平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




亀岡市の東部に源頼政ゆかりの朝日山神蔵寺(臨済宗)があります。
寺伝によると、最澄開基とし本尊の薬師如来坐像も最澄作と伝えています。
正暦年間(990~995)に伽藍が造営され、天台宗寺院として一大勢力を誇り
26もの塔頭を抱えて源頼光はじめ源氏一門の崇拝篤く大いに栄えていました。

治承4年(1180年)以仁王・頼政が平家打倒の兵を挙げた際、
頼政から挙兵を促す知らせが届き、この寺の僧兵は大津の三井寺と呼応して
宇治川に馳せ参じました。敗れた頼政は宇治の平等院で自害し、
僧兵は敗走し、平家に寺領を没収され衰微していきました。

  嘉祥年間(1235~38)僧達源(たつげん)が再建しましたが、明智光秀の
丹波攻略の兵火で焼失し、その後、江戸時代に願西が本堂・阿弥陀堂・鐘楼を
再建し、天台宗から浄土宗に改めた後、亀山城主松平忠昭が帰依し、
妙心寺の高隠玄厚(こういんげんこう)を招いて中興開山とし臨済宗としたという。


 「 西国薬師霊場第四十三番札所」 になっています。

寺谷川に架かる「みかえりばし」



現在、神蔵寺は亀岡屈指の紅葉の名所として知られ、ライトアップなども行われ ます。
紅葉シーズン  拝観料300円



本堂瑠璃殿





本堂の裏手に薬師堂(収蔵庫)があり、
平安時代作の本尊木造薬師如来坐像(国重文)が保管されています。

明智光秀の兵火の際、本尊と脇侍の日光・月光菩薩を運び出し近くの岩山に隠しました。
こうして難を逃れた薬師如来は1653年に寺が再興された時に本尊として祀られました。
『アクセス』
「神蔵寺」亀岡市稗田野町佐伯岩谷ノ院ノ芝60

℡0771-23-5537 拝観時間 通常9~17時 無休 

JR亀岡駅から、京阪京都交通バス40系統園部駅西口行きに乗車し、
「運動公園ターミナル」でふるさとバスF31、F32、F33、F34系統
「畑野コース」に乗り換え「グリーンハイツ口」で下車、徒歩約20分
バスの運行本数が少ないのでご注意ください
京都縦貫道 亀岡ICから国道372号を湯の花温泉方面に約10分
『参考資料』
「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社 「角川日本地名辞典」角川書店 
「京都府の地名」平凡社

 

 

 
 

 

 





コメント ( 6 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
名前を知られていないお寺も歴史の重みが…。 (yukariko)
2008-08-21 18:58:57
「天台宗開祖最澄」作の薬師像や運慶作と伝えられる地蔵像と、とても有名な人による仏像が伝えられた由緒正しいお寺なのですね。
川西~摂津一帯の摂津源氏の信仰を集めていたのでしょうね。
900年もの間、必死に守られて焼失もせず信仰のよりどころとして大事にされたのには、こういう言い伝えも有り難味を増したのでは(笑)

私は40年近く大阪人でいますが、京都人特有の、有名なのは京都にあると考える気持ちが未だどこかにあって、郡部にあると聞くと『えっ!』とびっくりする物知らずです。(笑)
だから感心して読ませて頂いています。
 
 
 
有名な文化遺産は京都・奈良にあると思います! (sakura)
2008-08-22 16:39:34
私のブログにも登場した仁和寺、上鴨神社、清水寺、平等院どれも世界遺産に登録されています。
郡部に国宝や重要文化財があるというと『えっ!』です。

伝教大師が24歳の時に建立され、神蔵寺は一時、26も塔頭がありとても栄えたお寺だったようです。
湖北の観音様が戦国時代信長・浅井の兵火にかかり、土地の人の手で地中に埋められて今日に伝えられているように、
神蔵寺の仏像も地中に埋めたり、こもに巻いて山中に隠したりして二度の難を逃れ今日まで残っています。
やはり信仰心でしょう。名前を知られていないお寺も歴史の重みが…実感です。

大切にされているのでしょうが、個人でお参りに行っても収蔵庫「東方閣」の扉は閉じられたまま!

亀岡には満仲が京都と川西を行き来した時に通ったという道が残っています。
(神蔵寺の地図にもあるR372の途中から分岐)
細い山道なので車は通行できませんが、途中まで歩いてみました。
京都への行き帰りに神蔵寺にはお参りしたのかもしれませんね。

丹波は鹿ケ谷事件が発覚するまで、藤原成親の子、成経が丹波守、
丹波国篠村庄は後に義経の恩賞地となりますが、
平重盛の所領だったので重盛にまつわる伝説地も亀岡には残っています。
後の時代には足利尊氏、明智光秀も登場し、
亀岡は面白い!

 
 
 
Unknown (yukariko)
2008-08-25 19:26:10
現代こそ市制や府県で分けられ、訪ねる時も制定された国道や県道からと決まっていますが、
牛馬は特別な時で、兵も民も歩くのが当たり前だった頃はもっと京と亀岡、摂津、丹波を結ぶ道も本街道以外の脇道が沢山あったでしょう。

だからあちこちに言い伝えのある場所やお寺が幾つもあったと思うのです。

でも頭に据えるご領主様は時代によって様々に替っても、毎日の生活と密接に結びつき、暮らしてゆく心の拠りどころとしてのお寺や地蔵堂は大事で、ご本尊や伝承の書付や品は命に代えてもと伝えてきたと思います。

現代は「観光」で訪れて見せて欲しいと願う人も多いと思いますが、拝観料収入を得たいと思う観光寺院と違い、万が一の責任問題を逃れたい気持ちと管理の煩雑さを煩がる心の狭さがガンですね。

そういう点では公共の報道機関、TVや新聞に隠された地元史として取り上げてもらうのがいいのかも(笑)
要望が多ければ、いつかは日時を決めて公開するようにならないかな?

何かというと責任問題に発展する現代では無理かもしれませんね。
 
 
 
前回のコメントのお返事に書き漏らしました! (sakura)
2008-08-27 20:09:35
神蔵寺は西国薬師霊場第43番札所
(一番は奈良薬師寺、比叡山四十九番に結願)
「西国四十九薬師巡礼の旅」をトラベル日本で募集しています。
この旅の仲間に入れば、薬師如来は拝観できると思います。
私がたずねた時は広い境内に拝観者が2、3人。
この頃のことですから貴重な仏像が、収納してある収蔵庫の扉を、安心して開けておけないのでしょう。

脇道ではないのですが、
明智光秀が本能寺に向けて駆け抜けた
丹波亀山から桂に通じる「唐櫃越」(丹波口から現在の9号線にほぼ重なるルートと保津川にはさまれた尾根上の道)も中世にはよく利用された街道です。

現在は唐櫃越を壊して林道が建設され古道は一部しか残っていません。
道は現在利用している道と中世に主要街道としての役割をはたした古道とは違う場合が多々ありますね。

数年前道路地図を頼りに、
亀岡から綾部のお寺、神社めぐりをしました。
 
 
 
古道は人馬の道、今の道は車用の道ですね。 (yukariko)
2008-08-29 00:30:21
丹波亀山から桂に通じる「唐櫃越」は7~8年ぐらいも前に歩きました。
(もっと若くて元気でよく歩けた頃です。)

桂→バス→亀岡→「唐櫃越」→保津峡駅→嵯峨駅のコースを「自然観察員付き旅行」の仲間に連れられて歩きました(笑)

そこに「唐櫃越」の古道の標識があり、…「明智越」の由来として本能寺の変で光秀の軍勢が駆け抜けた道と説明がありました。

それでこんな山中の尾根伝いの道が軍勢が通れる道だったと分かり、愕然としたことを覚えています。
兵糧はどうして運んだのだろう?とか。
でも大八車でさえ使われたのは江戸時代初期ですものね。

ツアーで「西国33番札所めぐり」や「四国88ヶ所札所めぐり」が新聞に載っていますが、他に行きたい所が沢山あるから当分は無理ですね(笑)
そちらの朱印やお掛け軸は既に姑が集めたようです。

「関西花の寺めぐり」なら行ってもいい?(笑)
 
 
 
歩かれるのですね! (sakura)
2008-08-29 16:24:12
白神山地を昨年、今年と歩かれたのでちょっと驚いています。
いつもお忙しくされているので、あまり歩かれないと思っていました。

唐櫃越(明智越)は歩きたい道の一つです。
歩いてないので、よく分かりませんが、
山陰線の複線化工事に伴う土砂の捨て場になり、古道が破壊されたそうです。なんだか残念ですね!
歩かれた時には、きっと古道の雰囲気が残る所を案内して下さったのでしょうね。

もとはもう少し広い道だっのでしょうか。
「時代によってはこの唐櫃越(明智越)の方が今の9号線に重なる道より、主街道の役割をはたしてきたと」ありますから。


 
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