![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/79/7e9ba60d4c91266d571f54a066d4c589.jpg)
治承四年(1180)五月、以仁王が諸国の源氏に平氏追討の令旨を
発し蜂起を促していたことが、平清盛に察知されました。
以仁王は平氏政権の専横に反感する園城寺(三井寺)に入り、
源頼政も近衛河原にあった自邸に火をかけ、
以仁王に合流するため園城寺に入りました。
しかし、協力を仰いだ延暦寺が動かず、危険を感じた
以仁王・頼政の軍勢は南都に向かって出発しました。
この時、園城寺から奈良に急ぐ途中に通過したと伝えられる道を
頼政道といい、逢坂関と宇治を最短距離で結ぶ古道と伝えられています。
『源平盛衰記・巻15』は、その逃走経路を次のように記しています。
「関寺・関山打ち続き行くも帰るも逢坂や。一叢(むら)杉の木の下より
筧(かけい)のしみず絶え絶えなり。くぐ井坂・神無の森・醍醐寺に懸りて、
木幡の里を伝いつつ宇治へぞ入らせ給ひける。」
これによるとそのルートは、逢坂から逢坂山の西側、神無の森(追分)、
醍醐、木幡から宇治となります。
やはり『源平盛衰記』巻10第5(宇治合戦附頼政最期の事)に
「宇治と寺との間、行程わずかに三里ばかりなり」と記され、
宇治と園城寺との間が約12キロメートルであることがわかります。
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逢坂山は逢坂の関が設けられたため、関山ともよばれました。
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関寺は謡曲『関寺小町』で知られ、逢坂越え沿いにあった寺院ですが、早くに衰微し、
長安寺(大津市逢坂2丁目)が昔あった関寺境内にあると云われています。
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長安寺より逢坂山を望む
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醍醐から山科日野、木幡山の中腹を経て万福寺東方より
宇治平等院への道は現在、山中いたる所宅地開発が進み、
頼政が通ったという道は分かりにくくなっていますが、醍醐路から
木幡にかけての間に断続的に「頼政道」の名が市道名として残っています。
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醍醐寺裏手の長尾天満宮参道傍にある「頼政道跡」の碑
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長尾天満宮(醍醐寺金堂東北、長尾丘陵の上)
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長尾天満宮本殿(旧醍醐村の産土神)
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醍醐山西麓にある一言寺には参道階段の中ほどを横切る小道があり、
地元の人はこの道を「頼政道」と呼んでいます。醍醐山山麓づたいに
南へ進むと、日野の集落に入ります。法界寺から日野誕生院の前の道を
さらに南下すると、頼政が髭を洗ったところと伝える「髭の辻」に出ます。
この辻を過ぎると山手にかかり、住宅が山の頂まで建ち並んでいます。
宇治市木幡の平尾山の西麓を進むと、市道頼政道沿いに
「頼政道」の碑が据えられています。
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バス停頼政道(東宇治高校東)
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平尾山(木幡山)丘陵に残る自然石に刻まれた「頼政道」
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頼政道(裏面の碑文)
この道は遠い昔から人々の生活を支えてきた。
治承四年(1180)五月二十六日の払暁、老将源頼政はこの道を奈良に
向かったという。以来この道はその名とともに生きてきた。
新しい街づくりのため、この道は生まれかわった。
わたしたちはこのゆかりの地点に口碑を刻み、
その名を永くとどめる。平成元年十二月吉日
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この道をさらに南へ行くと南山団地入口の弥陀次郎川には
「頼政橋」が架かり、頼政が通過したことを伝えています。
頼政が平等院へと急いだ道筋は、醍醐から日野の法界寺を経て、平尾山と
御蔵山の間を抜け、五ヶ庄広岡谷から芝の東へ至る道ということになります。
以仁王謀反(三井寺への逃走経路)
『アクセス』
「長尾天満宮」京都市伏見区醍醐北伽藍町 地下鉄「醍醐駅」下車徒歩20分位
「頼政道の碑」宇治市平尾台一丁目
京阪宇治線・「六地蔵駅」下車、京阪バス「頼政道」バス停徒歩2分
『参考資料』
水原一「新定源平盛衰記」(2)新人物往来社 増田潔「京の古道を歩く」光村推古院
「三井寺」三井寺発行 「三井寺と近江の名刹」小学館 「滋賀県の地名」平凡社
「日本名所風俗図会」(8)角川書店「 日本名所風俗図会」(11)角川書店
斉藤幸雄「宇治川歴史散歩」勉誠出版 「京都府の地名」平凡社
竹村俊則「昭和京都名所図会」(洛南)(南山城)駿々堂
以前の記事でも「亀岡には満仲が京都と川西を行き来した時に通ったという道が残っています。」と教えて頂きました。
間に横たわる東山丘陵を近道で抜ければ宇治そして奈良は案外近いですね。
…伏見桃山で生まれ学生時代に宇治や奈良あたりを自転車で走った人間の実感です。
高貴の生まれで不遇とはいえ大事にされ宮の奥の生活、馬に乗る経験も初めてだろうし、逃避行の途中で何度も落馬されたというのも当たり前ですね。
のちの「建武の中興」の大塔宮は武人っぽいですが…。
悲運な方ですが、後世の歴史がこの方の決心から始まるのだから凄い起爆剤ですね。
新羅三郎頼光の「新羅」のいわれを知らなかったので今回の記事で納得。
元服後、新羅三郎頼光は「河内源氏」ではなく「新羅源氏」として近江近辺に住まいしていたのでしょうか?
これにも諸説ありますが、新羅源氏の義光は、甲斐の守となり甲斐源氏の祖といわれ、
義清、清光、信義つづき甲斐の武田氏がでてきます。新羅源氏は隣の美濃源氏とも結んでいました。
河内源氏については頼朝のところで、満仲(京へ通った道)、
頼義(壺井八幡宮にある河内源氏三代の墓)、義光(三井寺、山麓にある墓)辺りから
系図、写真を見て頂こうと思っています。
頼義の子は義光の兄八幡太郎義家、賀茂二郎義綱もそれぞれ元服した神社に由来する名をもっています。
頼義からの系図を入れようかと迷いましたが、よく理解していただいたので安心しました。
「東山丘陵を近道で抜ければ宇治そして奈良は案外近いですね。…伏見桃山で生まれ学生時代に宇治や奈良あたりを自転車で走った人間の実感です。」と書いて頂きましたが、
yukarikoさんが自転車で走られたころは、古道も古い地名も残っていたでしょうね。
現在木幡山は宅地開発が進み、山は削られ古道が分からなくなっています。
せめてバス停の名だけでも、いつまでも変わらないようにと祈るのは私だけでしょうか。
醍醐長尾天神から木幡まで頼政道を歩きましたが、平尾山で疲れてしまい、髭の辻と口碑は見逃してしまいました。
今回の目的は、重衡の琴引山の場所を特定すること。方丈石から桂川は見えない事でしたので、そちらの方に重点が行った為に、もう足ガクガクでした。
頼政道は、とても狭く、渡辺党、三井寺僧兵1千人の軍隊が行軍するには狭すぎます。少なくとも3mは必要ですが、直ぐ下は崖の狭道を通ったとは思えません。トラブルが無くてもノロノロの行軍で直ぐに平家軍に追い付かれます。
宇治までは逃げおおせたとすれば、もっと広い平野部の道を選んだかと存じます。
逢坂関と宇治を結ぶ頼政道の途中の五ケ庄許波多神社の
旧社地柳山は「古道神山」とよばれていました。
また、永暦元年(1160)5月5日付の後白河院庁下文に見える
「木幡浄妙寺領」の四至の記載に「□限大路」とありますが、
該当する大路(古道)は、頼政道以外になく、
これが古代の主要道であったと考えられています。
□=東
頼政道の背面の碑文を書かれた建築史家の前久夫氏によると、
「私が住む木幡の里に限るなら、法界寺の傍らから、
木幡の平尾を南下して弥陀次郎川を渡って現在の宇治小学校の
東北に続く道である。したがって奈良街道にほぼ並行して
東の山裾を走っていることになる。」と述べておられます。
ところで軍記物語では、兵力は誇張表現されていますよね。
大谷大学所蔵の「後白河院庁下文」に記載されている
道長建立の浄妙寺領に関して、補足させていただきます。
南限は岡屋川(弥陀次郎川)、西限は伏見坂紀伊郡堺、北限車路(醍醐寺領)です。
許波多神社の旧社地柳山は「古道神山」とよばれていましたは、
「許波多神社文書」に見えます。
近世には巨椋堤が築かれましたが、それ以前は巨椋池が広がっていたので、
木幡を通って宇治へ出たのではないでしょうか。
頼政橋から宇治陵を通って頼政道口碑、髭の辻、法界寺、方丈岩の手前500mまで行って参りました。
ここで二つの勘違いを発見しました。
♪伏見過ぎぬ岡の屋になおとどまらじ日野まで行きて駒こころみむ
と言う事で六地蔵辺りかと六地蔵駅からスタート捜しまくりました。黄檗辺りに有るとは…。
あの辺り一体が岡屋なんですね。
途中、南山に宇治陵が有り、宮内庁は誰の陵とも書いていなかったので訝しく思いながら歩いておりました。藤原北家の墓群だったんですね。
ずっと御蔵山に有るものだと思っていました。
頼政道口碑は、バス停の登った所辺りを捜しまくりましたが、貴blog掲載写真の看板からやっと見つけた所です。
髭の辻は看板も何もなく、探しあぐねて法界寺まで行き、戻ってやっと見つけた所です。
無駄なような歩き方ですが、本当の目的は方丈庵跡なので、大変役に立った彷徨でした。
日野から計算上は見える淀が確かに夕闇の中で見えるか?です。夜だと高速道路の証明で淀が判りやすいですので。
今日は黄檗から宇治までを歩こうと思っております。頼政道の完歩をします。勿論目的は方丈庵跡です。
(「発心集 方丈記」新潮社の頭注には、「岡の屋」は
巨椋池(昭和初期に干拓)畔にあった船着場と書かれています。)
地図を見ると、許波多神社、陸上自衛隊宇治駐屯地のあたりが五ケ庄で、
許波多神社の東側には岡屋小学校があります。
「そらみつ大和の国あおによし奈良山越えて山代の 管木の原
ちはやぶる 宇治の渡 瀧つ屋の 阿後尼(あごね)の原を
千年に 欠くる事なく 万年に あり通はむと 山科の
石田の杜の 皇神に 幣取り向けて われは越え行く 相坂山を 」
(万葉集巻13・3236)瀧は隴(おか)の誤写で、
瀧つ屋はオカヤと訓むべきか。(奥野健治「萬葉山代志考」)
宇治陵は鎌足の子、定恵がここに観音寺を建て、死後この地に葬られたことから
藤原氏ゆかりの地となり、古塚が多くあったので道長が墓地の整理をし、
浄妙寺を建て一族の霊を弔いましたが、道長の家系が凋落すると、
墓所も浄妙寺も荒廃しました。特に忠通を東山月の輪に埋葬して以後は
この地に葬る者はなく、明治になって宮内庁が調査しましたが、
どの塚が誰のかわからず、塚には1号から37号の番号がつけられています。
(竹村俊則「昭和京都名所図会・南山城」)
あの辺は宇治陵、許波多神社、菟道稚郎子墓などを歩いたことがあります。