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文覚商人が首に義朝の髑髏を掛けて…はいかにも嘘くさいから(笑) (yukariko)
2010-12-14 23:38:00
人の目を引く道具立てで驚かせ、関心を引こうとしているようで文覚上人のこの話は好きではありません。
でも、後白河院や近臣達とのかなり深い付き合いがなければ院宣はもとより、藤原光能を初め大江広元、中原親能などの人脈を使う事など出来ないですね。その人脈に千葉胤頼も繋がるのですね。

皆、元をたどれば上西門院をTOPとする人脈で繋がるとは…このように絵解きをして下さると今までバラバラに思えてきた出来事がちゃんと裏で細いけれどしっかりした糸で繋がっていて、この源氏の再興に繋がっているのがよく分かります。

各地の大きなお寺の管主や別当達も政治的な動きに敏感だったでしょうし、各地で修業した文覚は顔も広かったでしょう。
平家と対立した後鳥羽院とその近臣達の意向も各地の有力な豪族たちにもに伝える事が出来たでしょう。
文覚上人はこれらの物語の中では、出家した事によって身分制度の枠を超えて、自由に動ける舞台回しのようなものですね。
 
 
 
どこまでが真実なのか (sakura)
2010-12-15 15:34:04
「平家物語」(巻五)が述べている文覚が義朝のどくろを頼朝に見せて、その無念さを語り挙兵を促したこと、後白河院の近臣藤原光能を通じて院宣をもらい受けたという話は、どこまでが本当なのか創作なのかはわかりません。
しかし文覚が後白河院と頼朝の架け橋になり源氏挙兵に大きな影響を与えたことは間違いないと思われます。文覚がこのような重要な役目を果たすことができたのは、交通、情報の要地渡辺津を拠点とする渡辺党出身であったためといわれています。渡辺津には、遠藤氏が管理していたと伝えられる坐摩(いかすり)神社がありました。
この社は現在、本町に移転されています。以前、yukarikoさんが攝津国一宮として、話題になさっていた神社です。
 
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