平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



寿永2年(1183)7月、都落ちした平氏一門は、
一旦九州まで逃れますが、
その後屋島(香川県高松市)に本拠をおいて
次第に勢力を挽回し、
水島合戦(岡山県倉敷市)では、木曽軍を破り
摂津国福原に進出して
東は生田森、西は一ノ谷に陣を構えて都を窺います。
一方、木曽義仲を討った源氏軍は、休む間もなく大手(正面)・搦手(背後)の
二軍に分かれて、翌年2月4日の早朝、都を出発します。
範頼は大手軍を率いて山陽道(西国街道)を生田の森を目指し、
搦手義経軍は山陰道(丹波路)を辿り、平家の背後へと軍を進めます。

山陰道は、丹波路、篠山街道ともいい、
老ノ坂(おいのさか)峠から亀岡市、福知山市を経て兵庫県に入る道です。
亀岡市は山陰道(篠山街道)と京街道(丹後道)が交差する交通の要衝で、
周辺には義経の進軍にまつわる那須与市堂や義経腰掛岩の伝承が残されています。

七条口(丹波口)
義経が平家追討のため京を出るにあたり、
多田源氏に関する文例を集めた『雑筆(ざっぴつ)要集』に
「一谷発向なり。当国の御家人等、惣追捕使の催に随て、
一人も漏らさず、七条口に参洛せしめ、而して見参に入るべし」と
あることから、義経が出陣に際し、摂津国の軍勢を
ここに集結させたことがわかります。

この時、源頼朝から惣追捕使(そうついぶし)に任命されたのは、
摂津国中央部の水陸交通の要衝をおさえていた多田行綱と推測される。
(『源平の内乱と公武政権』)





京と山陽・山陰道方面への出入り口に当たる七条口は、丹波口とも呼ばれ
現在の七条千本付近にあり、旅籠や茶店などが並び賑わっていました。
今も千本から西の七条通りに面した辺りには、中央卸売市場や商店街が連なり、
賑やかだった七条口の往時の姿をとどめています。
老ノ坂峠
山陰道の老ノ坂峠は山城と丹波との国境、都の西境です。
この峠には源頼光が酒呑童子を退治し
鬼の首を埋めたという首塚大明神があります。
国境碑の脇の枯草に覆われて見えにくい道が
義経率いる騎馬武者が一ノ谷へと駆け抜けた山陰道です。



首塚大明神

ちなみに鎌倉幕府に叛旗をひるがえした足利尊氏が老ノ坂峠まで来た時、
一対の山鳩が白旗の上に飛来したのも、
明智光秀の軍勢が三手に分かれて夜陰亀山城(亀岡市)を出陣、
本能寺に向かった本隊が越えたのもこの峠であったと伝えられています。
那須与市堂 京都府亀岡市下矢田町東法楽寺


京都方面から国道9号線を亀岡に向かい「頼政塚」の信号を過ぎ、
さらに西に進むと府道6号線(高槻・茨木―亀岡と交差します。
この交差点を左折すると、右手に「那須与市堂」という案内板がたっています。

府道沿いに那須公園、そこからあぜ道を通り、
細い参道が続く法楽寺山の山麓に那須与市堂があります。


義経に従って一の谷に向かう那須与一は急病にかかり、この地にあった
法楽寺の本尊に病気回復を祈願すると たちまち回復したという。

屋島合戦で扇の的を射とめた功で与一は、武蔵国太田庄
(埼玉県行田市・羽生市)・丹波国五賀庄 (京都府船井郡日吉町)など
五ヶ所に領地を賜り、法楽寺を再興したと伝えられています。



那須与一供養塔









若宮神社 京都府亀岡市稗田野町佐伯出山地

那須与市堂から国道9号線に戻って西へ進み
途中、国道372号線(篠山方面に向かう)に入ります。
亀岡運動公園を過ぎて「稗田野神社」が見える交差点を左折します。
そこから細い道をまっすぐに進み、案内に従って右折すると、
義経が戦勝を祈願したという「若宮神社」の標識が見えてきます。









義経腰掛岩
若宮神社の鳥居からロープが張られた篠山街道(旧山陰道・丹波路)を
しばらく歩くと、
義経が腰をかけたといわれる「義経腰掛岩」があります。





三草山合戦(平家本陣跡)  
『アクセス』

「首塚大明神」老の坂トンネルの京都側入口横から左へ旧道を上ります。
T字路を左へ行き通行止め右手山側にあります。
国境の石碑はその手前右手にあります。
『参考資料』
「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社 「京都府の地名」平凡社
 増田潔「京の古道を歩く」光村推古書院 「京から丹波へ山陰古道」文理閣
川合康「日本中世の歴史3 源平の内乱と公武政権」吉川弘文館
 元木泰雄「源義経」吉川弘文館 別冊歴史読本「源義経の謎」新人物往来社



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
今も亀高線と略称され抜け道に利用されていますが… (yukariko)
2013-08-21 15:32:44
古来から京から摂津、また丹波へと抜ける重要な街道だったのがよく分かります。
高槻から京都を経ることなく亀岡の先へ車で30分で抜けられるから、逆にいえば京から北摂、川西、池田、箕面方面を目指すのも、山中の間道を馬などを手段に使えば
思いがけないほど早くに到達できたでしょうから、平安、鎌倉の時代よりずっと、この街道の重要さは大きかったことでしょう。
 
 
 
この府道はよく利用する道ですね。 (sakura)
2013-08-23 12:58:35
亀岡ばかりでなく、鞍馬や花背に行くのにも近道になりますね。
義経が京の七条口から篠山へと向かった道は、所々離れたり重なったりしながら、
おおよそ現在のR9からR372に沿っています。
義経軍には東国の武士だけでなく京都周辺の武士も加わっているので、
彼らが山中の間道を上手に案内したのでしょう。
京から篠山を経て丹波と播磨の国境にある三草山まで
普通なら二日かかるところを一日で走破した。と
平家物語に書かれています。
 
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