平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 




亀岡市南部の矢田地区、法楽寺山の麓に那須与市堂があります。
縁起によれば、平安時代の一条天皇の御代に安倍晴明が法楽寺山に法楽寺を建立し、
恵心僧都(源信)作の阿弥陀如来像を本尊として深く信仰したとしています。
源平合戦の時、源義経に従って一の谷に向かう那須与一が
途中の丹波で病にかかりましたが、法楽寺の阿弥陀如来に病気回復を祈願すると
たちまち回復し、翌年の屋島合戦で扇の的を射とめ名声をあげました。
与一はその功で武蔵国太田庄(埼玉県行田市・羽生市)・丹波国五賀庄
(京都府船井郡日吉町)など五ヶ所に領地を賜り、
法楽寺を再興したと伝えられています。
江戸時代の享保元年(1716)、法楽寺は火災に遭い、本尊阿弥陀如来だけが
焦げ残りました。残った阿弥陀如来は村人達によって守られ、
明治26年(1893)、現在の場所に安置され、お堂は那須与市堂と名付けられました。

都落ちした平氏一門は、
その後屋島に本拠をおいて次第に勢力を挽回し、
福原に戻り、一ノ谷に陣を構えて京都回復をねらいます。
これに対して頼朝の命を受けた範頼(のりより)軍は山陽道(西国街道)を進み、
義経軍は丹波路を進み、平氏の背後に回る作戦を採りました。

丹波路は、山陰道とも篠山街道ともいい、
老ノ坂峠から亀岡市、篠山町を経て兵庫県に入る道です。
亀岡市は丹波路(山陰道)と京街道(丹後道)が交差する交通の要衝で、
周辺には義経の進軍にまつわる
義経腰掛岩や
義経が必勝祈願をしたという若宮神社が残っています。


府道6号線(高槻・茨木―亀岡線)沿いに那須公園があります。

公園の前を車で通りかかると、数台の車が停まり、
なにやら与市堂の方が賑やかな様子です。丘を上るとちょうど
座談会が開かれていたので、途中からでしたが参加させていただきました。









奉賛会員たちが、堂守をしながら与一が的を射った2月18日にちなみ
毎月8日・18日、28日、火災で黒く焼けた如来像に向かい、
お経をあげていました。しかし多い時は25人ほど集まっていたメンバーも
高齢化で徐々に減り、現在、90歳の会長ら2人だけになってしまい、
何とか市民の関心を高め、お堂を次の世代に引き継ぎたいという趣旨の会でした。





江戸時代の火災で焼け焦げた阿弥陀如来像。

翌日(2016・4・10)の京都新聞の記事です。
高松市出身の男性から与一の名を広めてほしいと贈られた絵。
この絵はこのあと亀岡市市役所の玄関に架けられるそうです。

那須与一供養塔

那須与一にまつわる伝承は全国各地に40余あります。
那須地方の伝承は、幼少期のエピソードや源平合戦出陣の際、寺社に戦勝祈願をして
扇の的を見事一矢で射たとか、凱旋後の寺社再建などの話題が中心です。
その他、北は青森から南は宮崎におよぶ伝承地には、与一の病気や出家、
死に関するものが大半をしめています。『那須系図』では、建久元年(1190)に
源頼朝の上洛に供奉した与一は山城国で没し、伏見の即成院に葬られたとありますが、
真偽のほどは定かではありません。屋島合戦での華々しい活躍にも関わらず、
その後の活動が一次資料にまったく見えない上に、
若くして逝った与一の姿が数多くの伝承を生んだと思われます。


与一は後世の説話や芸能に取り上げられ、
また明治時代の文部省唱歌「那須与一」にも登場し、

「一、源平勝負の晴の場所、武運はこの矢に定まると、
    那須の与一は一心不乱、ねらひ定めてひようと射る。

二、扇は夕日にきらめきて ひらひら落ちゆく波の上、

    那須与一の譽(ほまれ)は今も、屋島の浦に鳴りひびく。」と
歌われ
広く知られることになりました。



与一の扇の的の話は、湯浅常山の『常山紀談』にも出てきます。
江戸時代中期、常山は岡山藩主池田氏に仕え、戦国武将の逸話を収めた
『常山紀談』を著しています。その中から、小田原北条氏の家臣、
下野国佐野天徳寺という勇将の話をご紹介させていただきます。
ある時、琵琶法師に平家物語を語らせ、「特にあわれな話が聞きたい。
そのように心得よ」と注文をつけると、法師は「承知しました」と、
佐々木高綱の宇治川先陣争いの一節を語り始めました。
天徳寺は涙を流しながら聞いていましたが、終わると
「もう一曲、今のようなあわれな話を聞きたい」というので、
法師は那須与一の扇の的の段を語りはじめました。
するとその半ばで天徳寺は、また涙をはらはらと落としたのです。

後日、側近の者たちが「先日の『平家』は、二曲とも勇ましい手柄話だと
思っていましたのに、殿は感涙されて声を詰まらせておられました。
皆でそれはどうしてなのだろう、と話し合っています」というと天徳寺は驚いて、
「たった今までお前たちを頼もしく思っていたが、今のひと言で
がっくりしたではないか。まず佐々木高綱のことを思い浮かべてみろ。
弟の範頼にも寵臣の梶原景季(かげすえ)にも頼朝が与えなかった名馬、
生食(いけずき・池月)を特別に賜った以上、
宇治川で先陣を遂げられなかったら、生きて帰るわけにはいかぬ。と
死を覚悟して出陣した高綱の志こそがあはれというものではないか」と
涙をぬぐいながら言い、さらに続けて
「また那須与一も大勢の中から選びだされ、源平両軍が鳴りをしずめて見守る中、
ただ一騎、海に馬を乗りいれ的に向かう。もし射損じれば味方の名折れ、
馬上にて腹かき切って死のうと決意したその心中を察して見よ。
弓矢とる者ものほどあわれなことはない。
自分はいつも戦場に赴く時は、
佐々木高綱や那須与一と同じ気持ちで槍を取るから、『平家』を聞くときも
彼らの心情が察せられ、泣けてきてしまうのだ。」と語ったということです。
源義経一ノ谷へ出陣(七条口・老ノ坂峠・那須与市堂・義経腰掛岩)  
那須与一の墓・北向八幡宮・那須神社(その後の与一の足跡)  
『アクセス』
「那須与市堂」亀岡市下矢田町東法楽寺2 JR亀岡駅からバス矢田口下車徒歩約13分
(バスの時刻にご注意ください。)
JR亀岡駅から府道6号線(高槻・茨木―亀岡線)を南下し、
下矢田の交差点からさらに進むと、右手に法楽寺山という小高い丘があります。
『参考資料』
「京都府の地名」平凡社、1991年 「京都府の歴史散歩」(下)山川出版社、1999年
「栃木県歴史人物事典」下野新聞社、1995年 梶原正昭「古典講読平家物語」岩波書店、2014年 
「平家物語がわかる」朝日新聞社、1997年







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コメント
 
 
 
伝説を残し伝えようとする人々 (自閑)
2016-06-23 21:12:23
sakura様
800年前の人が何時何処で亡くなったのかは余りよく知られていないですね。
しかし、その伝説を残し伝えようする方々には敬服する次第です。
sakura様が先日書かれていましたが、丹波の所領の一部だったのが伝説を生んだのかも知れませんね。
常山の涙は、とても興味深いです。丁度今年はオリンピック。国を代表し期待とプレッシャーに負けてしまうようなドラマが。プレッシャーに勝ってセンターポールに自国の国旗を掲げ涙 する姿が見られるでしょう。
拙句
かたつむり彼は彼なり雨の中
玉じゃくし生えたばかりですいすいと
 
 
 
お玉杓子 (sakura)
2016-06-24 12:37:14
自閑さま
おたまじゃくしが水の中をすいすいと泳ぐ姿に初夏をお感じになったのですね。
昔は水田などでよく見ましたが、農薬のせいでしょうか近頃はあまり見かけません。
丹波路をお歩きの時にでも遭遇されたのでしょうか。

与市堂の伝承は、丹波の所領の一部だったことや一の谷に赴いた義経軍が
丹波路を通ったことによるものでしょうね。
焼け焦げた阿弥陀如来像を拝観させていただくと、遠い昔を思い描いて、
今日まで守ってこられた地元の人の心意気が感じられました。

ところが、「那須系図」の与一の部分には、義経に従って一の谷、
屋島合戦に参加したことや扇の的を射きった賞として頼朝から
五ヶ所の所領を賜ったこと、建久元年十月の頼朝上洛に供奉したことなどが
詳しく書かれていますが、これらを裏付ける史料がまったくありません。
文治元年の屋島合戦、頼朝の上洛に供奉したメンバーを
「吾妻鏡」で探してみましたが、与一の名は見えません。
所領拝領のことも他の史料にはないそうです。

戦国時代を生きた天徳寺は、佐々木高綱や与一の苦悩を
自分のことのように受けとめて聞いていますが、
同じ激しい動乱の時代を生きた側近たちは、説明を聞くまで
この二人の必死な気持ちが理解できなかったようです。

平和な現代においては、腹をかききるなどという物騒な言葉も場面もありませんが、
オリンピックという舞台に立つ選手は、国民の期待と声援に
すごいプレーシャを受けるのでしょうね
 
 
 
与一も燃え尽き症候群だったかも。 (yukariko)
2016-06-24 22:09:59
オリンピックの選手は、国民の期待と声援を声高に言い立てるマスコミ、そのインタビューですごいプレーシャでしょうね。
それに耐えるには強い精神力が要りそうです。
いい成績を上げて当たり前、期待を裏切ると気の毒に思うぐらいの叩かれ方をしますから。

与一も病気が快復したと義経軍に従軍したものの、元気一杯の若武者というのではなかったでしょう。
それが射手に選ばれ辞退しても許されず、最後は自分を信じ、神仏に祈って事に臨んだ事でしょう。
うまく行き恩賞にもあずかれたから一族に対して充分責任を果たしたという満足感で、病もあって家督を譲り、出家したのではないでしょうか?
当主として転戦したり、幕府の役目などに就くと人の目にも止まり、功績や行動が書物にも書かれますが、若くして出家・病没では後世の記録にも残らないでしょうから。
 
 
 
燃え尽き症候群ですか… (sakura)
2016-06-25 10:39:57
面白いことをおっしゃる。
那須与一の扇の的は華やかさと緊張感のある下りで、
「平家物語」の中ではもっともよく知られた物語ですが、
与一の名は「平家物語」、「源平盛衰記」などの軍記物語や「那須系図」にしか見えません。

各地に残る数多くの伝承は、軍記物語や那須家の子孫によって
流布されたと思われる。といわれています。

与一が頼朝から賜ったと伝えられる荘園には、武蔵国太田荘(埼玉県行田市・羽生市)
丹波国五賀荘(京都府船井郡日吉町)若狭国東宮河原荘(福井県小浜市)
信濃国角豆(ささげ)荘(長野県松本市・塩尻市)
備中国荏原荘(岡山県井原市)があります。
これは「日本荘園一覧」で確認することができ、そこには
国名、荘園名、荘園領主、時代などが記されています。
この史料は大きな図書館に行けば閲覧できるはずです。
(この近くだと京都府立資料館に行けば確実にあります。)

与一については原典を見ていませんが、荘園名に与一の名がないそうですから、
彼については、どこまでが史実でどこからが伝説なのかはわかりません。

 
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