天気のよい日は、スニーカーを履き、市電、バスの一日乗車券を買い求め、
西部地区をゆっくりと散策。
素晴らしい意匠を持つ建物や歴史ある建造物に目を奪われ、しばし佇む。
私にとっては、至福のひとときだ。
小学6年から中学2年まで大森町に住んでいた。
遊び場は大森浜が多かった。
船を見るのが好きだったが、磯舟ばかり。
魚の水揚げはなく、昆布の記憶よりない。
そんな寂しい光景が嫌いで、たまに金森赤レンガ倉庫群へ行った。
日魯ビル(1号館、2号館、3号館)から、金森までの間には小規模の運河があって、倉庫へ荷を入れるのに
使われていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/4e/a2871d655e24734fd38cb45472b6fcb2.jpg)
岸壁には、漁師相手のリヤカーを改造した店が並び、甘いものを売っていた。
金森前の岸壁は水深が浅く、大きな船は沖停泊。
荷ははしけに積まれ、金森前へと運ばれてくる。
すると、はしけと岸壁間にあゆみ板が渡され、作業員が乗り移る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/67/a28e7ff3a6a99dee2c5a8009d8fb5d2a.jpg)
当時作業員は「かた(肩)」とも呼ばれ、荷をかつぎレンガ倉庫へと運んだ。
夏は汗まみれ。額、腕から噴出していた。
男ばかりではない。この頃、女性も強かった。
夫を戦争で失い、一家の大黒柱にならざるを得なかった事情があった。
お昼には、アルマイト製の深い弁当箱を広げ、美味しそうに食べていた。
10時、3時は休憩時間。たくさんの男女作業員が集まっておしゃべりとタバコ。
みんな、底抜けに明るかった。
途中、雨が降ったりすると、倉庫内に逃げ込んだり、倉庫に寄り添うように
作られた事務所兼休憩所にも雨宿りをしていた。
馬車はその当時、一番使われた輸送手段。
近くにたくさん待機していて、出番を待っていた。
「かいば(飼い葉)」と呼ばれていた餌。餌箱は大きかった。
名物人がいた。
「洗濯ばあさん」。ホームレスの先覚者(笑)かな?
いつも坊主頭、ゴム長靴姿。着ている物はいつも清潔。
馬用の水道水で洗濯をしていた。
何かを上げようとすると「私はコジキではありません」と、お断りしていたそうな。
冬期間は、どうしていたのだろうか?
昭和40年代、現在のお土産・レストランの西波止場あたりに、
フェリー桟橋ができた。
3階建てのターミナルビルもあった。
ここのレストラン・カクタスは値段が手ごろでメニューも豊富。
家族・親戚などでよく使わさせてもらった。
壊してしまったのは残念、残念。
信号交差点そばにあるレストラン・カリフォルニアベィビーは、海運会社の
社屋だった。
こんな想い出がある金森赤レンガ倉庫群界隈だ。
北洋漁業の衰退、物流の近代化が進むとともに、赤レンガ倉庫業も下降線。
回生を図って店舗・レストラン・貸しホールへと方向転換。
これが見事にヒット。
函館観光の目玉施設として、大きく貢献している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/21/a5b770495ba88ff597b9166e7f645e9a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/fd/ce94afa0b172ee017cffce02bdf76abe.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a1/2b1a9e8644863462dfb0c513fa049964.jpg)
かって、はしけが着岸した倉庫前の岸壁は、ミニ駐艇場となり各国の
ヨットも停泊中。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/4d/00922f0f7ffd9d4027218af99344642a.jpg)
また、港内遊覧船・ブルームーンの基地でもある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/8a/167e95ea6301907563b0eda0f9d87c17.jpg)
夏は花火。冬はクリスマスファンタジーと、年中人であふれる界隈である。
「北の大地に新幹線」が、間もなくやってくる。
その時、この界隈は、どんな風に変化するのだろうか?
もっともっと、賑わって欲しいと願わずにはいられない。
ミカエル
西部地区をゆっくりと散策。
素晴らしい意匠を持つ建物や歴史ある建造物に目を奪われ、しばし佇む。
私にとっては、至福のひとときだ。
小学6年から中学2年まで大森町に住んでいた。
遊び場は大森浜が多かった。
船を見るのが好きだったが、磯舟ばかり。
魚の水揚げはなく、昆布の記憶よりない。
そんな寂しい光景が嫌いで、たまに金森赤レンガ倉庫群へ行った。
日魯ビル(1号館、2号館、3号館)から、金森までの間には小規模の運河があって、倉庫へ荷を入れるのに
使われていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/67/4e/a2871d655e24734fd38cb45472b6fcb2.jpg)
岸壁には、漁師相手のリヤカーを改造した店が並び、甘いものを売っていた。
金森前の岸壁は水深が浅く、大きな船は沖停泊。
荷ははしけに積まれ、金森前へと運ばれてくる。
すると、はしけと岸壁間にあゆみ板が渡され、作業員が乗り移る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/67/a28e7ff3a6a99dee2c5a8009d8fb5d2a.jpg)
当時作業員は「かた(肩)」とも呼ばれ、荷をかつぎレンガ倉庫へと運んだ。
夏は汗まみれ。額、腕から噴出していた。
男ばかりではない。この頃、女性も強かった。
夫を戦争で失い、一家の大黒柱にならざるを得なかった事情があった。
お昼には、アルマイト製の深い弁当箱を広げ、美味しそうに食べていた。
10時、3時は休憩時間。たくさんの男女作業員が集まっておしゃべりとタバコ。
みんな、底抜けに明るかった。
途中、雨が降ったりすると、倉庫内に逃げ込んだり、倉庫に寄り添うように
作られた事務所兼休憩所にも雨宿りをしていた。
馬車はその当時、一番使われた輸送手段。
近くにたくさん待機していて、出番を待っていた。
「かいば(飼い葉)」と呼ばれていた餌。餌箱は大きかった。
名物人がいた。
「洗濯ばあさん」。ホームレスの先覚者(笑)かな?
いつも坊主頭、ゴム長靴姿。着ている物はいつも清潔。
馬用の水道水で洗濯をしていた。
何かを上げようとすると「私はコジキではありません」と、お断りしていたそうな。
冬期間は、どうしていたのだろうか?
昭和40年代、現在のお土産・レストランの西波止場あたりに、
フェリー桟橋ができた。
3階建てのターミナルビルもあった。
ここのレストラン・カクタスは値段が手ごろでメニューも豊富。
家族・親戚などでよく使わさせてもらった。
壊してしまったのは残念、残念。
信号交差点そばにあるレストラン・カリフォルニアベィビーは、海運会社の
社屋だった。
こんな想い出がある金森赤レンガ倉庫群界隈だ。
北洋漁業の衰退、物流の近代化が進むとともに、赤レンガ倉庫業も下降線。
回生を図って店舗・レストラン・貸しホールへと方向転換。
これが見事にヒット。
函館観光の目玉施設として、大きく貢献している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/21/a5b770495ba88ff597b9166e7f645e9a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/fd/ce94afa0b172ee017cffce02bdf76abe.jpg)
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かって、はしけが着岸した倉庫前の岸壁は、ミニ駐艇場となり各国の
ヨットも停泊中。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/4d/00922f0f7ffd9d4027218af99344642a.jpg)
また、港内遊覧船・ブルームーンの基地でもある。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/17/8a/167e95ea6301907563b0eda0f9d87c17.jpg)
夏は花火。冬はクリスマスファンタジーと、年中人であふれる界隈である。
「北の大地に新幹線」が、間もなくやってくる。
その時、この界隈は、どんな風に変化するのだろうか?
もっともっと、賑わって欲しいと願わずにはいられない。
ミカエル
ようこそお越しくださいました。
この当時の活気は現在と異質なものでした。
働く人、馬車、はしけであふれていました。
一日中いても飽きることはありませんでした。
おじいさんも活気ある声を出していたことでしょう。
宇賀浦町、金堀町には砂山があって、冬はソリ遠足でした。
洗濯ばあさんの消息は不明です。
ゴマ塩頭が記憶に残っています。
今回のご訪問、有難うございまし
た。
ミカエル
砂山の話は父から聞いたことがあります。
ミカエルさんが大森町から金森に遊びにいっていたのは、具体的にはいつ頃なのでしょう。差し支えなければ教えていただけませんか。
それは、小学6年から中学2年まで。
12歳から14歳までです。
最近はボケが始まって、記憶が薄くなっています。(笑)
ご不明な点がありましたら、どうぞお尋ね
ください。
ミカエル
失礼しました。
それは昭和30~32年までです。
ミカエル
ありがとうございました。