平清盛は以仁王挙兵の際に手を貸した上、反平氏の拠点となっていた
奈良の東大寺・興福寺を攻撃しようとしていました。たちまち
その噂が伝わり南都の僧兵たちは、清盛への反感を一層つのらせ、
不穏な動きをしていました。こうした中、
清盛は瀬尾(せのお=妹尾)兼康ら500余騎を奈良に送り、
これを取り締まろうとしましたが、逆に僧兵は兼康の宿所に押し寄せ、
兼康の軍兵60余人を討ち取り、その首を猿沢の池のほとりに曝しました。
そうした状況を受け清盛は、治承4年(1180)12月25日、
反平氏勢力を一掃するため平重衡(清盛の5男)を大将軍に命じて、
南都を攻撃させました。南都の僧兵7千余人は
奈良坂・般若寺に堀をほり、砦を築いてこれを待ちかまえます。
京都を出発した平家軍4万余騎は、狛(こま=山城町)に宿泊し翌朝、
軍勢を二手に分けて奈良坂・般若寺(はんにゃじ)の城郭に押し寄せ、
鬨の声をどっと挙げて同月28日に合戦となりました。
卯の刻(午前6時)に矢合わせをし、戦いは一日中続きましたが、
しだいに数にまさる平家軍が優勢となり、二か所の城郭は
二つとも落ちました。夜に入り余りに暗いので、重衡が般若寺の
門前に立って「火をつけよ」と命じると、播磨国の住人
福井荘(姫路市西部)の下司(げし)次郎大夫友方が楯を割り、
松明のつもりで民家に放った火が折からの強風に煽られ、
般若寺奈良坂を駆け下り、東大寺は大仏殿・講堂以下、伽藍の大半を焼失、
興福寺も金堂・講堂・南円堂をはじめ、伽藍の多くを失いました。
大将軍重衡も予想だにしない結果でした。
奈良坂・般若寺は、京都から奈良への入口にあたり、般若寺から
旧京街道を北に10分ほど歩くと、古くから奈良坂と呼ばれる峠にでます。
南都と山城国の往来に頻繁に利用された峠越えの道です。
今回は南都焼き討ちの舞台となった般若寺から東大寺、興福寺へと辿りましょう。
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◆般若寺
法性山般若寺(真言律宗)は、寺伝では629年に高句麗の慧灌(えかん)が
創建したと云われていますが、その他、
奈良時代の聖武天皇建立説や行基開基説など諸説あります。
この地は平城京の鬼門の方角にあたることから、聖武天皇が都の平安を願って
大般若経を納めたことから般若寺とよばれるようになったと伝えます。
平重衡の南都焼き討ちの際、寺は戦場となり全て焼失しました。
「巻12・重衡の斬られの事」によると、「平家が壇ノ浦で滅びた後、重衡は
木津川の畔で首を斬られ、般若寺の門にかけられて見せしめにされた。」とあります。
鎌倉時代になると石造十三重塔、続いて楼門、経蔵などが造営されました。
楼門の前に立つ十三重石塔は、宋の石工伊行末(いぎょうまつ)が再建したものです。
伊行末は明州(浙江省寧波)出身で東大寺再建のために重源に招かれて来日、
大仏殿や諸堂の石壇、四面回廊、法華堂前の石灯籠を造り、
この石灯籠には五位の工人としての身分「石権守行末」と刻まれています。
大仏殿修造後、叙官のお礼として石灯篭を施入したと考えられています。
伊行末の息子伊行吉が父の三回忌にあたる弘長元年(1261)に建立した
笠塔婆は我国最大の石塔婆です。もとは寺の約150m南方の
街道に面して建っていましたが、明治になって般若寺境内に移されました。
この寺はかつて荒れるにまかせていた時期もありましたが、
現在は春の山吹、秋には色とりどりのコスモスが境内に咲きみだれ
「関西花の寺17番札所」として知られています。
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東大寺再建に活躍した伊行末が再建した十三重の塔(国重文)
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本堂には、本尊の木造八字文殊菩薩騎獅(きし)像(国重文)が安置されています。
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笠塔婆2基(国重文)
弘長元年(1261)に1基は父伊行末のため、
1基は母の無病息災を祈って伊行末の嫡男伊行吉が建立しました。
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兵火が駆け下った奈良坂口
◆東大寺
東大寺は二度焼討に遭っています。平安末期の平家による南都焼討と
戦国時代、三好三人衆と松永久秀の戦いに巻き込まれて再び焼亡しました。
寺は聖武天皇の皇太子基(もとい)親王の菩提を弔うために建てた金鐘寺を
はじまりとし、本尊は国宝盧舎那仏で奈良の大仏さんの名で親しまれています。
平重衡の南都攻めの兵火では正倉院・二月堂・法華堂・転害門などを
除く大半の堂舎が焼失しました。再建、再々建された境内には
奈良、鎌倉、江戸時代の伽藍、仏像が混在しています。
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南大門の両脇には木造金剛力士立像(国宝)が一対安置されています。
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南大門から大仏殿へ
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南大門の真北に建つ中門(国重文)
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大仏殿
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大仏殿正面の八角灯籠(国宝)は、大仏開眼の752年頃の造立と考えられています。
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国宝の廬舎那仏坐像
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三月堂ともよばれる法華堂。その前の石灯籠(国重文)には、
建長6年(1254)に伊行末が施入したと刻まれています。
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法華堂北の階段を上ると、お水取りが行われる二月堂があります。
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兵火が燃え下った道筋にたつ転害門(てがいもん)
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九州の宇佐八幡神を大仏の鎮守として勧請したのが始まりです。
管原道真の♪この度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
で有名な手向山八幡宮
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◆興福寺
興福寺は鏡王女(かがみのひめみこ)が夫藤原鎌足の病気回復を祈願して
山城国山階(京都市山科区)に創建した山階(やましな)寺に始まります。
その後、飛鳥を経て平城遷都に伴い藤原不比等によって現在地に移され、
興福寺と改名された藤原氏の氏寺です。不比等の娘が聖武天皇の
妃・光明皇后となってから多くの堂塔・仏像が天皇によって造営され、
藤原氏の氏寺として栄えていましたが、平重衡の南都焼討でほぼ全焼しました。
この時、兵火を免れた奈良時代の諸像は国宝館に安置されています。
その後も火災と復興をくり返し、現在の諸堂は鎌倉時代以降の建築物です。
往時は大伽藍が建ち並び栄華を誇っていた寺も明治初年の廃仏毀釈によって、
春日神社が分離し、旧境内は奈良公園になりました。
一時は廃寺同様となり、五重塔を売る話まで出たほどでしたが、
法相宗大本山興福寺として復興、平成10年に世界遺産に登録されました。
門も塀もなく境内にはどこからでも入ることができます。
♪秋風や囲(かこい)もなしに興福寺 子規の句が思い出されます。
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興福寺のすぐ南、三条通りを渡ると猿沢池にでます。
妹尾兼康の部下の首がこの池の畔に掛けられました。
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平家物語(巻五)奈良炎上のあらすじを載せています。
平家物語(巻五)奈良炎上
平重衡の墓 平重衡とらわれの松跡
般若寺の平重衡供養塔・藤原頼長供養塔
木津川市泉橋寺(南都焼討犠牲者の供養塔)
『アクセス』
「般若寺」奈良市般若寺町221
JR・近鉄奈良駅よりバス青山住宅行「般若寺前」下車徒歩5分
「東大寺」奈良市雑司町406-1 近鉄電車奈良駅下車東へ徒歩約15分
又は JR「奈良駅」、近鉄電車奈良駅より市内循環バス「大仏前」下車北へ3分
「興福寺」奈良市登大路町48 近鉄電車奈良駅下車徒歩5分
JR「奈良駅」下車バス停「県庁前」すぐ。 または徒歩約15分
『参考資料』
「郷土資料事典」(奈良県)人文社 「奈良県の歴史散歩(上)」山川出版社
「奈良県の地名」平凡社 茂木雅博「日中交流の考古学」同成社
川勝政太郎「日本石造美術辞典」東京堂出版 「佐紀佐保」綜芸社 「興福寺」小学館
はるか昔に訪れた時は寂れたお寺でした。
次にコスモスの頃NHKで放映され行ってみたら荒れたお寺と風情のある庭のコスモス、その花の間を人がうろうろ、もうだいぶ経って行ったら、境内はきれいに整備されていましたが観光バスと自動車が連なってごった返していました(笑)
お寺の由来はよく知りませんでした…貰って読んだ筈ですが今のような読み解いて貰った知識が全くない頃なので頭には残らなかったのでしょう。
先日の奈良行きでも鐘楼の横を通って二月堂に、帰りは「手向山神社」の参道を降りてきましたが、ここが管家の『紅葉の錦神のまにまに』の手向山八幡宮だと気付いていませんでした。
今回のお写真で手向山八幡宮の楼門を見て、行く時入口前を通ったのに…お参りすればよかった…と思った事でした(笑)
ところで昨年のお正月に百人一首を一生懸命覚えておられたので、残念に思われるのですね。この歌は「古今集」にも朱雀院(宇多上皇)の奈良におはしましける時に手向山にて詠める 菅原朝臣)として載せられています。
宇多上皇が奈良・吉野・竜田・難波に行幸された際、菅原道真も従い、一般に手向山八幡宮の裏山、若草山の西端の八幡山・天地院山(手向山)を詠んだとされ、手向山八幡宮の境内に歌碑が建っています。またの機会におたずねになって下さい。
少し話はそれますが、「手向け」は峠の語源、「たむけ」がなまって峠となり、
旅の道中の無事を祈って道の神に幣を手向ける場所をいいます。道は未知の国へ行く通路で手向け(幣をささげる)をしないと通してもらえないと考えられていました。
道の神に道中安全を祈る「手向山」は普通名詞的に使われ、「万葉集」巻三では奈良山(平城山)をさし、近江と山城の国境にある逢坂山も「万葉集」巻六・巻十二では手向山として詠まれています。
このことから道真のこの歌も手向山八幡宮の裏山をさすとは断定できないともいわれています。
彼が如何なる出自か御存知ですか?高倉上皇・以仁王の伯父で在り、安徳天皇の大伯父で在り、後白河法皇の異腹兄で在り、則ち鳥羽法皇と小鳥羽殿と言われた、女官で治部大輔平兼孝の娘、平保子の間に生まれた御子です。
非武装の妹尾家家人郎党を虐殺とは僧侶を語る邪魔外道としか申せません。
南都の僧は、妹尾家家臣の弔いをしてるのでしょうか?
「平家物語」には、重衡の南都出陣の前に清盛が瀬尾(妹尾)兼康をまず派遣したとあります。
富倉徳次郎氏は重衡が数千騎を率いて発向したことは「山塊記」に見えるので
史実であるが、兼康のことは「玉葉」「山塊記」には、記されていないので、
史実かどうか明らかでない。と述べておられます。(「平家物語・全注釈(中)」)
「平家物語」は、事実を書いた歴史書と受けとめられますが、物語には史実からかけ離れた説話や逸話も載せられています。
兼康の出自には諸説あるようですね。
兼康の主家に対する忠義心は、「瀬尾(せのお)最期」の章段で、
冷酷非情な闘う者のあり様を生々しく伝え、私たちに大きな感動を与え
問題を考えさせてくれる物語となっています。
兼康は最後のところで、自分にとつてかけがえのない存在が何であったかを思い起こし、
我が子を捨てきることができず、小太郎ともに死ぬことを選びましたね。