平家物語・義経伝説の史跡を巡る
清盛や義経、義仲が歩いた道を辿っています
 



JR山陰線亀岡駅の二つ北にある千代川駅から800㍍ほどのところに
金華山小松寺(浄土宗)があります。

この駅の東側を流れる大堰川は、亀岡盆地のほぼ中央を貫流したのち、
嵐山まで保津川となって流れ、京都盆地では保津川から桂川となり淀川に合流します。

千代川駅から国道9号線に出て、千原交差点で左折し山側へ向かいます。

千原交差点



小松寺は千原山の山麓、道沿いに水路が流れる集落のはずれにあります。





長い石段の先に表門がたっています。

本尊は阿弥陀如来、観音堂に懸仏(かけぼとけ)形式の十一面観音石像が祀られています。

鐘楼の傍から亀岡盆地が一望できます。

 

寺伝によれば、小松内大臣と称せられた平重盛(1138~1179)は、
仏の信仰厚く中国宋の育王山に祠堂金を納めた際、その返礼として
育王山青龍寺(せいりゅうじ)より三寸五分の十一面観音石像を贈られ、
守本尊としていましたが、寵臣(俗名不詳)にこの石像を与えました。

重盛死後、寵臣は形見の石仏を持って故郷の千原村に帰り、
出家して妙善と名を改め養和元年(1181)この地に観音堂を建て
この石像を安置し、金華山小松寺と称しました。

『桑下漫録』に引用されている「盥魚(かんぎょ)」に、
昔、瀬尾(せのお)太郎が千原村を領地としていたので、
寺院を構えて重盛の菩提を弔ったと記されています。

瀬尾太郎兼康は『巻4・無文』で、平家一門の未来について
悲壮な夢を見た人物として描かれています。

重盛はある夜、悪行が過ぎた罪で春日明神が清盛入道の首を
太刀の先に貫いて高々と掲げる夢を見ました。
その時、夜の明けるのを
待ちかねて兼康が参上し、重盛と同じ不吉な夢を語りました。

境内には近くの丹後街道沿いから移された法華経の経塚があります。

最明寺入道北条時頼(1227~1263)は諸国行脚の時、
観音堂へ参拝してこの村に逗留し、一個の石に一文字の法華経を書写し、
街道筋に埋め塚とし、その上に卒塔婆をたてたと伝えています。
江戸期の地図などにも「たかそとば村」(千原村のこと)とあり、
その下で市が開かれていたとの記録も見られます。

当初、高さが12間余(約22㍍弱)もあり、12面の銅鏡を掛け
高卒塔婆とよばれていましたが、倒れたり朽ち損じたりする度に
建て直され、銅鏡は5面に減り高さも随分低くなったという。

『平家物語』で、平重盛と宋との交渉を伝えているのは「巻3・医師問答」と
「巻3・金渡し(こがねわたし)」です。このうち「金渡し」によると、
重盛は自身の後世安堵のため、九州から妙典という船頭を呼び、
三千五百両を渡して「五百両はそちにとらせよう。三千両は宋に運び、
千両は育王山(浙江省寧波にある阿育王寺)の僧へ贈り、
二千両は帝へ献上し、それを田地に替えて育王山に寄進して
わが後世をとむらってほしいと伝えよ」といいつけました。


妙典は宋国へ渡り、育王山の高僧徳光禅師に会い、この由を一部始終申し上げると
禅師は重盛の心に感じ入り願いは叶えられ、今でも育王山では
重盛の菩提を弔う祈りが続けられているという。

妙典について『平家物語全注釈』の解説に、宗像氏国の家人、
許斐(このみの)忠太妙典入道という中国渡海の熟練者がいたと書かれています。
当時、宋との交通や貿易に九州の宗像氏が大きな役割を担っていたと考えられ、
許斐家は重盛に仕え水軍を司っていたと思われます。

宗像大社は中世のはじめには九州各地に40ヵ所余りの荘園を持ち、瀬戸内海や
北九州で高麗や宋と密貿易を行っていましたが、清盛の日宋貿易を重視する
対外政策が展開されると宗像氏は平氏の統制下に入りました。

現在宗像大社には、高さ1・5㍍、幅1㍍の阿弥陀経石(重要文化財)が安置されています。
それは重盛が育王山へ贈った寄付へのお返しとして、建久九年(1198)秋に
重盛追善のために宗像大社に送ってきましたが、すでに平家が
滅亡した後だったので都へは運ばれなかったと伝えられています。


また「妙典とは貴い経典の意味で、特に法華経をいう語でもある。
『延慶本』には重盛が宋に贈ったのは、金の他に持仏の霊仏と、
「一部十巻法花(ほっけ)妙典」を書写したものに
書面を添え、金を贈る旨を記している。
単に金だけを船頭の口頭で伝えて届けるより現実味がある。」
(『新潮日本古典集成』水原一氏頭注)

瀬尾太郎兼康は平氏の有力家人として、
生涯忠義を尽した武将として知られています。
瀬尾(妹尾)太郎兼康の墓  
『アクセス』
「小松寺」京都府亀岡市千代川町千原東斉の本23
JR山陰線千代川駅下車徒歩約13分

『参考資料』
「京都府の地名」平凡社、1991年 新潮日本古典集成「平家物語(上)」新潮社、昭和60年
倉富徳次郎「平家物語全注釈(上)」角川書店、昭和62年 県史40「福岡県の歴史」山川出版社、昭和49年



コメント ( 2 ) | Trackback (  )


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コメント
 
 
 
亀岡市小松寺 (揚羽蝶)
2017-04-29 19:39:57
重盛公は灯籠の大臣と呼ばれたほど信心深い方でした。良い人達にも恵まれ妙典を宋に遣わし育王山の高僧に
重盛公の気持ちを伝えてもらい、今でも菩提を弔う祈りが続けられているとか、平盛俊にゆかりのある宗像大社に育王山から贈られた阿弥陀経石があるのは、嬉しいです。妙善も瀬尾太郎にゆかりのある、亀岡千原村に寺院を構え重盛公の菩提を弔ったのですね。
 
 
 
お返事遅くなって申し訳ございませんでした (sakura)
2017-05-03 09:06:17
阿弥陀経石が現存する宗像大社は、平盛俊が預所として守ったのでしたね。

江戸時代の摸刻ですが、同じものが京都に残っています。
一基は小松谷正林寺、もう一基は知恩寺です。

正林寺の境内は現在、保育園の園庭となっているので、拝観するには寺の許可が要ると思いますが、
知恩寺は自由に拝観できます。

この寺は法然と源智の寺です。
源智は法然の弟子で重盛の孫、師盛の子といわれています。
平家滅亡後、源智は厳しい源氏狩りを逃れ
法然に匿われて生き延び、のちに高僧となった人物です。

京都においでになる機会がございましたら、
一度この寺をお訪ねになってください。

知恩寺は左京区百万遍の京都大学の向かい側、経石は本堂前にあります。

 
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