コメント
 
 
 
言い伝えとは当てにならないものですね。 (yukariko)
2020-01-10 20:44:37
741年という大昔、行基さんからの名寺が南都攻めの際に消失し、その後再建されても、またも1471年に戦火で一堂伽藍が消失して後の長い年月の間に言い伝えも途切れてしまい、『南都焼討の犠牲者の供養塔』が光明皇后の遺髪塔と誤って伝えられているなんて…祀られている人々にとっては悔しさ極まりない話ですね。

この長い長い年月に恩讐も消え果ててとっくに成仏なさり、転生さえもなさっているかもとは思いますが(笑)

 
 
 
そうですね。 (sakura)
2020-01-12 10:13:34
現在、泉橋寺は中世の兵火で衰微し、本堂庫裡・観音堂などを残すだけですが、
当時は方1町(約109m四方)の大寺でした。
この寺が完成した時、聖武天皇はここに行幸し風雅な遊びをされました。

左大臣橘諸兄(もろえ)が琴を弾いて天皇に和歌を贈り、
これに答えて天皇も歌を返し、また泉川(木津川)を巡遊して終日楽しまれました。
こうして諸兄が食封(じきふ)を寺に与え、天皇は食封100戸を下賜されました。
聖武天皇の皇后「光明皇后の遺髪塔」の伝承は
こんなところから生まれたのかも知れません。
 
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