立待岬の帰路に、必ず御参りするのがここ碧血碑(へっけつひ)。
明治元年、京都郊外の鳥羽伏見で新政府軍と旧幕府軍が衝突。
戊辰戦争の始まりだった。
幕府軍は流れ流れて蝦夷地まで。
明治2年5月、箱館総攻撃となって五稜郭に本営を置いていた幕府・榎本軍は降伏。
この碑は、旧幕府軍の戦死者を祭るため明治8年に建立された。
碑の題字は、榎本軍の陸軍奉行・大鳥圭介とも言われているが定かではない。
官軍の戦死者は、一人一人に墓碑が立てられ埋葬された。
その歴史は、靖国神社よりも遡る。
この官軍墓地(函館山麓・護国神社)の造営にあたっては、幕府軍の捕虜が使役された。
さぞかし悔しかったことだろう。
いつもなら碑元に千羽鶴があるのだが。
見当たらない。どうしたのだろうか?
答えはこの東屋にあった。
近くのボランティアの方々が冬篭りの支度。
きちんとビニールに包まれて保管されていた。
戦死者の多くは、明治政府の命によって野ざらしのまま。
野犬やカラスによって傷められた。
収容され、この碑に埋葬されて安堵したことだろう。
この後も、鹿児島で殺し合い(西南戦争)があったとは・・・。
近代明治が産声をあげるのには、まだまだ時間がかかっていたようだ。
ご遺骨が埋葬されている痕跡がありませんでしたが?
ようこそマイブログへ。
床はコンクリートで固められ、痕跡はありませんね。
実はご遺骨は、碑の右後ろの大きな石の下に埋葬されています。
盗掘などを恐れた処置だったのでしょうか。
家族を内地に残しての戦死。さぞ辛かったことでしょう。 ミカエル