所在地=函館市青柳町 函館公園内
新図書館が平成17年11月に五稜郭公園の堀の傍(旧北海道渡島支庁跡地)に移転新築し、その名も「市立函館中央図書館」としてオープンしてから1年半が経過した。
それまで市民や北方研究者への情報提供の場として利用されてきたこの建物は、閉鎖され第二の活用方法を静かに待っている。
図書館の歴史を振り返ってみると
1.明治39年、函館在住・岡田健蔵氏が自宅に図書室を設け無料 公開
2.明治42年、函館公園内の区有建物・協同館(当初は賓客接待所)を借り受け、私立函館図書館を開館
3.大正5年、市内の豪商・相馬哲平氏(公会堂建設の際にも大口寄付者)の9千円の寄付金をもとに書庫(右写真)を建設
4.大正15年、市内の豪商・小熊幸一郎氏の50,000円の寄付金をもとに、図書館建設に着手(左写真)
5.昭和3(1928)年7月16日、市立函館図書館開館式
こうして、函館図書館の父とうたわれた岡田健蔵氏の資料収集努力と、市内の豪商の寄付金によって、北方資料の宝庫・市立函館図書館は奉仕を開始したのである。
左の建物は昭和2(1927)年完成の鉄筋コンクリート造3階建の事務室、閲覧室棟で、正面の太い4本の円柱が目をひく。
設計は市役所技師・小南武一氏で、氏は多くの公共建築物の設計を担当、弥生小学校、公民館などの作品がある。
右の建物は大正5(1916)築の鉄筋コンクリート造5階建の書庫。
設計は辰野葛西建築事務所で、辰野とは著名な「辰野金吾氏」で、氏は別名「辰野堅固」とよばれるほど頑丈第一の設計思想の持ち主で、代表作に日本銀行本店、東京駅、旧日本銀行小樽支店などがある。
施工者は旧函館区公会堂も手がけた村木甚三郎氏で、当時のそうそうたる顔が関わった。
この不燃図書館のおかげで、全市の3分の1を焼いた昭和9年の函館大火から貴重な資料を守れたのである。
撮影に行ったのは4月12日、月末から始まる夜桜のための提灯が取り付けられていた。(右写真)
五稜郭は酔客が堀に落ちるのを防ぐために、桜開花期間中は夜間閉鎖、ここに夜桜見物客が集まる。が、まだ寒い。
冬並みの身まかないで熱燗に人気がある。
露店の焼き鳥や花見客のジンギシカン鍋から立ち上がる煙とにおい、軽快な三味線の音、風情溢れる電飾花見はもうすぐだ。
ミカエル
頑丈第一の設計とのこと、それがあるべき姿ですよね。
1月30日の記事に、日本銀行の写真を載せてありますので、よろしければご覧ください。
ジンギスカンの煙やあのお肉の感触や香りが
思い出されます。
函館では外で食べることはなかったのですが
日高地方に住んでいた頃はよく誘っていただいて
みんなで食べました。
何~にも知らず、1人で大阪から渡ってきた私を
歓迎してくださり、良くして頂きました。
ああいった人としての濃厚な関わりは
もうないんだなぁと寂しく思います。
祖父様が勤務された日銀本店は、明治29年に7年の竿月をかけて完成(五稜郭も7年)、ベルギーの中央銀行を手本に、ルネッサンス洋式を取り入れた建築。明治中期の西洋建物としては、迎賓館と並ぶ二大傑作と言われており、重要文化財に指定され、重厚さと品格の高さを感じます。
大正13年の函館大火の際、函館支店が炎上、黒煙もうもうの写真が残されています。
日銀函支には4年前、見学で初めて入りました。
ミカエル
「全ての人にウエルカム精神」は、北海道人気質ですよ。
明治2年から始まった北海道開拓、隣近所が助け合い、励まし合って生きてきた先祖の姿を引き継いでいるように思えます。ミカエル
おかげで出店にしばし目をとられ、右の写真の書庫を見逃してしまいました(笑)。
去年は桜はまだ咲いていませんでしたけれど、今年はどうなるのか、ちょっと楽しみです。
こんばんは!
昨年来函のとき、何泊されて、どこどこご覧になったのですか? ミカエル
函館支店に行ったのは、おそらくこの火事の前頃ではないでしょうか。
ミカエルさんのお返事を読んで、会ったことも無い祖父が、急に身近に思えてきました。
それでも早朝から見て回ったから、大概の建築(明治期~昭和初期のもの)は見られましたよ。
元町、大町、末広町、弥生町、船見町、弁天町、豊川町、青柳町、宝来町に大手町・・・
他にもトラピスチヌ修道院や永全寺納骨堂、大森町の慰霊堂に八幡町の旧函館師範学校。笹流ダム等々。
最終日には五稜郭の新タワーに登り、函館の町に別れを告げる事も出来ました。
それでも見逃したのは遺愛女子高・・・というか女子高には近づけません・・・
ご自分が住んでいる町のように自由自在に走りまわったようで、旅慣れているスーパーマンといった感じです。
「永全寺」の見どころは何だったのでしょうか?
地元では話題にのらない寺院なのですが・・・。
女子高は、意識してしまうと駄目ですねぇー。
ミカエル
下見板張りに上げ下げ窓の洋風建築なんですよ。
違ったかな?