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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イギリス王ジョージ2世王女 アメリア

2011-03-09 23:16:35 | イングランド王妃・王女
賢夫人の娘、けっこうわがままに育つ
ジョージ2世王女 アメリア・オブ・グレートブリテン


1711~1786

ステュアート家の血をひくプロテスタントということでアン女王の後を継いだ
ハノーヴァー家のジョージ1世は、王妃ゾフィア・ドロテアをずっと幽閉していたもんで
嫡出子はジョージ2世と、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世妃になった
ゾフィア・ドロテアしかいませんでした。

ジョージ2世の王妃キャロライン・オブ・アーンズバックは賢夫人の誉れ高い方ですが
育児はいかがだったんでしょうね?

長男フレデリックは一生反抗期みたいな人で、王も王妃も手を焼きましたが
(幸い?)即位前に亡くなっています。
フレデリックの王子が後のジョージ3世です。

長女アンはオラニエ公ウィレム4世夫人に、
六女ルイーズはデンマーク王フレデリク5世妃になっています。
この二人は母キャロラインのような政治的才覚が少なからずあったようですが
さて、次女アメリアは?
       
生まれはハノーファーですが、祖父ジョージ1世の即位に伴い
1701年にイングランドのセントジェームス宮殿に移りました。
幼い頃は病気がちだったようで、たぶんあまやかされたんじゃないかしら…
こころなしか肖像画も気が強うそうな顔をしてません?
大人になってからはたいそう健康になりまして、乗馬と狩猟に熱中しました。

叔母にあたるプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世妃ゾフィア・ドロテアは
王太子フリードリヒ(2世)の相手にアメリアがいいんじゃないかしら…と考えましたが
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、王太子をブラウンシュヴァイク=ベーヴァン家の
エリーザベトと無理矢理結婚させました。
母親が推す相手と結婚していたらフリードリヒ2世も妻を大事にしただろうに…

ともあれアメリアはこの後結婚することなく、父王ジョージ2世が亡くなるまで
親元で暮らしていました。
ただし、29歳の時にお子様を生んでます。
アメリアの息子と言われているのは、ヘンデルのディレクションも手がけたという音楽家の
サミュエル・アーノルドで、父親は下院議員のトマス・アーノルドだということです。

アメリアは40歳の時、リッチモンド・パークの管理人になりました。
管理人と言ったって入口で見張ったり見回りをしたりするわけじゃないですよ、もちろん。

リッチモンド・パークというのは宮殿に属する公園でしたが、一般人の通行は可能でした。
しかしアメリアはすぐに庶民を閉め出して、王族とお友達、そして許可を与えた人々にしか
解放しませんでした。
反対は多かったものの、アメリアが在任中の7年間はこの措置が続きました。

アメリアは後年、自分の領地で浴場の拡張を行っています。
愚かなことよのぉ…と言われたこの事業ですが、現在では “ アメリア王女の浴場 ” として
国家遺産になってるそうでございます。

思えば人の手による世界遺産とか観光名所って、けっこう愚かしい浪費の賜物なのよね。

アメリアはジョージ2世の8人のお子様の中で一番長生きしまして
1786年にロンドンのキャベンディッシュ・スクエアで亡くなりました。
まさに独身貴族、ストレスが少なかったのかしらね?

(参考文献 Wikipedia英語版)
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イングランド王ジェイムズ2世王女 ルイーザ・マリア

2011-03-07 01:11:47 | イングランド王妃・王女
ジャコバイト貴族のアイドル
ジェイムズ2世王女 ルイーザ・マリア・テレサ・ステュアート


1692~1712

生真面目なチャールズ1世の長男チャールズ2世には、庶子はた~くさんいたのだけれども
王妃キャサリン・オブ・ブラガンザとの間に肝心の嫡子がいなくて
弟のジェイムズ2世が後継者になりました。

ジェイムズとひとり目の妃アン・ハイドの王女メアリーアンは女王になりましたが
残念ながら彼女たちの子供は王位を継ぐまでに成長しませんでした。

アン・ハイドが亡くなった後、ジェイムズ2世はメアリー・オブ・モデナと再婚しました。

ルイーザはふたりの間に生まれた四番目の女の子です。(三人は死産かすぐ死亡)

         

ルイーザ・マリアはジェイムズ2世が廃位され、追放された後の1692年に
サン=ジェルマン=アン=レーで生まれました。

ルイーザの兄ジェイムズ・フランシスが1688年に生まれた時には
お腹にクッションを入れているだの、女の子を男の子に取り替えただのと
疑いをかけられた母メアリーでしたが、ルイーザは問題視されなかったみたいですね。

(カトリックの)ジェイムズ2世はたいそう嬉しかったらしく
娘のメアリー2世ばかりか、他のプロテスタントの人たちにも
洗礼式の立会人になってもらおうと招待の手紙を送りまくったらしいです。
早く宗教の垣根を取り払っておけば追放されることもなかったのにね…

ルイーザは兄ジェイムズとフランスで育てられました。
家庭教師はカトリックの神父で、ラテン語や歴史、信仰について教わりました。

とても愛想が良い子だったようで、ジェイムズとともに逃亡したジャコバイト貴族たちの
アイドルみたいなものでした。

1701年、父ジェイムズ2世が重病に罹り、母メアリーと療養に旅立ちました。
でもジェイムズとメアリーの誕生日がある6月には帰ってきて一家でお祝いします。
ジェイムズ2世はその後発作をおこし、2ヶ月後に亡くなりました。

ジェイムズ2世が亡くなると、フランス王ルイ14世は即座に王子ジェイムズを
イングランド王として宣誓しました。
もちろん政治的思惑はあったと思うけど、ルイ14世ったら確実に
未亡人になったメアリー・オブ・モデナを狙ってたと思うね! 美人だし。
恩を売る作戦だと思うんだがどうでしょう?

ルイーザは13歳の時、ルイ14世のゲストとしてマルリー宮殿の舞踏会に招かれています。
兄ジェイムズが一緒なのはいいとして、ちゃっかり母メアリーも並んでました。
3人はルイ14世に続いて入場しています。 すごい待遇…やっぱり狙ってたんじゃないかと

フランス宮廷の人気者になったルイーザは、ルイ14世の孫ベリー公シャルルや
スウェーデン王カール12世と「お似合いね」と言われていたのですが
いくら兄が王を名乗っていてもイングランドには歴然と他の王が君臨していたわけで
王族の妃になるにはけっこう曖昧なポジションでした。
カール12世はプロテスタントだったこともネックになっていました。

ジェイムズ2世も僭称王ジェイムズも、ルイ14世の助けを借りてイングランドを攻めましたが
ことごとく失敗に終わってまして、もう王家に返り咲くのは厳しい状況でした。

ルイーザは追放されているジャコバイト貴族が「自分たち家族のために犠牲になっている」と
心を痛めていて、彼らの娘たちの教育費を立て替えました。

1712年、ルイーザは兄ジェイムズとともに天然痘に罹りました。
ジェイムズは回復しましたがルイーザは帰らぬ人となってしまいました。

ルイーザはフランス宮廷のみならず、追い出したイングランドでも人気者でした。
彼女の死にはたくさんの人々が哀悼の意を表しています。

               
                可愛いのでもう1枚のせちゃうね

可愛いし、性格もいいし、優しいし、本当に非のうちどころがないお嬢さんで
父王が廃位されなければ引く手数多だったでしょう。
というより、カトリックとプロテスタントが仲良くやっていれば
違う人生を生きた王女たちはいっぱいいたはずです。
同じような宗教なのに、なんで戦争するほどもめてたのかしらね?(無知ゆえのひとり言)

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王チャールズ1世王女 エリザベス

2011-03-06 00:21:26 | イングランド王妃・王女
母に代わって苦境に立ち向かった王女
チャールズ1世王女 エリザベス・オブ・イングランド


1635~1650

生真面目すぎて身を滅ぼしたような気がしないでもないチャールズ1世と
王妃ヘンリエッタ・マリアには7人のお子様がいました。
チャールズ2世とジェイムズ2世を含む王子3人と王女4人です。(長男と四女は死産)

長女メアリーはオラニエ公ウィレム2世妃に、
五女ヘンリエッタ・アンはオルレアン公フィリプ妃になりました。
ふたりともそんなに幸福そうな人生には思えないんですけど、次女エリザベスに較べたら…

      
エリザベスは1歳の時、祖母にあたるマリー・ド・メディシスの目論みで
オラニエ公子ウィレム(後の2世)と婚約するはずでした。
けれどもチャールズ1世は財政的な理由から長女のメアリーを嫁がせることにします。
これは(メアリーの方が高位ということで)けっこう身分不相応な結婚でした。
この時エリザベスが選ばれていれば…と思わずにはいられません。

1642年、エリザベスが6歳の時内乱が勃発します。
エリザベスは弟のグロースター公ヘンリーとともにペンブローク伯の保護下におかれました。
最初は王党軍優位に進んでいた戦いでしたが、1646年、父チャールズ1世は
ニューアークで捕らえられ3年後に処刑されます。
この間議会軍は和平交渉をしたらしいのですが、チャールズ1世は譲歩しなかったそうです。

長~くなるので、この間のエリザベスの行動をまとめると…
議会軍はチャールズ1世の年少の子供たちをセントジェイムズ宮殿に軟禁状態におきました。

ハンプトンコートに監禁中のチャールズ1世はちょくちょく子供に会えたようですが
和平交渉が決裂するとワイト島のカリスブルック城に移されました。

1648年、ヨーク公ジェイムズ(後の2世)はイングランドを脱走します。
これはエリザベスの忠告らしく、ジェイムズに女装させて宮殿から逃がしたそうです。
わずか10歳で…すごい政治的判断。

エリザベス自身も姉のメアリーに会いにオランダへ行きたいと議会に申し入れましたが
これは受理されませんでした。
議会派は何を考えていたんでしょうね?
どうせ王制を無くす気なら子供たち、特に女の子は解放してあげればいいじゃないの。
反撃を恐れてのことだと思いますが、クロムウェル、肝っ玉が小さいぜ!

1649年の1月30日にチャールズ1世の処刑が行われることに決まった時
エリザベスは抗議の手紙を書き、同情も多く集まったみたいですが
結局処刑は執行されました。

エリザベスとグロースター公は処刑の前日チャールズ1世に面会しています。
この時、議会軍は手紙やメモなどを残すことを許さず、チャールズ1世はエリザベスに
「今から言うことを全て覚えておいてくれ」と言ったそうです。
エリザベスはその後チャールズ1世の言葉を書き留めていますが
議会派に奪われることを恐れて隠していたのか、見つかったのは彼女の死後でした。

チャールズ1世の処刑後、保護者になっていたライル卿は責任逃れをしたかったらしく
エリザベスたちをオランダに行かせては…と申し出ましたが、議会は認めませんでした。

結局その後はレスター伯ロバート・シドニーの保護下に置かれましたが
この時はレスター伯夫人がかなり親切に面倒をみたようです。
エリザベスはお礼に彼女に宝石を与えましたが、後にこれで議会と夫人がもめました。

1650年、兄チャールズ2世がスコットランドの国王に即位すると
議会派はエリザベスを人質としてワイト島に送ることにします。

小さな頃からからだが弱かったと言われるエリザベスは、その時も体調を崩していて
ワイト島への移動を拒みましたが聞き入れられませんでした。

カリスブルック城に移ってすぐ、風邪から肺炎になり14歳で亡くなりました。

議会派はエリザベスの死から3日後に彼女のオランダ行きを許可しています。
たぶん世間にたたかれないようにとった措置だと思いますが、バッカじゃないの

母親はフランスに行っちゃてるし、長女はオランダだし
弟妹たちを守らねば!と必死に頑張ったのでしょうね。

ある人は、知性と威厳と優美さを持った少女と褒め讃えていますが
本来なら子供らしく溌剌と過ごす時期を、政治や大人の思惑にもみくちゃにされて
無惨な14年間を送った哀れな少女に思えます。

エリザベスが抱いているのは3歳で亡くなった三女アンだと思われます。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipeida英語版)
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イングランド王ジェイムズ1世王女 エリザベス

2011-03-06 00:13:20 | イングランド王妃・王女
故国でも嫁ぎ先でも人気者
ジェイムズ1世王女 エリザベス・オブ・スコットランド
ボヘミア王フリードリヒ5世妃


1596~1662/在位 1619~1620

エドワード4世の王女たちから100年ぐらい飛びますよ、なぜかというと…

ヨーク家のエドワード4世の子エドワード5世は少年のうちに悲劇的な最後をむかえました。
続くリチャード3世はたったひとりの王子エドワードを11歳で失いました。
リチャード3世を敗ったテューダー家のヘンリー7世とエリザベス・オブ・ヨーク
長女マーガレットはスコットランド王ジェイムズ4世妃に、
三女メアリーはフランス王ルイ12世妃になりました(次女、四女は幼くして夭逝)

ヘンリー8世の王子エドワード6世は未婚で亡くなり、王女メアリー1世には子供が生まれず
エリザベス1世は未婚で嫡子無し、というわけで
王位がジェイムズ1世(スコットランドでは6世)にまわります。

ジェイムズ1世とアン・オブ・デンマークには7人のお子様が生まれました。
チャールズ1世を含む王子が3人、王女が4人です。
でも王女のうち3人は2歳までに夭逝して、生き延びたのは長女エリザベスだけでした。
          
6歳の時、父ジェイムズがイングランド王になり、イングランドにやってきました。
子供時代はハリントン男爵に引き取られウォーリックシャーのクーム・アベイで
幸福な日々を送っていました。

1605年、ガンパワー・プロット(簡単にいうとカトリック強硬派が議事堂を爆破して
ジェイムズ1世を殺害しようとしたテロ)の時、カトリック派は9歳のエリザベスを誘拐して
カトリック君主国の王にするつもりでいました。
しかし爆破前に首謀者ガイ・フォークスが逮捕されて計画は失敗しました。

さて、エリザベスはたったひとりの王女なので良い縁談をまとめなければなりませんが
当時のヨーロッパは旧教国、新教国に二分していて、争いが頻発していました。
相手選びもなかなか大変そうですね。

スウェーデン王グスタフ2世アドルフなどの名もあがりましたが
最終的にエリザベスは、神聖ローマ帝国内のプロテスタント王国のリーダー格だった
プファルツ選帝侯フリードリヒ5世と婚約し、翌年結婚しました。
言わずもがなの政略結婚ですが、ふたりは愛し合っていたそうです。

1619年、フリードリヒはボヘミア王になりましたが
カトリックの神聖ローマ皇帝フェルディナント2世(ハプスブルク家)に戦いを挑んで敗れて
1年ちょっとで廃位させられオランダに亡命しました。

この時エリザベスの女官をしていたのがオラニエ公妃になったアマリエです。

この時、父王ジェイムズ1世はまったく助けの手を差しのべてくれなかったらしく
1632年、夫フリードリヒは亡命先で失意のまま亡くなりました。

エリザベスはオランダに留まり、息子のカールの選帝侯復位に尽力したと思われます。
カールは1648年にヴェストファーレン条約により選帝侯に返り咲きました。

甥チャールズ2世の王制復古をうけてイングランドに帰った翌年の1662年
ロンドンのレスター・ハウスで亡くなりました。

イングランドでもプファルツ選帝侯領でもボヘミアでも人気者だったそうですよ。
プファルツではQueen of Herats(慈愛の王妃)と呼ばれていたそうです。

イングランドはこの後しばらく新教 VS 旧教で王位継承がごたごたします。
他の国もそうですが、イングランドは言い出しっぺ的なところがありますんでね…

後のジョージ1世(ハノーファー家)はエリザベスの孫にあたります。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード4世王女 キャサリン

2011-03-03 22:45:17 | イングランド王妃・王女
若き未亡人、貞節を守る
エドワード4世王女 キャサリン・オブ・ヨーク
デヴォン伯ウィリアム夫人


1479~1527

キャサリンは、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの六女です。

          
いつもながら気の早いエドワード4世は、キャサリンが生まれるやいなや
結婚相手選びを始めまして、生後14日で 決めちゃいました。

相手はアラゴン王フェルナンド2世とカスティーリャ女王イサベル1世の王子ファンです。

たぶん姉アンと同じ時期に進行されていたのだと思います。
この婚約はエドワード4世の死後も継続されましたが、やはり破棄されました。
ファンはその後、姉アンの婚約者だったフィリップの妹マルグレーテと結婚します。
ファンの妹カタリナはテューダー王家のヘンリー7世王太子アーサー
次いでヘンリー8世の最初の妃になりました。

エリザベスと結婚して義兄になったヘンリー7世は
スコットランド王ジェイムズ3世との交渉を始めて
キャサリンとジェイムス3世王子ロス公ジェイムズの婚約を決めます。

しかしジェイムズ3世が内乱中ソーキバーンの戦いで亡くなると
反乱に加わっていた王太子ジェイムズが4世として即位し、婚約を破棄しました。

その後の経緯は不明ですが、キャサリンは16歳になるまでに
ウィリアム・コートネイと結婚していました。

            
ウィリアムは、後に王になったヘンリー8世に信頼されてデヴォン伯に叙爵されますが
たった1ヶ月後の1511年6月に亡くなります。

夫が亡くなった時キャサリンは31歳で、当然誰かと再婚すると思われましたが
彼女は自らロンドンの司教の前で貞節の宣誓をして再婚をしないことにしました。
政治的に利用されることにうんざりしていたんじゃないかと思うのよね…

1527年に亡くなり、デヴォンのティバートンに葬られました。

夫の死後は息子ヘンリーがデヴォン伯を継いでいて、後にエクセター候になりましたが
1539年に反逆罪の疑いで処刑されました。 濡れ衣説が強いようです。



              
王と王妃も疲れちゃったか・・・
エドワード4世王女 ブリジェット・オブ・ヨーク


1480~1517

さすがに七女ともなると、エドワード4世もエリザベス・ウッドヴィルも
嫁ぎ先を考えるのに疲れちゃったでしょうか?
キャサリンと1歳違いなので、もう目ぼしい王子はいないなぁ…と
諦めたのかもしれません。

いずれにしても両親は、ブリジェットを一生神に仕えさせようと決めました。
勝手に決めないでほしいけど…結婚相手を勝手に決められるのとどちらが嫌でしょう?

             
7歳ぐらいでダートフォードの小修道院に預けられたと言われています。
その後は二度と俗世に戻りませんでした、が、不思議な噂が…

当時その修道院にはアグネス・オブ・エルサムと呼ばれている孤児がいました。
ブリジェットは王妃エリザベスと生涯を通じて手紙のやりとりをしていて
王妃はおりにふれブリジェットにお小遣い的なお金を送っていました。
で、なぜか王妃はアグネスにもお小遣いを与えていたそうです。

うーん、どうやらアグネスはブリジェットの私生児と思われていたらしいんですね。
でも、7歳から修道院に入っていた彼女がどうやって…?
実は修道院て好き勝手ができるパラダイスだったのかしら?
それともエドワード1世王女メアリー的に、甘やかされていたのかしら?

ブリジェットは37歳の時に修道院で亡くなり、そのまま葬られました。
王女だというのに哀しい人生に思えますが、実はすごく楽しい人生だったんだろうか?
謎が深まります。 王女の修道院問題は今後追求していきたいところですね

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード4世王女 アン

2011-03-01 02:13:06 | イングランド王妃・王女
                 母エリザベスと姉妹たち
                    どれがアンだか私にはわかりません…


ハワード家、台頭の狼煙を上げる
エドワード4世王女 アン・オブ・ヨーク
サリー伯トマス夫人


1475~1511

エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの四女マーガレットは
生後8ヶ月で亡くなりました。 アンは五女です。

        

エドワード4世は、アンが4才の時に
オーストリア大公マクシミリアン(後の神聖ローマ皇帝)と契約書を交わしましたが
その中には公子フィリップとアンの結婚も含まれていました。
マクシミリアンは神聖ローマ皇帝になれる好機を掴んでいて
妃のマリーを通じてエドワード4世との同盟にこぎつけました。
(マリーの継母がエドワード4世の妹マーガレットで、義理とはいえ仲の良い母娘でした
 相思相愛のマクシミリアンとマリーの成婚の危機を救ったのもマーガレットです)
しかしこの婚約もエドワード4世が亡くなったことで白紙になります。

お家の状況で容赦なく変わる結婚相手…少女にとっては辛い経験ですよね。
フィリップは “ 美公 ” とまで言われたハンサムさんでした。
アンだって心ときめかせていたかもしれないのに… 幼かったから大丈夫だったかしら?
その後フィリップが結婚したのが有名なファナ・ラ・ローカです。

1494年頃、アンはサリー伯(後のノーフォーク公)トマス・ハワードと結婚しました。
トマス・ハワードは後にヘンリー8世の王妃になるアン・ブリーン
キャサリン・ハワードの伯父にあたります。
(アンの母エリザベスと、キャサリンの父エドマンドの兄)

息子トマスは十代で亡くなっています。
他にヘンリーとウィリアムと子供もいましたがすぐ亡くなったようです。

36歳で亡くなりテットフォード修道院に葬られました。
宗教改革後にハワード家の人々ともに聖ミカエル大天使教会に移されました。

サリー伯は1年後、バッキンガム公エドワード・スタッフォードの公女エリザベスと
(しぶしぶ)結婚しました。
ふたりの娘のメアリーが、ヘンリー8世が唯一認知した庶子
リッチモンド公ヘンリー・フィッツロイに嫁ぎます。

ハワード家は、エドワード4世亡き後リチャード3世に忠勤を尽くし
ノーフォーク公を叙爵されて、ヨーク家と争ったボズワースの戦いでは
テューダー家の敵側にいました。
戦後捕われていたサリー伯の父トマスがヘンリー7世に認められて
2代目ノーフォーク公になりました。
アンの夫トマスは2代目ノーフォーク公の息子で、3代目ノーフォーク公です。

ハワード家はここからがんがんテューダー家に入り込んでいったわけですね。

(参考文献 森護氏『英国の貴族』『英国王室史話』
      江村洋氏『ハプスブルク家の女たち』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード4世王女 セシリー

2011-02-26 22:25:57 | イングランド王妃・王女
最後は愛を選ぶ!
エドワード4世王女 セシリー・オブ・ヨーク
ラルフ・スクロープ夫人/ウェルズ子爵ジョン夫人/トマス・カイム夫人


1469~1507

セシリーは、エドワード4世とエリザベス・ウッドヴィルの三女です。

エドワード4世はスコットランドとの同盟を考え、5歳のセシリーを
ジェイムズ3世の王子ジェイムズ(4世)と婚約させました。
しかし争いがおこったために婚約は破棄されました。

セシリーはその後、ジェイムズ3世の弟オールバニー公アレグザンダーと婚約します。
これは兄王ジェイムズに替わって王になろうとしたアレグザンダーと
エドワード4世が手を組んだためです。

この婚約は、エドワード4世が亡くなったことで立ち消えになりました。

         
いくつの時かわかりませんが、セシリーはリチャード3世の支持者スクロープ男爵の息子
ラルフ・スクロープと結婚しました(別のスクロープ男爵説あり)
弟を殺した(かもしれない)男の言いなりになるなんて、悔しいことだったでしょう。

しかし、この結婚はヘンリー7世が即位すると無効を言い渡されました。
ヘンリー7世はお妃候補の中にセシリーも入れていたんじゃないですかね?
リチャード3世の在位は3年なので、14歳~16歳ぐらいの出来事みたいです。

ヘンリー7世が姉エリザベスと結婚した翌年の1487年
忠実なランカスター派の貴族ウェルズ子爵ジョン・ウェルズと結婚しました。
彼はヘンリー7世の母后マーガレット・ボーフォートの異父弟で19歳年上でした。
ここでも新しい王に利用されてしまったわけですね…

        
でもセシリーは拗ねることなく、ロイヤルファミリーの一員として
盛んに宮廷行事に参加していたもようです。
王太子妃になるキャサリン・オブ・アラゴンの教育係も引き受けました。

しかし実生活では、結婚11年目で夫ジョンを亡くし、翌年長女エリザベスを11歳で、
さらに翌年次女アンを9歳で失うという、悲しい思いをしていました。
子供は他にいませんでした。

セシリーは3度目の結婚をすることにします。
相手はリンカーンシャーの地主トマス・カイム(ワイト島のジョン・ケーン説あり)で
恋愛結婚のようです。

結婚はヘンリー7世の許可無く行われました。
そのかわりセシリーは宮廷での役目を辞退することにします。
許してもらえると思いきや、ヘンリー7世は怒ってセシリーの領地を取り上げてしまいます。
自分の地位に不安があるヘンリー7世は、セシリーをまだ利用する気だったのかしら?
後に母后マーガレット・ボーフォートの取りなしで、少しだけ領地を返したもらえました。

結婚後セシリーはワイト島のイースト・スタンデンで静かに暮らしていたようですが
夫も二人の子供も、王族の称号や宮廷での役割は一切与えられず
金銭的な問題も抱えていたみたいです。
夫や子供たちに関する記録もほとんど残っていません。

3度目の結婚から数年後、セシリーは38歳で亡くなりました。
ワイト島のクォーアー・アベイに葬られたという説と
ヨーク公の領地キングスラングリーに葬られたという説があります。

クォーアー・アベイはヘンリー8世がカトリック教会の解体を行った時に破壊されて
セシリーに関する資料も失われてしまったみたいです。

今でもクーデターやテロ、暴動などで歴史的建造物が破壊されたりしますが
二度と同じものは造れないし、なにより計り知れない歴史的資料の宝庫ですから
壊す前によーく考えて行動してほしい…と思います。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード4世王女 メアリー

2011-02-25 00:26:35 | イングランド王妃・王女
影が薄~い王女
エドワード4世王女 メアリー・オブ・ヨーク


1467~1482

メアリーは、ランカスター家から王位を奪ったヨーク家最初の王エドワード4世と
エリザベス・ウッドヴィルの次女です。
姉にテューダー家最初の王ヘンリー7世妃エリザベス・オブ・ヨークが、
弟に悲劇の少年王エドワード5世がいます。

         

エドワード4世とエリザベスの間には10人のお子様がいて、7人が王女ですが
(夭逝した四女マーガレットを除いて)メアリーが一番影が薄いんじゃないかしら?

ウィンザー城生まれで、名付け親のひとりがカンタベリー大司教トマス・バウチャー、
ということは確からしいです。
ひとくち情報
大司教トマス・バウチャーは、グロスター公リチャード(後の3世)が王位を奪おうと
13歳のエドワード5世をロンドン塔に軟禁して、11歳の弟ヨーク公も…と考えた時
母エリザベスを説得してヨーク公を連れ出し、ロンドン塔に連れて行った人物でございます)

デンマーク王ハンスとの縁談があったようですが、婚約はしてないみたい。
1482年に亡くなり、ウィンザー城のセント・ジョージズ・チャペルに葬られました。

なんでもセント・ジョージズ・チャペルが1817年に発掘調査された時
メアリーと2歳で亡くなった弟のジョージの白亜の棺を開けてみると…

メアリーの棺は美しい金髪で埋め尽くされ、淡いブルーの瞳は開いていたんですって!
つまり、美しい15歳の少女のままの姿だったってこと?
400年近く経っているんですけどね。

でも空気に触れたことですぐに砂と化してしまったそうです。
髪の一部は切り取られ、作家のアグネス・ストリックランドの手に渡りました。
この方はイングランド王妃に関する著作が多いみたいです。 ぜひ読んでみたい…

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ヘンリー4世王女 ブランシュ

2011-02-23 23:31:09 | イングランド王妃・王女
父親が王にならなけりゃ…
ヘンリー4世王女 ブランシュ・オブ・イングランド
プファルツ選帝候ルートヴィヒ3世妃


1392~1409

エドワード3世を継いだリチャード2世は、アン・オブ・ボヘミアにも
イザベル・オブ・ヴァロアにも嫡子ができませんでした。

リチャード2世の死後、クーデター的に王位についたヘンリー4世と
最初の妃メアリー・ド・ブーンの王女がブランシュです。
ヘンリー4世とメアリーの間には7人のお子様が生まれていて王女は2人。
ブランシュはヘンリー5世の妹、デンマーク王エーリク7世妃フィリッパの姉にあたります。

       

ブランシュがノーサンプトンシャーのピーターバラ城で生まれた時
父のヘンリーはダービー伯で、特に王太子ってわけでもありませんでした。
エドワード3世の王子ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの子ですから
継承権はありましたが、マーチ伯エドマンドの方が継承順が高かったのでね。

けれども1399年、父ヘンリーが即位してメアリーも王女になりました。
ヘンリー4世は(無理矢理)王になったので、権力維持のために
強国との強い同盟関係を切望します。

そこでドイツ王ループレヒト(ヴィッテルスバハ家)に目を留めて
早速ブランシュとループレヒトの王子ルートヴィヒの縁談にとりかかりました。

でも、いくら急ぐからって、結婚した時ブランシュは10歳ですよ!
ルートヴィヒは14歳年上で、もう大人だからいいけどさぁ。
結婚生活は幸せだったということですが、14歳で最初の子(ループレヒト)を生み
17歳の時2人目の出産で亡くなっています。

何度も言うけど、やっぱり16歳までは結婚させちゃだめだって!!
旦那は幼いからって我慢してくれないもの…

父親がダービー伯のままだったら、近場の貴族と結婚して
末永く生きられたかもしれないのに… 不憫ですな。

ルートヴィヒ3世は8年後にマティルデ・フォン・サボイエンと再婚しました。
ブランシュが生んだループレヒトは19歳で亡くなりましたので
ルートヴィヒ3世の後を継いだのはマティルデが生んだルートヴィヒ(4世)です。

ヘンリー5世とキャサリン・オブ・ヴァロアには
ただ一人の子供ヘンリー(6世)が生まれました。
ヘンリー6世とマーガレットオ・オブ・アンジューの王子エドワードは殺害されてしまい
ランカスター家は終焉を迎え、王位はヨーク家に移ります。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード3世王女 メアリー

2011-02-20 13:53:44 | イングランド王妃・王女
若くして亡くなった姉妹、姉の方
エドワード3世王女 メアリー・オブ・ウォルサム
ブルターニュ公ジャン5世妃


1344~1362

メアリーはエドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの四女です(三女は夭逝)

        
11歳ぐらいでブルターニュ公ジャン5世(ドゥリュー家)と婚約しました。
ジャンはメアリーより5歳ほど年上ですが、メアリーが幼い頃から一緒に育ちました。
ジャンは6歳でブルターニュ公に即位していました。
将来結婚させるつもりで一緒に育てられたんじゃないでしょうかね。

ふたりは1361年に結婚しましたが、メアリーは半年ほどで亡くなってしまいました。
わずか18歳です。 可哀想ですね。
妊娠のトラブルか病気かわからないのですが、自然死みたいです。

ジャン5世は、その後従姉妹のジャンヌ・ホランドと再婚、
その後ジャンヌ・ド・ナヴァールと再々婚しています。
ジャンヌはジャン5世が亡くなった後、イングランド王ヘンリー4世と再婚しました。


そして妹の方
エドワード3世王女 マーガレット・オブ・イングランド
ペンブローク伯ジョン夫人


1346~1361

マーガレットはメアリーの妹で五女です。

        

まずはオーストリア公アルブレヒト2世の公子アルブレヒト(3世)との縁談が
もちあがりましたが、政治的な理由でまとまりませんでした。

その後ブルターニュ公シャルル1世(ヴァロワ家)の公子ジャンと婚約しました。
ここで何かお気づきの点は?
姉メアリーの夫ジャン5世もブルターニュ公なんですが、家が違うんですよね。
この当時二つの家はブルターニュをめぐって争っていたのです。
最終的に勝ったのはドゥリュー家でした。

姉メアリーがその後ジャンと婚約したことで、マーガレットの婚約は破棄されます。

それでマーガレットが結婚したのはペンブローク伯ジョン・ヘイスティングスでした。
マーガレットとジョンは幼い頃から一緒に育てられていて、とても仲が良かったそうです。
中世時代の王女には珍しい恋愛結婚だったみたいですね。

ところが、そんな幸せな結婚をしたはずのマーガレットもすぐに亡くなります。
姉メアリーの後に結婚しているので、わずか数ヶ月の結婚生活ではないですかね?
これがまた、1361年の10月1日に生存していたのはわかっているのですが
その後のいつ亡くなったのかがわからないそうです。
なにか臭うわね…

とはいえ、ジョンが再婚したのは7年後だし、再婚相手にはそんなにメリットが無さそうだし…
なにより幼なじみで仲の良いふたりが結婚したのですから勘ぐるのはよしましょう。
あ、勘ぐっていたのはわたくしでしたね

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード3世王女 ジョアン

2011-02-18 00:06:52 | イングランド王妃・王女
結婚目前、恐怖の病に倒れる
エドワード3世王女 ジョアン・オブ・イングランド


1333頃~1348

ジョアンはエドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの次女でした。

        
ジョアンは5歳ぐらいの時、父エドワード3世に連れられてコブレンツを訪れました。
神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世に会って、帝国議会を見学したりしたわけですが
どうやらジョアンとルートヴィヒ4世の皇子を婚約させる目的があったようです。

ルートヴィヒ4世の妃はフィリッパ・オブ・エノーの姉マルガレーテ
いとこ同士の縁談ということになります。

この縁談は上手くいったようで、ジョアンはエドワード3世が帰国した後も
神聖ローマ帝国の宮廷に残って教育を受けていました。

ところが、フランス王フィリプ4世に対抗するための力を借りたかったエドワード3世を
ルートヴィヒ4世はバッサリ見捨てます。
そこでジョアンも神聖ローマ帝国からイングランドに帰ることになりました。

12歳ぐらいでカスティーリャ王アルフォンソ11世の王子ペドロと婚約したジョアンは
3年後の夏、イングランドを発ちました。
なんでも嫁入り衣装は大変豪華絢爛なものだったそうです。
もちろん、エドワード3世が娘を愛していたからこその嫁入り支度ですが
それよりもイングランドの財力を海外に誇示するのが目的だったようで
その代わりに見えないところはかなり切り詰めた、ということです。

中継地のボルドーに到着すると、出迎えた市長がジョアン一行に
ペストについて警告しました。 たぶん下船を止めたんだと思います。
ジョアンが船出した時、ペストはイングランドに上陸していませんでした。
ジョアンたちは「ペストって?」という感じで警告を聞き入れず
見晴らしの良いジロンドの城を目指して旅を続けました。

しかし、とうとう恐怖を感じる時がやってきます。
一行の中から病人が出て亡くなっていきます。
ジョアンはロレモンという村に避難しましたが、時すでに遅し…でした。
イングランドを発って約1ヶ月後の9月2日、ペストで亡くなりました。

エドワード3世は、ジョアンをイングランドで葬ろうとしたようですが
遺体がイングランドに戻った、あるいは葬儀が行われたという記録は無いそうです。
バイヨンヌ大聖堂に葬られたという説もあれば
ボルドーのプランタジネット家の城もろとも燃やされたと言う説もあります。

ペストに対する処置としてはどちらが正しいのでしょうね?
お城の炎の中に葬られたプリンセンスというのもドラマティックではありますが
証拠はありません。

この後ペストはイングランドにも蔓延します。
随行していた外交官がジョアンの死を伝えにいち早く帰国していますが
もしかしてそれが原因か… (ペストの拡大は貿易船が原因みたいです)

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード3世王女 イザベラ

2011-02-17 02:34:45 | イングランド王妃・王女
                 肖像画が無いのでドレスを…

王様が可愛がりすぎたプリンセス
エドワード3世王女 イザベラ・オブ・イングランド
ベドフォード伯インゲルラム夫人


1332~1379

イザベラは賢王エドワード3世と賢王妃の誉れ高いフィリッパ・オブ・エノー
13人の子供中で2番目の子でした。 長女です。
賢い両親から生まれた娘の人生…気になりますね。
     
いくら賢王でも初の女の子は可愛い!ってわけで
イザベラはまさに プリンセス というベビー時代を過ごしました。

なにしろ、イタリアンシルクの、刺繍・宝石・毛皮などをあしらったガウンを着て、
金箔のベビーベッドに寝かされ、毛皮のおふとんがかけられていたっていうんですよ!
離乳食がトリュフとかフォアグラ風味だったらどうする?

子供時代は兄エドワード、次女ジョアンとサントメールで過ごしていましたが
彼女お抱えの家庭教師、馬丁、コック、侍女、従僕、のみならず牧師までいたそうです。
開いた口が塞がらんね

そんなに可愛がられていたわけだけれども、わずか3歳の時
父エドワード3世はイザベラとカスティーリャ王太子ペドロの縁談を考えました、が
次女ジョアンが結婚相手に選ばれました。 なぜかしら? 普通は長女を選ぶだろうに…

イザベラは遊び好きでわがままで、とんでもない浪費家だったそうです。
だって贅沢に育てられたんですものね…

イザベラが19歳の時に、ベルナール・ダルブレと結婚することになりました。
しかし、5隻の艦隊とともに、まさにガスコーニュに向けて出発しようとした時
イザベラは急に気が変わって結婚を破棄しました。

庶民の結婚とは違いますからね、先方だってセレモニーの準備をしているはずだし
なにより政治的な問題が起こりかねません。
でもエドワード3世は娘の気まぐれを怒らなかったそうです、っていうより
4年後には領地と収入を増やしてあげたらしい…独りで生きていきなさいということか?

ところが33歳の時、7歳年下のインゲルラム・ド・クーシーと結婚することになりました。
しかも恋愛結婚らしい…
インゲルラムは、1360年にフランス王ジャン2世の身代わりでイングランドにやって来て
それ以来投獄されていました。
ロンドン塔でしょうか? 王宮でもあったので、そこで出会ったんですかね?

エドワード3世はお祝いに宝石や年金、領地などを大盤振る舞いし
インゲルラムは保釈金無しで釈放された上に、奪われていた領地も返されました。
しかも後にベドフォード伯に叙位されましたよ。

インゲルラムはフランス王軍に仕えていたので、遠征のため屡々家を空けていました。
イザベラは夫の留守中にちょくちょく里帰りしていたようです。

父に代わってリチャード2世が即位すると、インゲルラムはイングランドにおける
全ての権利(つまり領地とか爵位とか)を放棄しました。

その2年後、イザベラが亡くなりました。
夫インゲルラムや長女マリーと離れてイングランドにいたそうで、
かなり奇妙な状況だったようです。

その後インゲルラムはロレーヌ公の公女イザベルと再婚しましたが子供ができず
イザベラ(イングランド)の長女マリーが父の権利を継承しました。
ゆくゆくは継母イザベル(ロレーヌ)の領地の継承もしそうな勢いだったんですけど
突然亡くなって、領地はフランス王家のものになりました。
すご~く怪しいね…

もっと浪費家っぽい壮大な無駄遣いのエピソード(とんでもない城を建てたとか
ドレスだけで100部屋あったとか… )でもあったら面白かったんですが
見つけられませんでした。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード2世王女 エリナー

2011-02-13 18:10:18 | イングランド王妃・王女
母親ゆずり? 押しの強さが不幸を招く
エドワード2世王女 エリナー・オブ・ウッドストック
グェルダー公ライノルト2世妃


1318~1355

エリナーは、愚王の呼び声高いエドワード2世と
“ フランスの女豹 ” 呼ばわりされているイザベル・オブ・フランスの長女です。
エドワード3世の妹で、スコットランド王デイヴィッド2世妃ジョアンの姉にあたります。
何より不仲のエドワード2世夫妻に4人も子供がいたってことに驚いたね

          
6歳の時、従姉のエリナー・ド・クレア(ジョアン・オブ・アクレの娘)のお世話になるため
妹ジョアンとプレシーに送られました。
母イザベルが王太子エドワードを連れて(野望を胸に)フランスを訪問した後
オランダに滞在していた頃だと思われます。

エリナーは7歳の時、カスティーリャ王アルフォンソ11世と婚約しましたが
持参金が折り合わず破談になります。
この年父王エドワード2世は廃位され、翌年謎の死を遂げました。

15歳のエドワード3世が即位したことで好き勝手にふるまうようになったイザベルは
勝手にフランスと(屈辱的)講和を結びました。
イザベルは、エリナー&次男コーンウォール伯ジョンと
従兄弟にあたるフランス王フィリプ6世の王子&王女のW結婚を考えたようですが
上手くいきませんでした。

1330年、母イザベルが愛人マーチ伯ロジャーと捕らえられて、幽閉生活に入ります。
捕らえさせたエドワード3世は別として、子供たちはその後会うことができたんでしょうか?
いくら女豹といっても母は母ですから…

1332年、エリナーはグエルダー伯ライノルト2世と結婚しました。
彼は23歳以上も年上で再婚でした。
しかも自分の父親を6年以上も投獄していることで知られていました。

グエルダー伯はフランス王に対抗するため
エリナーの兄エドワード3世と手を組みたかったようです。
しかし、この結婚をアレンジしたのは母イザベルの従姉妹ジャンヌ・ド・ヴァロワです。
自分の甥がフランス王(ジャン2世)だったのに…よくわかりませんな。

ライノルトは4人も子供がいる暗い男やもめでございました。
でも寂しい子供時代を過ごしたエリナーは
愛がほしくてなんとか旦那様を満足させようと必死でした。

若い嫁のパワーにライノルトは疲れちゃいました… というわけで結婚から6年後
エリナーが癩病に罹ったと嘘をついて宮廷から遠ざけようとします。
その間に結婚を無効にしようと試みたわけですが
エリナーは宮廷に乗り込んで自分が病気でいことを証明しました。

1339年、ライノルトは公爵に叙位されます。
しかし4年後に落馬事故で亡くなりました。

後を継いだ息子ライノルト3世は9歳でしたので
エリナーが一緒に領地を守っていたわけですが、長じるにつれてぶつかるようになり
とうとう彼女自身の領地も取り上げられてしまいます。

未亡人になって12年、とは言っても36歳のエリナーはシトー派の修道院で
貧困のうちに亡くなりました。
兄エドワード3世に頼ればよいものを…自尊心が邪魔をしてできませんでした。

息子はもうひとりいたはずですけど、何をやっていたんでしょうか?
母親が困窮しているというのにっ

デーフェンテル修道院に葬られたエリナーの墓石には飾りが無く
ELEANORという文字が掘られているだけだそうです。

(参考文献 森護氏『英国王妃物語』 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード1世王女 エリザベス

2011-02-11 18:16:21 | イングランド王妃・王女
なにかにおう気がする再婚なんだけど・・・
エドワード1世王女 エリザベス・オブ・ルドラン
ホラント伯ヨハン1世夫人/ヘレフォード伯ハンフリー夫人


1282~1316

エリザベスはエドワード1世とエリナー・オブ・カステイルの十一女 です。
彼女の下には弟エドワード(2世)がいます。
年の近いふたりは兄弟姉妹の中で一番の仲良しだったようです。
          
3歳の時、ホラント伯フローリス5世の息子ヨハン(1世)と婚約しました。
年下のヨハンは1歳で、教育のためにイングランドに連れてこられ
以後ふたりは一緒に成長しました。

エリザベスが15歳になった時、イプスウィッチで結婚式が挙げられました。
式には、父エドワード1世、姉マーガレット、弟エドワードが参列していました。
そしてもうひとり、ハンフリー・ド・ブーン、覚えといてくださいね。

その後ホラントに向かって旅立つ手はずになっていたのですが…
エリザベスが行きたくないと言い出しました。
あらあら、わがままね…でも彼女の言い分は受け入れられて
可哀想なヨハンはひとりでホラントに帰っていきました。
ヨハンだって13歳、男の子だけど親元を離れて来ていたのにね。

とうとうエリザベスがホラントのヨハンのもとへ行く決心をすると
父王エドワード1世が同行して来てました。
エリザベスはエドワード1世と数ヶ月もヘントに滞在して
クリスマスを姉エリナーとメアリーと祝っています。 ヨハンはまた待ちぼうけ?

十何年も一緒にいて情が移ってると思ったら、実は嫌いになってたのかしら?
それとも単に家族といたいだけだったのかしら?

1298年にやっと再会を果たしたエリザベスとヨハンでしたが
2年もたたない1299年11月、ヨハンが赤痢で亡くなってしまいました。
殺されたという噂もたちました。
でも、彼の兄弟は皆若くして亡くなっていますので、やはり病死かも…
ヨハンが嫡子無く亡くなったことで、ホラント伯領はエノー伯家に移っってます。
いろいろと蠢いていた可能性はありそうですけどね…

で、17歳で未亡人になったエリザベスはイングランドに帰りました。
そこで父の再婚相手で継母のマーガレット・オブ・フランスと初対面。
ふたりはすっかり意気投合して、親子というより親友のようになりました。
なんたって年がかわらないんですもの(マーガレットが3歳年上)

1302年、20歳の時ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンと再婚しました。
ん? ハンフリー・ド・ブーン?
そうです、結婚式に参列していたハンフリーです。
なんで彼が王家に混じって結婚式にいたのかよくわからんのだが、もしかしたら
その時に恋が芽生えちゃったとか ? それでホラントに行きたくなくなっちゃったとか?
だとしたら面白いんだけどね

おふたりは仲睦まじかったようで12人のお子様が生まれています(5人は10歳までに夭逝)
1315年、エリザベスは11人目のお子様を身ごもっていましたが、クリスマスの間
義理の妹イザベル・オブ・フランスの訪問を受けることになりました。

王妃の訪問は名誉なことだけれども、エリザベスにはものすごいストレスになります。
だってお茶だけ出せばいいってもんじゃないんだもの。
晩餐会はしなきゃいけないだろうし、もしかしたら舞踏会まで開いたかもしれない。
料理に招待客に部屋の用意…女主人はすごく大変ですよね。

エリザベスは原因不明の不調になりますが、子供は無事生まれました。
でもやはり健康を損ねてしまっていたようです。
翌年、12人目の出産の時にはエリザベスも生まれた子も数時間後に亡くなりました。
元気になるまで妊娠しなければ良かったのに…

エリザベスはイザベルと名付けられた最後の子供とともに
エセックスのウォルサム・アベイに葬られました。

(参考文献 Wikipedia英語版)
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イングランド王エドワード1世王女 メアリー

2011-02-10 01:55:16 | イングランド王妃・王女
             十女ともなると肖像画が無いっていうじゃない…
                    そんなわけで当時のドレスをどうぞ


ものすごい特別待遇の修道院生活!!
エドワード1世王女 メアリー・オブ・ウッドストック


1279~1332

メアリーはエドワード1世とエリナー・オブ・カステイルの十女!!です。
八女、九女は夭逝しました。

          

メアリーが7歳の時、祖母エリナー・オブ・プロヴァンスは、どれどれ引退しようかね…と
修道院に行くことを決心しました。
で、ひとりで行けばいいものを、なぜか孫娘もふたり連れて行こうと考えます。
選ばれたのはエドワード1世王女メアリーと
次女ベアトリスの末娘アリエノール・ド・ブルターニュでした。

やっぱり早く婚約さしときゃよかった!!

母エリナーは必死で反対しますが姑にはかなわず、ふたりはフォントヴロー修道院の分院
ウィルトシャーのエイムズベリー小修道院に入れられてしまいました。

不憫に思ったのか、メアリーは両親から毎年100ポンド(現在の50,000ポンド相当)の
手当と、ドレスも好きな物を買ってよく、ワインを飲んでもいいという許可を
特別に与えられました。 お部屋も特別居心地がいいところにしてもらったそうです。
4歳年上の従姉アリエノールの方はどうだったかわかりません。

エドワード1世は、わざわざ修道院に娘たちを訪ねています、それも5回も。

1291年に祖母が亡くなると、フォントヴロー修道院に移ることも考えられましたが
メアリーはエイムズベリーに留まりました。
アリエノールは行ったのかしら?
彼女は後にフォントヴロー修道院の修道院長になってます。

メアリーの手当は200ポンドに増額され、毎年20個の大樽!!のワインも
もらえるようになりました。
それに、修道女でありながら、好き勝手に旅行に行くようになります。
ローマ教皇の「修道女は修道院にとどまるべし」という勅書もなんのその、
巡礼という名の下に従者を大勢引きつれてカンタベリーへ出かけました。
カンタベリーならまだいいが、宮廷にもちょくちょく顔を出し
だんだん長居をするようになります。

従姉の公女アリエノールが王女の自分を差し置いて、本山ともいえるフォントヴローの
修道院長になったのは悔しかったみたいですが…自業自得とも言えますな。
とはいえ、晩年まで居心地よく好き勝手に暮らしていたようです。
1332年に亡くなって、そのままエイムズベリーに葬られたとみられています。

しかし、メアリーは死後も騒動に巻き込まれます。
サリー伯ジャン・ド・ワーレンはメアリーの姪ジャンヌ・ド・バーと結婚していましたが
メアリーとジャンヌが結婚前に女同士で愛し合っていた、と離婚を申し立てました。
この件は結局立証されず、ジャンヌも離婚もされなかったようです。

修道院をホテルのように考えていたのかしらね?
私は修道院に入った王侯貴族の子女たちのほとんどは
メアリーみたいな暮らしをしていたんじゃないかと睨んでいるのよね

それはそれでいいとして、まわりで厳しい修行をしていらっしゃる
他の修道士・修道女の方はどう思ったのでしょう?
「ちっ! これだから王族には来てほしくなのよねっ」と思ったのでしょうか?
それとも「これも試練」と穏やかにお世話したんでしょうか? 私ならひがむけど…

(参考文献 Wikipedia英語版)
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