先号で、新撰組副長「土方歳三コンテスト」を掲載しました。
彼が小姓の市村鉄之助に、日野・佐藤彦五郎宅へ届けるよう命じた品々の中には写真もありました。
それは、皆さんが現在ご覧になっておられる洋装のかっこいい歳三さんの姿です。
彼は横浜で、アメリカ南北戦争で使われた中古衣類の中からお気に入りを見つけ、箱館へ持ち込みました。
この優雅な姿を撮影したのは、三重県熊野市出身の写真師・田本研造氏。
1832(天保3)年に生まれ、1912(大正元)年に函館で没しました。
幕末に、開港間もない箱館に長崎奉行所から赴任。
箱館駐在ロシア領事館員から写真技術を習得しました。
土方の写真は、彼の名声を後世まで残すものとなり、開拓使(現在の北海道開発局)から撮影記録保存の依頼もあって、足の不自由さを克服しながら、作品を東京へ送りました。
その田本研造氏の末裔の方がやっておられた「タモト写真材料店」が閉店して異業種の居酒屋へ転換。
その理由はよく分かりませんが、推測するとやはり「デジカメ」の発達普及ではないかと。
ひまな時間にお店を訪ね、土方とご先祖様の撮影秘話などをお聞きしようかな?と考えております。
このお店の場所は、なんと土方死亡地のひとつに挙げられている「英国橋(異国)」のすぐそば、現在の十字街交番近く。
何かの因縁なのかな?と深く考えさせられます。
ようこそマイブログへ。
少し時間を貸してください。
夜にでも訪ねてお話をお聞きしたいと。
貴重なご意見を頂戴して有難うございます。
ミカエル
お返事がすっかり遅くなって申し訳ありません。
さきほど、ご主人と連絡がとれまして、末裔の方である旨ご回答を得ました。
とても親切な方で、細やかに教えてくださいました。 ミカエル
ようこそマイブログへ。
ご祖父さまは、開拓使(現北海道開発庁)に勤務されていたのでしょうか?
いずれにしてもかなり身分の高い方と推察いたしました。
函館山の裏側に寒川集落があり、富山県の移住者で構成されていました。
田本氏は公共事業の写真を多く残しています。
またのご訪問をお待ちしております。
ミカエル
函館へ何度もお越しくださって有難うございます。
近年、市内の観光地の環境整備が行われ、昭和のときとは大きく様変わりしております。
明治のころの三井物産函館店の絵図を見たことがあります。漆喰塗りの外壁、瓦屋根でした。
三井と函館のかかわりです。
① 明治5年、開拓使が三井組に委託して「開拓使兌換証券」を発行。
② 明治9年、三井銀行が札幌と函館に出張所を開設。
③ 明治26年、日本銀行函館出張所が開設。
この時の事務所は、三井銀行内に置かれた。
どうして、根室に支店が置かれたのかは、推測ですが・・・
明治4年、札幌を開拓使本府と定め、函館と根室に出張開拓使を置いた。
このあたりにヒントがあるように窺えるのです。
田本氏が写場(スタジオ)を開いたのは明治2年。土方が戦死した年。
写場の基礎石垣は、現在でも残されており、歯科医院の基礎として使われています。
妻・ミケのいとこが物産函館に約40年勤務しました。
長くなってしまいました。
ご容赦ください。 ミカエル