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ダムのなかったその昔はさぞ急流だったのでしょうね。 (yukariko)
2013-05-12 11:41:15
ダムがない昔、雪解け水で増水した流れを馬で渡るのも大変、またそれを幾ら大勢でとはいえ徒歩で渡る武者もいたとは、昔の人は基礎体力があったのだと感心します。

伏見で育ったyukarikoには宇治は自転車でゆける気軽な場所でした。
現代は流れも緩く浅くなり、朝霧橋の朱塗りの欄干が山紫水明の風景に映えて源氏物語の宇治十帖が似合う優雅な風景に見えますが、以前書いて下さった扇の芝の故事など大いくさの舞台ですね。
 
 
 
自転車で行ける場所でお育ちになったとは羨ましい! (sakura)
2013-05-13 08:21:22
宇治川に最初に橋が架けられたのは、大化2年(646)に僧道登によってと伝えられ、
その功績を讃えた「宇治橋断碑」が宇治橋東詰の橋寺にあります。
その碑に刻まれた冒頭の次の一文は、激流の宇治川にはばまれた旅人が
馬をとめて市をなすように混雑しているさまを記しています。
「俛俛(べんべん)たり横流(おうりゅう) 其の疾(はや)きこと箭(や)の如し、
修修たる征人(せいじん)、騎(うま)を停(と)めて市を成す。」
また『平家物語』の宇治川先陣の下りにも「白浪おびただしうみなぎりおち、
瀬まくらおほきに滝なって、さかまく水もはやかりけり」とあります。

宇治橋上流は宇治川ラインとよばれる渓谷美をみせ、下流には葦原が広がり、
中洲が点在し、河畔は平安時代になると貴族の別業の地となります。
しかし京に何か異変があれば、宇治は戦場となり、承久の乱でも
宇治川で合戦が繰り広げられます。この時は佐々木四郎高綱の甥信綱が
北条義時から坂東一の名馬を賜って宇治川の先陣を果たします。

徒歩(かち)で宇治川を渡った畠山重忠は、雪解け水につかり
さぞ寒かったことでしょうに岸に上がった重忠は、すぐ乗り換えの馬に乗り、
木曽勢の長瀬重綱と馬をおし並べて引落とし、頸ねじきって
血祭にして京都になだれ込みます。感心しますね。

重忠は歌舞音曲の才にも恵まれ、豪胆で、心やさしい鎌倉武士の典型として
美談、佳話が吾妻鏡にも多く伝えられています。

 
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