平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



 


JR玉水駅から線路沿いに南へ20分ほど進むと、
高倉宮以仁王(もちひとおう)を祀る高倉神社があります。
かつては春日神社といい、明治18年(1885)に現在の社名に改められました。

治承4年(1180)平家打倒の兵を挙げた後白河天皇の第2皇子以仁王(高倉宮)は、
宇治川合戦に敗れ、南都に逃れる途中、流れ矢にあたって戦死し、
近くにあったこの社に葬られました。
社の南の水田の中には、宇治橋で奮戦した三井寺の僧兵浄妙坊の塚もあります。

以仁王の謀反の動きは、早々に平家に知られ、宮は高倉宮の御所を抜けて
三井寺に逃げ込みました。そこから頼政とともに援軍のいる奈良に向かいましたが、
以仁王が疲れて度々落馬するので、宇治の平等院で休憩をとることにしました。

しかし、源頼政は宇治川を次々と渡ってくる平家の大軍を見て、宮を先に
奈良に落ちのびさせました。
頼政の手勢や園城寺の僧らが奮戦する間に宮は
わずかの供を連れて奈良へと急ぎますが、平家軍の老練な飛騨守景家という
武将が戦場を抜け、五百余騎を引きつれただちに後を追います。
そして光明山の鳥居前で追いつき、雨のように射かけた
矢の一本が宮の脇腹に当たり、落馬しその場で頸を取られました。

これを見た三井寺の
鬼佐渡、荒土佐、荒大夫・刑部俊秀といった荒法師らは、
今さら命を惜しんで何になろうかと、散々に戦い次々と壮絶な最期を遂げました。
その中で以仁王の乳母子宗信は逃げるに逃げられず、近くの池に飛び込んで身を隠し、
敵が過ぎるのを待っていると、王の遺体が運ばれていきました。
その腰には、「万が一の時には、棺桶に入れてくれ」と宗信にいった小枝の笛が
差さっていましたが、恐ろしいので出ていくこともできず、泣く泣く京へ戻っていきました。

この時、奈良の僧兵は宇治に向かっていましたが、
あと五キロというところで間に合わなかった。と
『平家物語』は以仁王の不運を嘆いています。

左手民家の向こうに見えるのが高倉神社の森です。

高倉神社鳥居

 宮の仏事を営むために建てられた阿弥陀寺 
以仁王(阿弥陀寺)  

高倉神社拝殿、右手は以仁王の御陵








当時は荒墳でしたが、現在は宮内庁管理の陵墓となっています。

高倉神社の南、約100mの水田の中に、
三井寺の僧兵・筒井浄妙塚と伝える小円墳があります。
筒井浄妙は宇治川合戦に参加し、「平家物語」の名場面のひとつ橋合戦で
大活躍しましたが、
矢傷を負い奈良の方へ念仏を唱えながら向かいました。
途中この地で倒れたのでしょうか。
現在、この塚は以仁王の陪冢として宮内庁管理となっています。

陪冢(ばいちょう)とは、大きな古墳の近くに添えられた小さな古墳のことです。

「治承役筒井浄妙塚」と刻まれています。
橋合戦(宇治橋・平等院)筒井浄妙・一来法師  
筒井浄妙の坊跡(三井寺)  

綺原(かんばら、かにはら)神社鳥居の前の道。
綺原神社背後の光明山は光明寺の旧跡地です。
綺原神社より天神川に沿って東の山中を上ること約2キロ、光明寺址に至ります。


以仁王は、光明山の鳥居の前で追いつかれ、
流矢に当たって落命したと伝えられています。

当時、光明山寺は東大寺の別所として栄え、
綺田一帯に広大な
寺領がありました。中世の兵乱で寺運は衰微し
今は標識一つありませんが、付近に地名が残っています。

旦椋神社 (以仁王)  
『アクセス』
「高倉神社」京都府木津川市山城町大字綺田小字神ノ木
JR奈良線「玉水駅」下車徒歩約20分
「綺原神社」京都府木津川市山城町大字綺田小字山際
JR奈良線「玉水駅」下車徒歩約35分
『参考資料』
竹村俊則 「昭和京都名所図会」(南山城)駿々堂
 竹村俊則「
今昔都名所図会」(洛南)京都書院
「京都府の地名」平凡社 「平家物語」(上)角川ソフィア文庫
「京都府の歴史散歩(下)」山川出版社「歴史人No・21」KKベストセラーズ

 

 



コメント ( 11 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
筒井浄妙のお墓が陪塚としてあるとは! (yukariko)
2008-09-01 10:10:26
とても詳しい説明で感激・感心しながら読みました。
地名と神社名の読み方も見事に違うのですね。元の謂れがそれぞれあって、変化したのがよく分かります。
(オタクでうるさい読者ですみません!

「スケッチブック」をクリックで開いてゆく形は文章も読み易く、とても見易いですね。
あの説明だけできちんと仕上げてくださったのが素晴らしいです!

スケッチブックは一番最初の形を作る時が大変ですが、好きなように説明を書けるし、枚数も9枚使え、画像フォルダーに登録さえすれば、後の数字の書換えは簡単だったでしょう?

この形は便利だし、何度でも使えます(笑)
タグの細かい文字を探して書く必要がほとんどないので楽です。

下原稿を「紙」か「メモ長」に保存しておかれて、内容を書き直したい時は前の記事を「全文削除」してからコピペなさってください。
 
 
 
ご指導ありがとうございました! (sakura)
2008-09-01 17:08:37
スケッチブックが説明文を少し覆ってしまいました。
紙からコピーしなおして、文字のタグをエンターキーで下げてみますが駄目でした。
またの機会に、他の記事で作ってみます。

筒井浄妙の塚は、正式には以仁王の陪家であって認められてないのですが…
木の柵の外に治承の役筒井浄妙塚という碑が立っています。
(以仁王の挙兵のことを、治承の役といいます)
橋合戦で大活躍した浄妙、一来法師がこの地域の人々の語り草になり心に残っていて、
陪家であったものを後、筒井浄妙塚としたのかもしれませんね。


 
 
 
突然お尋ねします (mugi)
2010-06-05 19:44:00
 「筒井浄妙の塚」について調べていて、このブログを拝見しました。
 この「筒井浄妙の塚」の「筒井」は、奈良市の筒井順慶などを出した筒井一族と関係があるのでしょうか?
 それから、JR奈良線の電車と塚が一緒に写っている写真(その上にマウスを乗せると別の写真にかわる)をプリントアウトしたいと思い、試してみましたが、うまくいきません。どうしたらいいでしょうか?
 突然の質問になりましたが、よろしくお願いします。
 
 
 
筒井浄妙 (sakura)
2010-06-06 15:41:23
平家物語「橋合戦の事」「宮の最期の事」に登場する三井寺の僧兵たちの出自は未詳。

光明山鳥居前で以仁王とともに戦死した律静坊の阿闍梨日胤は下総国の大豪族千葉介常胤の子ですがこれは例外。それ以外の僧兵の名前は法名、坊名、肩書き、父や兄の官職の略称、住所、出身地、ニックネーム等を組み合わせたもので通称名です。

「平家物語」によると筒井浄妙明秀は宇治川合戦から南都に落ちていき以後消息不明、筒井浄妙明秀が筒井順慶とつながるかどうかはわかりません。

私見ですが「筒井浄妙明秀は大和郡山の筒井出身、三井寺浄妙坊に所属する僧兵だった?明秀は実名」
(三井寺は山門との抗争や源平合戦等で度々焼失、現在この名の坊舎はありませんし平安時代末期、この坊舎があったかどうかも確かめていませんが。)

JR奈良線の電車と塚が一緒に写っている写真の少し上(文字のところ)から少し下(文字のところ)まで範囲指定、CRしてコピー、ワードに貼り付けて不要な文字を削除すれば写真だけプリントできると思いますが。
 
 
 
ありがとうございました (mugi)
2010-06-08 20:26:54
 早速ていねいに返事してくださり、ありがとうございました。感謝いたします。
 (これは、投稿ボタンを押すと、すぐに掲載されるのでしょうか?)
 
 
 
さらにお尋ねいたします (mugi)
2010-06-08 20:39:54
 先ほど投稿に成功したので、一昨日と昨日投稿に失敗した理由がわかりかけてきました(パソコンに不慣れなものですみません)。

 このあたりは、昔は興福寺の荘園(綺荘)だったようです。さらに、三井寺は興福寺から派生した寺らしいとわかりました。
 それから、このあたりは、大和郡山の筒井一族と同じ家紋(梅鉢紋)や、近江の佐々木源氏の家紋(四つ目結紋)の家が多いような印象を抱いていますが、筒井一族や佐々木源氏と、以仁王たちとの関係がよくわかりません。何かおわかりのことがありましたら、教えていただけると幸いです。
 歴史に疎い私で申し訳ありません。



 
 
 
お聞かせください (sakura)
2010-06-10 15:58:12
Mugiさんは南山城近辺にお住まいの方のようですね。
「佐々木源氏と以仁王とが関係ある」と思われるのは何故でしょうか。また「三井寺は興福寺から派生した寺らしいとわかりました。」とお書きですが、
これは何かでご覧になったのでしょうか。
コメントは投稿ボタンを押すとすぐに掲載されます。

 
 
 
何回もすみません (mugi)
2010-06-10 18:30:44
 インターネットで「三井寺は大和興福寺を本寺とする末寺であった」という文があったので、それをうのみにしてしまったのですが、違っていたのでしょうか。
 以仁王と源頼政が関係があるので、佐々木源氏とも関係があるのかなと思っただけですが、あまり関係はないのでしょうか。
 
 ご推察のとおり、私は、この塚のある地域と関係がある者(あった、と過去形にすべきかもしれません)です。
 このあたりの墓を見ると、大和郡山の筒井家と同じ家紋、近江の佐々木源氏と同じ家紋が目につきました。家紋の本を見ると、「苗字は違っても、この四つ目結紋を使っている家の多くは、滋賀県出身の佐々木系と考えてよい」と書かれていたので、なぜ近江源氏の家紋がこのあたりに?と思ってしまった次第です。そこで、近江源氏と山城地域の関わりを調べてみようとしたのですが、よくわからないままです。
 何かご存じのことがあれば教えてほしいと思っただけですので、よろしくお願いします。
 
 
 
佐々木源氏 (sakura)
2010-06-11 16:16:06
源氏は天皇の子孫が臣籍降下する場合の氏の一つであった。嵯峨天皇は50人の子沢山だったといいますから天皇の皇子・皇女が全員皇族になると、朝廷はたちまち財政難に陥りますから、子孫を臣籍降下させるのは財政難を未然に防ぐ方法だったのです。
嵯峨天皇だけでなく他にも清和天皇・宇多天皇・村上天皇、醍醐天皇等多くの源氏があります。よく知られているのが清和天皇を祖とする清和源氏です。

◆清和源氏は源満仲の子の代で頼信が河内源氏・頼親が大和源氏・頼光が摂津源氏と大きく分かれていきます。
河内源氏から八幡太郎義家・義朝・頼朝・義経がでます。
また河内源氏から義家の弟新羅三郎義光の孫義定(近江の所領を継いで浅井郡山本に住み山本と称した)→新羅源氏に分かれます。
摂津源氏から出てくるのが以仁王とともに挙兵する頼政です。

◆佐々木源氏は宇多天皇の皇子敦実親王の養子扶養が近江国守を歴任し、その子成瀬が近江国佐々木荘に住みここを本拠として佐々木と称したのが始まりです。
佐々木源氏は近江源氏とも云われますが、河内源氏から分かれた新羅源氏も近江源氏といいます。

成瀬の子孫は繁栄して佐々木荘の豪族となり、平安時代後期にはその勢力は強大となります。
佐々木秀義は源為義(義朝の父)の娘と結婚し、保元の乱・平治の乱と義朝に従って奮戦し、平治の乱では三条河原で義朝や頼朝を逃がしてやり、秀義も本拠地の近江に落ちていきます。
義朝が滅び去った後平家の世になりますが、幸い平治の乱で義朝軍に従って戦った者も処分はされませんでした。源氏の家人だった者でも平家の家人となる者も多くあったし、そうでない者も一応表向きは平家になびいて静かに暮らしていたのですが、佐々木秀義は平家に従わなかったため佐々木の荘を没収されてしまいます。所領を失った秀義は仕方なく遠縁にあたる藤原秀衡を頼り息子四人(定綱・経高・盛綱・高綱)を連れて奥州に行く途中、相模国まで来たとき、渋谷庄司重国(桓武平氏の流れをくむ)が秀義の勇敢な行動に感心し引き止め、重国の娘の婿に迎えます。やがて重国の娘との間に義清が生まれ渋谷荘(藤沢市)で20年過ごします。
ある日、大庭景親から「北条時政が頼朝を大将軍として謀反を起こそうとしている。」と聞いた秀義は頼朝が平家側に警戒されていること知り、息子定綱を頼朝の許に使いにやりこのことを告げさせた。
この辺りの事情は2010年5月23日「頼朝挙兵(三島大社)」の記事をお読みください。
(左上2010年6月のカレンダー下にある「前月」の文字をクリックして下さい。5月23日の記事が出てきます。)
頼朝が挙兵した時、息子たちは頼朝に従って戦い軍功を重ね、定綱は近江守護、経高は淡路・阿波・土佐の守護、盛綱は伊予越後の守護、高綱は備前の守護に任じられ安芸・周防・因幡・伯耆・出雲・日向に恩賞地を拝領している。
長男の定綱から京極・六角・大原・高島氏が出てきて京極氏から佐々木道誉がでます。京極氏の家紋が四つ目結です。ここから先はmugiさんご自身でお調べ下さい(つづく)

 
 
 
興福寺 (sakura)
2010-06-12 15:06:30
興福寺・三井寺についての概略は、それぞれの寺のHPをご覧になってください。平安時代の中期から後期にかけて僧兵と呼ばれる武力集団が活躍します。特に有名なのが興福寺の奈良法師、延暦寺(山門)の山法師、三井寺の寺法師で、それぞれ大勢力を築き平家物語にも度々登場します。
以仁王がまず三井寺に入ったのもこの僧兵を頼ってのことですし、寺には頼政の弟良智・乗智という僧もいました。しかし平家相手に戦うには三井寺だけではどうしても戦力不足ですから延暦寺・興福寺に応援を頼みます。興福寺はすぐに承知し、奈良にある興福寺の末寺にも誘いかけます。 しかし三井寺と延暦寺とは日頃から仲が悪く、抗争を繰り返していましたからはかばかしい返事はもらえません。そこで三井寺の僧兵や頼政勢が以仁王を守って興福寺からの僧兵たちと合流しようと三井寺から宇治へ抜けていきます。
「平家物語」巻1(額打論の事)(清水寺炎上の事)
二条天皇が亡くなり、その墓所の周囲に寺々の額をかける際、順序を争って興福寺・延暦寺の間で衝突が起こり、延暦寺が興福寺の末寺である清水寺を焼き払います。中右記(藤原宗忠の日記)によると寛治五年(1091)3月に焼けた清水寺は嘉保元年(1094)10月、興福寺隆禅が禅師となり落慶供養が行われ、平安時代中期には興福寺に属していた。
筒井順慶については筒井順慶の墓や郡山城を訪ねたことがあるくらいで詳しいことは知りません。
 
 
 
ありがとうございました (mugi)
2010-06-12 20:35:41
 ご解説、ありがとうございました。
 先祖がどこかでつながっていたのかもしれないと思うと、おもしろいですね。
 本当にありがとうございました。
 
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