時代の流れとはいえ、口惜しかりけりです。
 
 
 
揚羽蝶さま (sakura)
2016-09-16 15:25:52
平家の方にすれば、以仁王さえ帝位を望まなければと
いうことになるのでしょうね。

宇治川での合戦は、わずか一日の小規模な合戦でしたが、
僧兵が参加した橋合戦と呼ばれる珍しい形で行われ、
これが祇園祭の浄妙山に描かれていることなど
「平家物語」の中でも面白く読める章段です。
 
 
 
高倉神社・以仁王の墓・筒井浄妙の塚 の記事が2008年8月30日ですね (yukariko)
2016-09-21 23:01:53
久し振りに「高倉宮以仁王」の記事に出会って、以前の詳しい記事に戻ってみました。
もう8年にもなるのですね。始められたのは2007年だからもっとになりますね。
あれらの記事を読んでから平等院の扇芝も見に行きましたし、祇園祭の浄妙寺山も特別の関心を持ってみましたっけ。
ここで教えて頂くまでは以仁王が「王」なのに令旨を出せたのかしらとか思っていました(天皇の子は親王と思っていたから)が、平家の世で冷遇され宮号を貰えなかった第二皇子でしたね。
実際に歩かれて詳しく丁寧に読み解いて下さったのでこの時代の人々の興亡と流れがとてもよく分かるようになりました。
なんだか今回の以仁王の記事で部隊がくるりと戻ったような気がして古い事を書いてしまいました。
 
 
 
誤変換ですみません!部隊→舞台 (yukariko)
2016-09-21 23:05:32
最後の行を誤変換したままUPしてしまいました。
すみません。
 
 
 
教えるなんてとんでもないです。 (sakura)
2016-09-22 13:58:10
素人が読み解いて書く記事なのに、
いつも読んでくださってありがとうございます。

以仁王は「最勝親王」と自称し、平氏追討の令旨を出したのでしたね。

阿弥陀寺の写真も高倉神社を投稿した時に、一枚載せていましたが、
GOOの都合で動く画像が全部駄目になり、
慌てて画像を入れ替えた時、入れ忘れていたようです。
戻っては進み、戻っては進みの記事です。申し訳ありません。

yukarikoさまにあんなに沢山、面白い画像の投稿方法を教えていただいたのに…
今思っても本当に残念です。

 
 
 
阿弥陀寺は行って無いです。 (自閑)
2016-09-22 17:39:04
sakura様
間違いなく前は通っているのですが、阿弥陀寺は行って無いです。

以仁王は、帝位を望むつもりもなく、その術は八条院を頼るのみ。親王宣下もなく、出家もしない中途半端な状況に置かれて、自領を横領されて頭に来たと言う事でしょう。

この1年間、sakura様のblogに導かれ、式子内親王、守覚法親王、源頼政を学ぶついで以仁王を覚えました。
感謝申し上げます。

玉川の蛙鳴き終え人あはれ
 
 
 
yukarikoさま (sakura)
2016-09-23 13:19:23
訂正させていただきます。

最勝親王→最勝王
「吾妻鏡」によると、以仁王は自らを国家権力者のための経典
「金光明最勝王経」に因んで令旨に最勝王と名乗り
仏敵である平清盛を滅ぼすと述べました。

 
 
 
自閑さま (sakura)
2016-09-23 13:21:36
高倉神社の記事に載せた写真はずいぶん前のものです。
その時には、説明板に阿弥陀寺のことが書かれていましたので帰りに寄りました。
今は高倉神社にこの説明板はないのかも知れませんね。

私は社会人学習で「万葉集」を学んだだけで、
式子内親王、源頼政の和歌は高校の日本古典の時間に
学んだ程度の知識しかありません。
守覚法親王の和歌は、平家物語を読んで知りました。
これから自閑さまのブログから少しずつ勉強させていただこうと思っています。
 
 
 
以仁王の遺体に差していたのは (自閑)
2016-09-23 21:16:18
貴blogを導として、いろいろ彷徨しておりましたが、本話を読んでみようと図書館に行って全集と集成を読んでみました。
何だ?まだ読んでいなかったの?頼政道まで歩いて?と訝しがるかと存じます。
さて、以仁王の遺体を検分する際、首の無いもののうち、腰に笛を差したものが、以仁王の御遺骸とされたとか。その時の笛が名器小枝と有り、この名を聞いて、敦盛の腰にあった笛、須磨寺で見たものも確か小枝。
二人の首の無い遺体を検分するのに利用されるとは、因縁の深い笛だったのですね。
このお寺に行く手前の川が有名な玉川。いつぞやの洪水でカジカガエルが絶滅したとか。鴨長明の書によると、山吹は農家に刈られて既に無かったとか。
地元の人が郷土の川を愛している限り、又復活するでしょう。
 
 
 
よくお気づきになりましたね。 (sakura)
2016-09-26 00:45:04
敦盛愛用の笛は、「小枝(さえだ)」といい、鳥羽院から祖父の忠盛が賜り、
祖父から父経盛を経て敦盛に伝わったものです。
『平家物語』には、青葉の笛という名称は登場せず、
須磨寺でも「小枝」とよんでいましたが、この笛が「青葉の笛」に変わるのは、
世阿弥の能『敦盛』の影響といわれています。と須磨寺の記事で書かせていただきました。

以仁王所有の小枝のもう一方の蝉折については、集成の「第37句 橋合戦」の
本文に詳しく書かれているので省略させていただきます。
同じく集成の「第89句 一の谷」の頭注には、敦盛の小枝は、
以仁王の小枝と重なる。笛の由来を盛衰記は経盛が宋より漢竹を得て作ったとあり、
以仁王の蝉折の由来と重なり、名笛説話としての形や
名に融通が見て取れる。と書かれています。
さらに延慶本・長門本では漢竹の篳篥であるとし、
遺品の事実性そのものにも動揺が感じられるとしています。

「以仁王の遺体を検分する際、首の無いもののうち、腰に笛を差したものが、
以仁王の御遺骸とされた」と平家は語っていますが、
「玉葉」「山塊記」には、遺体が年末まで判明しなかったと書かれています。
こちらは例によって孫引きで原典は読んでいませんが…

ところで以仁王が本当にこの名品の笛を身につけていたのであれば
身元が判明するのが遅すぎるとお思いになりませんか。
 
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