コメント
 
 
 
三井寺の寺領が広いと以前の記事で教えて頂きましたから。 (yukariko)
2008-09-28 13:47:55
今の国道とは違い、有名な古道でも狭かったでしょうし、地元の人間が便利に使う間道は幾通りもあったことでしょう。

以前の記事でも「亀岡には満仲が京都と川西を行き来した時に通ったという道が残っています。」と教えて頂きました。

間に横たわる東山丘陵を近道で抜ければ宇治そして奈良は案外近いですね。
…伏見桃山で生まれ学生時代に宇治や奈良あたりを自転車で走った人間の実感です。
高貴の生まれで不遇とはいえ大事にされ宮の奥の生活、馬に乗る経験も初めてだろうし、逃避行の途中で何度も落馬されたというのも当たり前ですね。
のちの「建武の中興」の大塔宮は武人っぽいですが…。
悲運な方ですが、後世の歴史がこの方の決心から始まるのだから凄い起爆剤ですね。

新羅三郎頼光の「新羅」のいわれを知らなかったので今回の記事で納得。
元服後、新羅三郎頼光は「河内源氏」ではなく「新羅源氏」として近江近辺に住まいしていたのでしょうか?
 
 
 
近江国に土着したのは近江源氏です。 (sakura)
2008-09-28 18:31:05
この流れから六角、京極氏がでてきます。

これにも諸説ありますが、新羅源氏の義光は、甲斐の守となり甲斐源氏の祖といわれ、
義清、清光、信義つづき甲斐の武田氏がでてきます。新羅源氏は隣の美濃源氏とも結んでいました。

河内源氏については頼朝のところで、満仲(京へ通った道)、
頼義(壺井八幡宮にある河内源氏三代の墓)、義光(三井寺、山麓にある墓)辺りから
系図、写真を見て頂こうと思っています。

頼義の子は義光の兄八幡太郎義家、賀茂二郎義綱もそれぞれ元服した神社に由来する名をもっています。

頼義からの系図を入れようかと迷いましたが、よく理解していただいたので安心しました。

「東山丘陵を近道で抜ければ宇治そして奈良は案外近いですね。…伏見桃山で生まれ学生時代に宇治や奈良あたりを自転車で走った人間の実感です。」と書いて頂きましたが、
yukarikoさんが自転車で走られたころは、古道も古い地名も残っていたでしょうね。

現在木幡山は宅地開発が進み、山は削られ古道が分からなくなっています。
せめてバス停の名だけでも、いつまでも変わらないようにと祈るのは私だけでしょうか。

 
 
 
平尾山で疲れてしまい (自閑)
2016-09-11 20:11:50
sakura様
醍醐長尾天神から木幡まで頼政道を歩きましたが、平尾山で疲れてしまい、髭の辻と口碑は見逃してしまいました。
今回の目的は、重衡の琴引山の場所を特定すること。方丈石から桂川は見えない事でしたので、そちらの方に重点が行った為に、もう足ガクガクでした。
頼政道は、とても狭く、渡辺党、三井寺僧兵1千人の軍隊が行軍するには狭すぎます。少なくとも3mは必要ですが、直ぐ下は崖の狭道を通ったとは思えません。トラブルが無くてもノロノロの行軍で直ぐに平家軍に追い付かれます。
宇治までは逃げおおせたとすれば、もっと広い平野部の道を選んだかと存じます。
 
 
 
お疲れさまでした。 (sakura)
2016-09-13 15:52:27
長い道のりをお歩きになるには、まだ暑かったでしょうに。

逢坂関と宇治を結ぶ頼政道の途中の五ケ庄許波多神社の
旧社地柳山は「古道神山」とよばれていました。

また、永暦元年(1160)5月5日付の後白河院庁下文に見える
「木幡浄妙寺領」の四至の記載に「□限大路」とありますが、
該当する大路(古道)は、頼政道以外になく、
これが古代の主要道であったと考えられています。
□=東 

頼政道の背面の碑文を書かれた建築史家の前久夫氏によると、
「私が住む木幡の里に限るなら、法界寺の傍らから、
木幡の平尾を南下して弥陀次郎川を渡って現在の宇治小学校の
東北に続く道である。したがって奈良街道にほぼ並行して
東の山裾を走っていることになる。」と述べておられます。

ところで軍記物語では、兵力は誇張表現されていますよね。

 
 
 
追記 (sakura)
2016-09-14 08:52:32
自閑さま
大谷大学所蔵の「後白河院庁下文」に記載されている
道長建立の浄妙寺領に関して、補足させていただきます。

南限は岡屋川(弥陀次郎川)、西限は伏見坂紀伊郡堺、北限車路(醍醐寺領)です。

許波多神社の旧社地柳山は「古道神山」とよばれていましたは、
「許波多神社文書」に見えます。

近世には巨椋堤が築かれましたが、それ以前は巨椋池が広がっていたので、
木幡を通って宇治へ出たのではないでしょうか。
 
 
 
頼政橋から宇治陵を通って髭の辻辻まで (自閑)
2016-09-25 08:31:39
sakura様
頼政橋から宇治陵を通って頼政道口碑、髭の辻、法界寺、方丈岩の手前500mまで行って参りました。
ここで二つの勘違いを発見しました。
♪伏見過ぎぬ岡の屋になおとどまらじ日野まで行きて駒こころみむ
と言う事で六地蔵辺りかと六地蔵駅からスタート捜しまくりました。黄檗辺りに有るとは…。
あの辺り一体が岡屋なんですね。
途中、南山に宇治陵が有り、宮内庁は誰の陵とも書いていなかったので訝しく思いながら歩いておりました。藤原北家の墓群だったんですね。
ずっと御蔵山に有るものだと思っていました。
頼政道口碑は、バス停の登った所辺りを捜しまくりましたが、貴blog掲載写真の看板からやっと見つけた所です。
髭の辻は看板も何もなく、探しあぐねて法界寺まで行き、戻ってやっと見つけた所です。
無駄なような歩き方ですが、本当の目的は方丈庵跡なので、大変役に立った彷徨でした。
日野から計算上は見える淀が確かに夕闇の中で見えるか?です。夜だと高速道路の証明で淀が判りやすいですので。
今日は黄檗から宇治までを歩こうと思っております。頼政道の完歩をします。勿論目的は方丈庵跡です。
 
 
 
お返事が遅くなってすみませんでした。 (sakura)
2016-09-26 00:20:20
岡屋ですが、「もし跡の白波に、この身寄する朝には、岡の屋にゆきかふ船を眺めて」
(「発心集 方丈記」新潮社の頭注には、「岡の屋」は
巨椋池(昭和初期に干拓)畔にあった船着場と書かれています。)
地図を見ると、許波多神社、陸上自衛隊宇治駐屯地のあたりが五ケ庄で、
許波多神社の東側には岡屋小学校があります。

「そらみつ大和の国あおによし奈良山越えて山代の 管木の原
 ちはやぶる 宇治の渡 瀧つ屋の 阿後尼(あごね)の原を
 千年に 欠くる事なく 万年に あり通はむと 山科の
 石田の杜の 皇神に 幣取り向けて われは越え行く 相坂山を 」
(万葉集巻13・3236)瀧は隴(おか)の誤写で、
瀧つ屋はオカヤと訓むべきか。(奥野健治「萬葉山代志考」)

宇治陵は鎌足の子、定恵がここに観音寺を建て、死後この地に葬られたことから
藤原氏ゆかりの地となり、古塚が多くあったので道長が墓地の整理をし、
浄妙寺を建て一族の霊を弔いましたが、道長の家系が凋落すると、
墓所も浄妙寺も荒廃しました。特に忠通を東山月の輪に埋葬して以後は
この地に葬る者はなく、明治になって宮内庁が調査しましたが、
どの塚が誰のかわからず、塚には1号から37号の番号がつけられています。
(竹村俊則「昭和京都名所図会・南山城」)

あの辺は宇治陵、許波多神社、菟道稚郎子墓などを歩いたことがあります。

 
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