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まりっぺのお気楽読書

読書感想文と家系図のブログ。
ゆる~い気持ちでお読み下さい。

イングランド王エドワード1世王女 マーガレット

2011-02-08 02:10:32 | イングランド王妃・王女
ある意味ひとりの男性に一生を捧げたと言えるかも…
エドワード1世王女 マーガレット・オブ・イングランド
ブラバント公ヨハン妃


1275~1333

マーガレットはエドワード1世とエリナー・オブ・カステイルの七女です。
ウィンザー城で生まれました。

母エリナーを亡くした15歳の時、ブラバント公ヨハン2世と
ウェストミンスター寺院で結婚しました。

その9年後、父王エドワード1世は
フランス王フィリプ3世とマリー・ド・ブラバンの王女マーガレット・オブ・フランス
再婚することになりました。
義理の母が4歳(~7歳)年下ってことになります。

(どうでもいいけど、ブラバント公家って地味だけど、各王家に入り込んでる…
 と思っていたら、ベルギー王太子ってブラバント公なのね。)

           

マーガレットは3歳の時にヨハン2世と婚約していて(エドワード1世、気が早い
彼の妻になることを知りつつ成長しました。
子供時代を楽しく過ごし、気だての良い娘に育っていました。

ふたりの結婚の祝典はものすごく贅沢なものだったそうです。
まずは鎧兜をフル装備した騎士たちの行進があって
豪華なドレスを身に纏った女性たちのコーラスがロンドン中で行われ
あちらこちらで舞踏会が催されました。
しかし、いざブラバント公家に移ると、宮廷ではあまり幸せではなかったようです。

なぜならば、ヨハン2世がずっとおつき合いしてきた愛妾と庶子たちを
認めるように強制されて、彼らがいつも宮廷にいたからです。
マーガレットはずっと婚約者のことを考えて育ってきたのに…ひどいじゃないの。

庶子たちはマーガレットのひとり息子ヨハンと同じように振る舞っていました。
大人になっても嫡子と同じぐらいの権力を持っていたそうです。

ただ、腎臓を患っていたヨハン2世は、公領の継承だけは
ちゃんと嫡子ヨハンに渡るよう望んでいました。
もし愛妾が強欲だったら、継承戦争がおこってもおかしくないですもんね。
この望みは叶えられたようで、公領は息子ヨハン3世に無事継承されました。

1308年、マーガレットとヨハン2世は、ブーローニュで行われた弟のエドワード2世と
イザベル・オブ・フランスの挙式に参列し
そのままロンドンの戴冠式まで付き添いました。
夫婦ふたりの長い旅…いい思い出になりますわね。

終始フランスの勢力拡大を阻止しようとしていたヨハン2世は
1312年にテルビュレンで亡くなり、ブリュッセルの
サン・ミッシェル・エ・ギュデュル大聖堂に葬られました。

マーガレットはそれから22年長生きしたのですが、再婚したような話しも無く
というか、なんのエピソードもないです。

亡くなった後はヨハン2世と同じ場所に葬られました。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (2)
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イングランド王エドワード1世王女 ジョアン

2011-02-05 23:41:59 | イングランド王妃・王女
身分違いの恋を実らせた
エドワード1世王女 ジョアン・オブ・アクレ
グロースター伯ギルバート夫人/モンテルマー男爵ラルフ夫人


1272~1307

ジョアンはエドワード1世とエリナー・オブ・カステイルの六女です(五女は流産)

ジョアンは、両親が十字軍遠征中に生まれました。
しばらくすると両親はアクレ(アッコ)を発ってシチリア、スペインに向かったので
母方の祖母ポンチュー伯ジャンヌとフランスへ向かいました。

           

孫は可愛い!と申しましょうか、ジョアンは祖母に徹底的に甘やかされて育ちます。
ポンチュー伯の屋敷のまわりは自然豊かだったようで、ジョアンは
丘のぶどう畑だとか谷間など、野趣あふれる領地で遊びまわったそうです。

しかし、エドワード1世は十字軍から帰国すると、政治的な力と富を増やすべく
5歳のジョアンの縁談にとりかかりました。
ドイツ王ルドルフ1世王子へルマンを相手に選ぶと
早速ジョアンをフランスから呼び戻しました。
ジョアンが父親に会ったのはこの時が初めてです、だのに縁談の話しなんて…

生憎ヘルマンがアイススケート中に亡くなりました。
エドワードはさっさと次の相手を探し、グロースター伯ギルバートを選びました。
グロースター伯は30歳も年上で離婚したばかりです。
父親としてどうなの? 自分と年が変わらない男に娘をあげるなんて…
でもグロースター伯は当時イングランドで最も力のある貴族のひとりでした。

ジョアンが12歳の時、縁談が整いました。
グロースター伯はジョアンに魅せられ、気を惹こうと必死でした。
かなりのプレゼント攻撃だったらしい

フランスで幸せ一杯に過ごしてきたジョアンは、両親とは馴染めませんでした。
それも結婚を承諾した理由のひとつかも…

しかし結婚はジョアンが18歳になってからでした。
待ちに待った48歳のグロースター伯は嬉しかったに違いありませんね。
でも結婚生活は5年で終わってしまいました。 子供は4人生まれています。

グロースター伯の死から1年ほどして、ジョアンは父王の近衛隊にいた
ラルフ・ド・モンテルマーの視線にぶつかりました。
ヨーロッパの王侯貴族の娘が、さして地位の無い従者と会話を交わすなんて
許されることではありませんでした、が、ふたりは恋に落ちます
すごい身分違い…ドラマティックですね!
ふたりは1297年にこっそり結婚しました。

ところが、エドワードはすでにジョアンとサヴォイア伯アメデーオ5世の縁談を
考えていたから大変です。
ジョアンは4人の子供を送り、父王の気持ちを和らげようと試みましたが失敗。
エドワードは結婚をいやがるジョアンから領地を取り上げました。

ジョアンが結婚したことを告白すると、エドワード1世は大激怒して
ラルフを投獄してしまいました。

ふたりの結婚は国を二分した議論を巻き起こしましたが
ジョアンの妊娠がわかって、とうとうエドワード1世の許しがでました。
ラルフはグロースター伯とハーフォード伯になりました。

子供も4人生まれて幸せに過ごしていたようですが、結婚から7年後
ジョアンはサフォークの別荘で亡くなりました。
出産のせいではないかと言われています。

ふたりの息子エドワードは、異父姉エリザベス・ド・クレアに尽くしました。
そのおかげで亡くなった時、母ジョアンの側に葬ってもらえたそうです。

1357年、そのエリザベスが「ママの棺を開けたら美しいままだった」と訴えたそうです。
他にもジョアンの棺に奇跡がおこったという訴えはあるらしいのですが
列聖には加えられませんでした…残念。

エドワード1世は名君のひとりに数えられる君主ですが、娘の結婚には非情ね。
ちょっと見損なっちゃたわ… 当時は当たり前だったのかもしれないけど。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
コメント (4)
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イングランド王エドワード1世王女 エリナー

2011-02-05 02:04:20 | イングランド王妃・王女
婚約者を焦らしすぎて王妃にならず
エドワード1世王女 エリナー・オブ・イングランド
バー伯アンリ夫人


1269~1298

エドワード1世とエリナー・オブ・カステイルには16人のお子さんが生まれていますが
10人は生まれてすぐか、10歳ぐらいまでに夭逝しました。
エリナーは四女ですが、長女から三女までは生まれてすぐに亡くなっています。

エリナーが生まれた翌年から4年間、両親は十字軍で留守でしたので
お世話をしてくれた祖母のエリナー・オブ・プロヴァンスにとてもなついていました。
どうやら両親が帰って来た後もおばあちゃまの方が好きだったようです。

          

エリナーは小さな頃に4歳年上のアラゴン王子アルフォンソ(3世)と婚約していました。
しかしこの次期、アルフォンソの両親は教皇から破門されていました。

アラゴン側は後ろ盾が欲しかったんでしょうね…
早くエリナーをアラゴンに来させるよう再三要求します。
けれどもエドワード1世はなんだかんだと言ってアラゴン行きを止めていました。

1282年に再度要求があると「母と妻が幼すぎると言って反対している」と言い
2年間待つように要請しました。

でも結局2年経っても行かなくて、アルフォンソは結婚前に26歳で亡くなりました。
かわいそ~ 待たされたまま死んじゃうなんて。 嫌なら婚約破棄すればいいのにね。
いったい何があったんでしょうね? やはり破門されていたから?

アルフォンソの死から2年後の1293年、エリナーはバー伯アンリ3世と結婚します。
この結婚は、バー伯とイングランドが手を結んでフランス王に対抗することを
連想させましたので、フィリプ4世は警戒を強め、バー伯を投獄してしまいます。

バー伯が捕らえられていた数年間、エリナーはエドワード1世の援助を受けながら
ゲント(フランドル)で過ごしていました。
いつからいつまで離ればなれだったのかわからないんですが
1294年から1296年までひとりづつお子さんが生まれているからその後?
それとも面会可能な感じの軟禁状態だったのかしら?

エリナーは1298年はじめにイングランドに戻って亡くなっています。
ウェストミンスター寺院に葬られました。

バー伯はその後もフィリプ4世に虐げられてたみたいですが
1302年にナポリ王国の対シチリア戦争に参加してその後亡くなりました。

3人のお子さんのうち、次女エリナーはウェールズの
ルーアリン・アプ・オーウェンと結婚しています。
エドワード1世が敗ったウェールズ最後のプリンス、ルーアリン・アプ・グリフィズと
なんか関係があると思うんだけど違うのかな?
探ってみましたがわかりませんでした。

後に王になるテューダー家のヘンリー7世はオーウェンとエリナーの
子孫だということになってますが、これはテューダー朝の歴史家たちが
ヘンリー7世に王家の血が流れていることにしようとしたんじゃないかと…
疑惑の継承をしたヘンリー7世は、けっこうそういうことしてます。
おっと、口がすべりました。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ヘンリー3世王女 ベアトリス

2011-02-04 00:06:47 | イングランド王妃・王女
暗い子供時代から幸福な結婚生活へ
ヘンリー3世王女 ベアトリス・オブ・イングランド
ブルターニュ公ジャン2世妃


1242~1275

ヘンリー3世と王妃エリナー・オブ・プロヴァンスには
9人のお子さんが生まれたとされていますが、5人が子供の時に亡くなっています。

ベアトリスには兄にエドワード1世、
姉にスコットランド王アレグザンダー3世妃マーガレットがいます。

           
ベアトリスはボルドーで生まれました。
父王ヘンリー3世の失策続きの政治と、母エリナーの不人気のダブルパンチで
ストレスに悩まされ,悲観的な子供時代を送りました。

また、次から次へと幼くして亡くなっていく子供たちに、一家は深く傷ついていました。
さらに王太子エドワード(後の1世)まで危篤に陥りますが
幸いなことに回復しました。

ヘンリー3世はベアトリスをフランス王と結婚させたくて
ノルウェー王子との縁談を断っていたのですが
結局ブルターニュ公子ジャンと結婚させることになります。

反対派貴族がじわじわと王の力を奪おうとしていて
ヘンリー3世は権力を強固にする必要に迫られていました。
ジャンは広大なリッチモンド伯領を牛耳っていて(後にリッチモンド伯になります)
姉マーガレットを嫁がしたスコットランド王同様強い援軍となり得ます。

ベアトリスとジャンは1260年に結婚しました。

イギリスの人々は、エリナーとサヴォイ人たちに牛耳られるヘンリー3世に不満を覚え
1263年には、王妃エリナーがロンドン市民の暴動で船で逃げ出す事態までおこりました。
翌年にはヘンリー3世の妹エリナーの夫レスター伯による謀反まで招いてしまいます。

王太子エドワードが出来た子で良かったよぉ…というわけで
なんとか王権は回復しましたが、結局ヘンリー3世はこの後出る幕無しになります。

ちなみにレスター伯位はエドワードの弟エドマンドが継ぎました。

ベアトリスは、故郷のゴタゴタはよそに、幸せな結婚生活を送っていたと言われています。
バラバラになっていたご兄弟姉妹も仲が良かったそうです。

しかし、1275年に33歳で亡くなっています。
どうやらこれは6人目のお子さんの出産が原因のようですが、幸いお子さんは無事でした。

ブルターニュ公は、ベアトリスを領地の中で最も大きな
グリニッジのグレイフライヤーズ教会に葬り、自分も死後そこで眠っています。
ジャン2世はベアトリスの死後30年間、再婚しなかったんですよ!!
なんだか、幸福な妃ばかりが早く逝ってしまう気がするのは気のせいかしら?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ジョン王女 エリナー

2011-02-03 02:09:06 | イングランド王妃・王女
神への誓いを覆して再婚
ジョン王王女 エリナー・オブ・レスター
ペンブローク伯ウィリアム夫人/レスター伯シモン夫人


1215~1275

リチャード1世と王妃ベレンガリアの間にはお子様がいなかったので
王位は弟ジョンが継ぐことになりました。

ヘンリー2世には王子たちが5人おりまして、末っ子ジョンには与えられるべき土地が
残されていなかったのでした。
父ヘンリー2世、兄弟、フランス王フィリプ2世入り乱れての争奪戦があり
リチャード1世の死後も甥アーサーとの王位争奪戦がありましたが
1199年、王に即位することはできました。

ジョン王はこの後どんどん領土を失っていくのですが
欠地王(ラックランド)と呼ばれるのは生まれつき領地が無かったことに由来します。

さて、ジョン王と王妃イザベラ・オブ・アングレームの間には5人のお子さんがいましたが
王女は3人、長女ジョアンはスコットランド王アレグザンダー2世妃に、
次女イザベラは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世皇后になりました。

        
三女エリナーがグロースターで生まれた時、ロンドンはフランス軍に占領されていました。

マグナ・カルタの調印&破棄による貴族の反乱、フランス軍侵攻と
慌ただしい日々を送っていたジョン王がニューアーク城で亡くなった時
エリナーはわずか1歳で父親の顔を見たことはありませんでした。

エリナーの兄ヘンリー3世が7歳で即位しましたがフランス軍がぐんぐん迫って来ます。
そんな時、ペンブローク伯ウィリアム・マーシャルを中心とする王党派が
ヘンリーを守ってフランス軍を退けました。
ペンブローク伯はヘンリー3世の摂政も務めます。

エリナーはペンブローク伯の長男で同名のウィリアムと4歳の時に婚約し
9歳で結婚しました。 ウィリアムは再婚で34歳でした。
こ、これは…あからさまな王家にくい込む作戦ではないですかね?

ペンブローク伯は7年後に亡くなります。
エリナーはこの時16歳でしたが、カンタベリー大司教の前で
貞節を守ること(つまり再婚しないってことかしら?) を宣誓しました。

まだお若いのにいいんですか~? と思っていたら、その7年後
レスター伯シモン・ド・モンフォールと出会います。
二人は恋に落ちまして、ウェストミンスター・アベイのキングス・チャペルで
こっそり結婚式を挙げました。

もちろん、エリナーの宣誓のことがあって、この結婚は議論の的になりました。
レスター伯は教皇の許しを得るためにローマまで出向いています。
結局許されたらしくて、レスター伯はヘンリー3世の代理として
ガスコーニュの統治も任されました。

しかし、その後ヘンリー3世がレスター伯を罷免したので反旗を翻し
一時は王&王太子を捕らえて自ら統治に乗り出しました。
結局レスター伯は、救い出された王太子エドワードの反撃に敗れ
1265年にイーヴシャムの戦いで戦死しました。

エリナーはフランスに追放になり、モンタルジ修道院の修道女になりました。
この修道院はレスター伯の妹アミシアが創設して修道院長を務めていました。
知人がいるというのは心強いですね。

追放になった後も兄ヘンリー3世はエリナーを温かく見守り
収入も増やしてあげました。
レスター伯領に関する訴訟を続けることも許してあげました。
ただ、息子さんたちはレスター伯位を継げなかったみたいです。

1275年にモンタルジ修道院でなくなり、葬られました。
夫シモンはイーヴシャムに葬られているので、バラバラになっちゃったのですね。
いつか一緒にしてあげては?

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ヘンリー2世王女 ジョアン

2011-02-01 02:04:09 | イングランド王妃・王女
            左から、ヘンリー2世、ジョアン、グリエルモ2世です

九死に一生の帰国、そして夫からの脱出
ヘンリー2世王女 ジョアン・オブ・イングランド
シチリア王グリエルモ2世妃/トゥールーズ伯レーモン6世夫人


1165~1199/在位 1177~1189

ジョアンはヘンリー2世とエリナー・オブ・アキテーヌの王女で
リチャード1世の妹、ジョン王の姉にあたります。

アンジューのアンジェ城生まれで、幼い頃は母エリナーの宮廷がある
ウィンチェスターやポワティエで過ごしていました。
       
ジョアンが11歳の時、シチリア王グリエルモ2世からの使節がやってきて
婚約が整い、シチリアに向かいました。
翌年シチリアに到着し、10歳年上のグリエルモ2世と結婚しました。
しかし、グリエルモ2世との結婚生活は4年で終わりを告げます。
1181年にグリエルモが亡くなった時、嫡子はいませんでした(王子一人夭逝)

新王になったタンクレッドは前王妃ジョヴァンナ(ジョアン)を
投獄してしまいました。
たぶん、持参金を返したり年金を払ったりするのを避けたかったんでしょうね。

9年ほどたって、十字軍でイェルサレムに向かうリチャード1世がシチリアに到着、
ジョアンと持参金と返すように要求します。
ついでじゃなくって、もっと早くやって来てあげなよぉ

シラをきるタンクレッドに対してリチャード1世はバニャーラの城を強奪し
さらにメッシーナに攻撃をしかけました。
タンクレッドはリチャードに4000マルクを渡して、ジョアンも帰国させることにします。
お兄様が向こう見ずな荒くれ者で良かったね!

1191年、母エリナーがリチャードの嫁にと
ベレンガリア・オブ・ナヴァールを連れてメッシーナに参上します。

ここからたいした冒険談が始まるんだけど、長くなるのではしょるわね。
母エリナーが帰った後、リチャード1世、ベレンガリア、ジョアンとともに
シチリアを発ちましたが、途中で嵐に遭います。
ベレンガリアとジョアンが乗った船が漂流、リチャードが発見、
キプロスで暴君イサキオスを投獄した後、リチャードとベレンガリアが式を挙げ
3人はイェルサレムのアッコに到着しました。

アッコでリチャード1世は、かなり非道で無礼な振る舞いをしたのですが
側にいてどう思ったのですかね? 妹として止めたりしたんでしょうか?

ともあれ、ジョアンはリチャード1世のお気に入りの妹だったそうです。
それでも政治的に必要とあれば、嫁に差し出すことを躊躇しなかったらしい…
リチャードはイェルサレムのスルタン、サラディンの弟アル・アーディルと
ジョアンの縁談を画策しました。
この縁談はお互いが異教徒との結婚を拒んだため実現しませんでした。

フランス王フィリプ2世もジョアンとの結婚に興味を示していましたが
なにせリチャードとフィリプは十字軍遠征中喧嘩ばかりしていたのでね
それに婚約破棄したフィリプ2世の妹アレの件もありましたし…

結局ジョアンは、31歳の時にルーアンでトゥールーズ伯レーモン6世と再婚しました。
このレーモン6世という人は6回結婚してまして、ジョアンは4人目の妻です。
年は40歳で、若い嫁が良かったのかしら? 持参金目当て?
ジョアンに対してまったく優しくなかったそうです。

ジョアンは次第に夫を恐れるようになり、その上暴動の時にひとりにされたりして
とうとう3人目の子を身ごもったまま逃げ出しました。

とりあえずルーアンの母エリナーのもとへ避難したジョアンは
その後フォントヴロー修道院に入りたいと希望しました。
ジョアンは既婚だし、妊婦でもあったのですが特別に受け入れられました。

やっと安息の日々が迎えられるというのに、やはり怖い思いをしすぎたせいかしら
出産の時に亡くなってしまいました。
生まれた男の子も洗礼の後亡くなっています。

ジョアンはそのままフォントヴロー修道院に葬られました。
50年後、長男のトゥールーズ伯レーモン7世が隣に葬られました。
2歳の時に別れた母子ですが、やっと近くにいられるようになって良かったですね。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』『英国王妃物語』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ヘンリー2世王女 エリナー

2011-01-31 01:22:34 | イングランド王妃・王女
強い女性のはずが夫の死に大打撃を受ける
ヘンリー2世王女 エリナー・オブ・イングランド
カスティーリャ王アルフォンソ8世妃


1162~1214/在位 1177~1214

エリナーはヘンリー2世とエリナー・オブ・アキテーヌの次女で
リチャード1世の妹、ジョン王の姉でした。

         

名付け親のロバート・オブ・トリニーは歴史家で、エリナーのことを
出来る限り書き残したっていうんだけれども、あまりエピソードが見当たらない…

ヘンリー2世は王妃エリナーの分と併せるとものすごい領土を持っていました。
北はスコットランドとの境まで、南はスペインとの国境まで
とにかくフランス王領の10倍ぐらいあるんじゃないでしょうか?
フランス王に臣従している貴族の公領を併せても、ヘンリー2世&エリナーの領土の
2分の1か、3分の1しかありませんでした。

だから、王女たちは引く手数多ですよね。
王子も多かったのでまさか王位はまわってこないでしょうが
少しぐらい王女が領土を譲られるかもしれないし、持参金としてもらえるかも…
エリナーもやっぱり持参金にガスコーニュが要求されています。

エリナーはカスティーリャ王アルフォンソ8世と14歳の時に結婚しています。
この結婚はピレネー山脈に国境を定めるためのものでした。

母エリナー・オブ・アキテーヌには、フランス王ルイ7世との間に二人、
ヘンリー2世との間に三人の王女を生んでいますが、エリナーが一番母親似だったそうです。
つまりパワフル! 夫と二人三脚で政治を行いました。

お子様も11人生まれています(4人は夭逝)
王子たちには恵まれず、末子エンリケ(1世)以外は父王より先に亡くなっています。
エンリケも王になってから3年、13歳で亡くなっています。

長女ベレンガリアはレオン王アルフォンソ9世妃になり、その後カスティーリャ女王に、
三女ウラッカはポルトガル王アフォンソ2世妃に、
四女ブランカはフランス王ルイ8世妃に、
六女レオノーラはアラゴン王ハイメ1世妃になりました。

アルフォンソ8世が亡くなった時には、10歳の息子を助ける意気込みだったらしいのですが
悲しみのあまり葬儀を取り仕切ることもできず、仕方なく長女のベレンがリアが
喪主の役目を果たしました。
「あの王妃が!?」ってことでまわりは困惑したそうです。

悲しみのせいか病に陥ったエリナーは、夫の死からわずか28日後に亡くなりました。
鉄の女のように見えて夫恋しさで亡くなるなんて…なにやらぐっとくる最後ですね。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ヘンリー2世王女 マティルダ

2011-01-29 02:30:02 | イングランド王妃・王女
波瀾万丈の夫を支えた…のかしら?
ヘンリー2世王女 マティルダ・オブ・イングランド
ザクセン公ハインリヒ3世妃


1156~1189

マティルダはヘンリー2世とエリナー・オブ・アキテーヌの長女です。
兄の共統王ヘンリー妃マーガレットは後にハンガリー王ベーラ3世と再婚しました。
弟にリチャード1世とジョン王がいます。
        
1165年、ケルンの大司教がルーアンにあるヘンリー2世の宮廷を訪れて
9歳のマティルダとドイツ諸候を結婚させたいと持ちかけました。

しかし大法官で対立教皇派のレスター伯ロバートは大司教に会おうともせず
自ら神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の皇子とマティルダの縁談を進めました。
この縁談は上手くいかなかったのだけれども、代わりにフリードリヒ1世の盟友
ザクセン公ハインリヒ獅子公との縁談がまとまりました。
1167年にイングランドを発ち、翌年1月に結婚したマティルダは11歳、
ハインリヒは再婚で38歳でございました… いつもながら年の差は考慮されないのね。

神聖ローマ帝国の力を確立したいフリードリヒ1世と共に戦うハインリヒは留守がちで
マティルダが代わって領地を治めていました(とはいってもブレーンがいたでしょうが…)

ところが、ハインリヒとフリードリヒの間に亀裂が入ります。
ドイツ王、ひいては神聖ローマ皇帝の座を狙っていたハインリヒの心を知ってか知らずか
フリードリヒ1世が4歳の我が子をドイツ共治王にしてしまったからです。
イタリアで苦戦するフリードリヒの援護も拒み、味方の諸候を引きつれ離反しました。

フリードリヒ1世は大敗してイタリアから帰って来たのだけれども
反ハインリヒ派を集めて、ハインリヒに大敗の責任を負わされてることに成功します。

そんなわけで、1182年、ハインリヒ一家は追放になってしまい
ノルマンディへ渡ってヘンリー2世の世話になります。
嫁の実家に居候…今だと肩身が狭いけど、当時はよくあったことですし
城がいくつもあるのでね…敵に睨まれなければ快く貸してくれたんじゃないでしょうか?

マティルダはアルジャンタンの宮廷で叙情詩人ベルトラン・ド・ボルンと知り合いました。
彼は詩の中にマティルダをエレナとかラナという名で登場させたそうです。
なにかあったかどうかは知りませんけどね…

1185年、ハインリヒとマティルダはやっとザクセンに帰ることを許されました。
ところが、1189年にいいがかりみたいな理由で再び追放を言い渡されます。
1190年に、フリードリヒ1世は十字軍に参加しているのね。
自分がいない間に好き勝手をやられては困ると考えたのではないでしょうか?

マティルダはハインリヒの利益を守るべくブラウンシュヴァイクに残りましたが
ハインリヒが発ってから3ヶ月後に亡くなりました。

あまり活躍したエピソードが無いんだけど、父王の宮廷ではいじけないように励まし
5人の子供(3人は夭逝)を育て、夢を諦めない夫を支えたんでしょうね(あくまで想像)

ハインリヒ獅子公はフリードリヒ1世の皇子を敗りましたが、その後和解して
マティルダの死から6年後にブラウンシュヴァイクで亡くなりました
ふたりともブラウンシュヴァイク大聖堂に葬られています。

               
              すっとぼけた顔が憎めないのでもう1枚

(参考文献 菊池良生氏『神聖ローマ帝国』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ウィリアム1世王女 コンスタンス

2011-01-26 02:01:45 | イングランド王妃・王女
お母様のお気に入り
ウィリアム1世王女 コンスタンス・オブ・ノルマンディ
ブルターニュ公アラン4世妃


生年不詳~1090

コンスタンスはウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの四女か五女です。
才気煥発な娘で、王妃マティルダの一番のお気に入りでした。
           
1086年以降にブルターニュ公アラン4世と結婚しましたが
1090年に(たぶん毒殺で)亡くなりました。
ルドン(ブルターニュ)のサン・メランに葬られました。
1672年に棺が発見されています。
(フランスでは、フランス革命の時に王家に縁のある教会や修道院が破壊されて
 お墓が見つかっていない王侯貴族がけっこういます)

アラン4世は後にエルメンガルド・ダンジューと再婚しまして
その息子コナン3世は継承戦争でスティーヴン派になったそうです。

ウィリアム1世の後を継いだウィリアム2世は未婚でした。
ヘンリー1世の王子は即位前に亡くなり、ひとり娘のマティルダと王位を争って勝利したのが
アディラ・オブ・ノルマンディの息子、ブロワ家のスティーヴンでした。


女王になってたかもしれないけど…
スティーヴン王王女 ブローニュ伯マリー1世
ブローニュ伯マチュー夫人


1136~1182/在位 1159~1170

マリーはスティーヴン王とマティルダ・オブ・ブローニュの王女です。

幼い頃に修道院に入りましたが、長男ウスタシュ(ユースタス)が父王より先に亡くなり
次男ギョームに嫡子が生まれなかったことからブローニュ伯領を継ぐことになって
1159年に修道院から出てまいりました。
       
翌年マチュー・ダルザスと結婚しました。
マチューはこの結婚でブローニュ伯領の共同統治者になりました。

でも、そんなに年も離れていない二人の結婚生活はあまり上手くいかなくて
10年ほどで結婚を解消しました。

結婚解消後、どういうわけだかマチューがブーローニュ伯にそのまま在位して
マリーはモントルイユのSt. Austrebertで修道女になってます。
そこで1182年に亡くなり、そのまま葬られました。

マチューは先立つこと9年前に亡くなっていて、伯領は長女イーダが継承していました。

やはり20年あまりの人生を聖なる場所で過ごしてきた人には
俗世は煩わしいものなのかしらね?

もし父王スティーヴンが徹底的にヘンリー1世王女マティルダを敗っていたら
あるいは女王になった人だったかもしれませんけど、そんな野心はなさそうですね。

(参考文献 森護氏『英国王妃物語』『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ウィリアム1世王女 アディラ

2011-01-25 01:28:32 | イングランド王妃・王女
イングランドに継承戦争を招いた結婚
ウィリアム1世王女 アディラ・オブ・ノルマンディ
ブロワ伯エチエンヌ2世夫人


1062以降~1137

アディラはウィリアム1世とマティルダ・オブ・フランダースの王女で
実は五女かもしれないんですが、文字量の問題で先に持ってきました
四女かもしれないコンスタンスは生年不詳なのでね…

アディラは元気一杯の教養高い女性で
碩学王と言われたヘンリー1世のお気に入りの姉でした。
         
1080~84年の間にブロワ伯エチエンヌ2世と結婚しました。
ブロワ伯は当時フランスで最も裕福な部類に入る貴族で
ヘンリーとともに十字軍にも参加していました。

エチエンヌ2世は1100年にお宝を携えて帰国したのですが
教皇への義理立てのために、翌年またアンティオキアに向かいました。
1102年、ラムラの戦いで亡くなりました。

エチエンヌ2世は臆病者で、戦火の中逃げ出した的な噂が多々あるそうですが
これは後年の歴史家がねつ造したものだそうです。

アディラは領主になった子供たちの摂政を務め、ブロワ伯領と自分の領地を治めて
フランス王家を凌ぐほどの富める領地にしました。
立派だね! 夫の死後会社を盛り立てた女社長って感じでしょうか?

しかし、そんなアディラにも頭痛の種が…
長男のウィリアム(ギョーム)は、退化した人間じゃなかろうか?と言われるほど
知性に欠けた人だったらしく(精神的な病説あり)、アディラとは不和でした。

そこで一度は譲ったブロワ伯領とシャルトル伯領を、1107年に
次男ディボー(テオバルド)に指名し直しています。
ここで継承争いなどが起きなくて良かったですね。 強い母のおかげでしょうか?

そして三男エチエンヌ(スティーヴン)は、1111年
弟ヘンリー1世のイングランド宮廷へ送りつけました。
アディラの読みはあたり、スティーヴンはヘンリー1世のお気に入りになります。

ヘンリー1世はマティルダ・オブ・スコットランドとの間に
ウィリアムという王子がいましたが1120年に嫡子が無いまま亡くなります。

そこでヘンリー1世はスティーヴンに王位を譲ることを約束しました。
これが口約束だったので、後々ややこしいことに…

1125年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世を亡くした王女マティルダが帰国しました。

ヘンリー1世の頭に「マティルダを女王にしちゃおっかな」という考えが
むくむくわき上がり、前言を撤回したりするもんで、ヘンリー1世の死後
スティーヴンが即位したものの、各家を巻き込んでの継承戦争に突入しました。
どちらかというとスティーヴン有利だったんですけどね…

姪マティルダ(皇后)と嫁マティルダ・オブ・ブーローニュ
激しく争っている間のアディラの動向はよくわかりませんが
1120年にはマルティニーの修道院に隠遁していたらしいのよね。
たぶん影ながら息子を応援していたことでしょう。

1129年に末っ子ヘンリーがウィンチェスターの司教に就任したことが
なにより誇りだったみたいです。

1135年にはスティーヴンがイングランド王になったし、もう思い残すことは無かったのか
1137年にポワトゥのマルシリーで亡くなりました。

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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イングランド王ウィリアム1世王女 セシリア

2011-01-22 23:28:45 | イングランド王妃・王女
なにか問題でもあったの? 気になるわ…
ウィリアム1世王女 セシリア・オブ・ノルマンディ


生年不詳~1126

ふぅぅ…やっと神聖ローマ皇后シリーズが終了しました。
今回は、ちょいと目先を変えてプリンセスたちにいこうかしら…と思います。
王の娘に生まれた、端から見ればたいそう羨ましい女性たちの人生って
どんなものだったのでしょうね?

私の家系図書きはイングランドから始まったので今回もイングランドの王女たちから。
王妃シリーズ同様、ノルマン家が王様になったところから初めます。
(ややこしいので庶子は省きますね

まずはウィリアム1世の長女だと考えられているセシリア、実は生没年不詳です。
母親はマティルダ・オブ・フランダース
兄にウィリアム2世ルーファス、弟にヘンリー1世ボークラークがいます。

セシリアは幼い頃にカーン(ノルマンディ)の修道院に入れられて
その後は一生を修道院で過ごしたようです。

1112年にHoly Trinity(?)の修道院長になっていまして
1126年にそこで亡くなりそのまま葬られました。
棺は見つかっていないそうです。

最初の子供で可愛いはずなのに、どうしちゃったんでしょうね?


三女とか他の人とごちゃまぜかも・・・
ウィリアム1世王女 アデライザ


1055~1066

次女と言われるアデライザについてはほとんど何も知られていないらしく
生没年も一説によるもので本当は不詳です。
彼女だけ “ オブ・ノルマンディ ” がついてないんだし…

『ノルマンディ公の功業(直訳)』という本によると
アディリシスというウィリアム1世の王女が、サクソン系最後の王ハロルド2世と
婚約したということになってるらしいのですけど
三女アガサも婚約しているのでね…(別説あり)

ちなみに、ハロルド2世はウィリアムの娘との婚約は無視して、1063年に
ウェールズの支配者グリフィズの未亡人エディス(オールジス)と結婚してます。
アデライザもエディスも没年が1066年頃と言われているのよね…
いろいろ混同されている気がします。


神に届いた清き祈り
ウィリアム1世王女 アガサ・オブ・ノルマンディ


1064頃~1079

三女アガサの婚約者はハロルド2世、または同名の庶子かもしれないそうです。
もし1064年頃の生まれだとすると、ハロルド2世は1066年に亡くなっているので
息子の可能性が大きいですよね。

1078年頃カスティーリャ王アルフォンソ6世から結婚の要求があり
代理人まで送られちゃったらしいです。
アルフォンソ6世という方は、アガサより25歳ぐらい年上で4~6回結婚してます。

アガサは「スペインに連れて行かれませんように 」と神に祈り続けますが
結局船に乗せられてしまいました。

しかし祈りは届いたらしく、嫁入り前に船上で亡くなりました。
良かったんだか悪かったんだか…
アガサは無垢のまま引き返し、バイユー(ノルマンディ)に葬られました。

家系図は3人まとめてしまいました。

      

(参考文献 森護氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)
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プリンセス・ダイアナ展に行ってきました

2009-08-09 22:00:18 | イングランド王妃・王女
日本橋三越で開催中のプリンセス・ダイアナ展、
明日までだったので急いで行って来ました。

基本的には写真展ですね。
やはり何を着てもお美しく、まさにプリンセス。
ドレスが数点飾られていましたけど、ああいうのが似合う華のある人に
次期英国王妃になってほしかった…
よその国なんであまり出過ぎたことはいえませんけど

できたらスペンサー家の家系図とか宮殿で使っていた物とか
そういうロイヤルな物が見たかったですね。
場内では結婚式の時の映像や、追悼コンサートの映像が流れていました。
お懐かしゅうございました。

ほぼ女性陣で賑わっていてお土産コーナーも大混雑。
熱気におされてバラをモチーフにしたバッグとポーチを購入しましたが
これって何かダイアナ妃に関係あるんでしょうか?

             
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イギリス王ジョージ6世妃 エリザベス

2008-12-14 01:17:25 | イングランド王妃・王女
果敢に世界大戦を闘った王妃
ジョージ6世妃 エリザベス・バウズ・ライアン


1900~2002/在位 1936~1952

亡くなったのは2002年、101歳の大往生です。
2004年に102歳で亡くなった義理の妹グロスター公爵夫人アリスに続き
イギリス王室で歴代2位の長生きです。

生まれも育ちもロンドンですが、14世紀まで遡るスコットランドの旧家の出です。

      

21歳の時にジョージ5世の次男アルバート・フレデリック(後のジョージ6世)に
プロポーズをされますが、彼女は断ります。
しかし、「 他の誰とも結婚しない 」という息子の宣言を聞いた母メアリー
自ら彼女を訪問し説得したことから、ついにエリザベスも結婚を承諾します。
王妃は「息子を幸せにしてくれるたった一人の女性だから 」と言ったそうです。

              
         25歳当時のエリザベス妃、エリザベス(2世)が生まれる1年前です

エリザベスは王室の一員になることに不安を抱いていましたが
アルバートは次男で王の弟として少し楽な立場であるというのも承諾の理由だったかも。
しかし! なんということでしょう
ジョージ5世の後を継いだエドワード8世は、シンプソン夫人との恋愛で
王位を投げだしてしまったっていうじゃありませんかっ!

アルバート自身も自分が王になることを嫌がっていましたが
エリザベスは夫以上に即位を拒んでいました。
控えめで極度のどもり癖があった夫が王になると、心労でまいってしまうのではと
心配したからでした。
しかし議会の決定によってアルバートがジョージ6世として即位することになります。

エリザベスは兄エドワードに怒りを覚える以上に、シンプソン夫人を許すまじ!!
と思ったようで、死ぬまで彼女に会おうとはしませんでした。
孫であるチャールズとカミラの再婚をなかなか許そうとしなかったのは
この時の苦々しい思いがあったのでは? と言われています。

アルバートがジョージ6世として即位してから3年、第二次世界大戦が開戦し
ほどなく英国も参戦します。

エリザベスは英国が参戦すると、赤十字の援助のための書籍を出版しました。
セシル・ビートンによる王妃のポートレイトが表紙になった本には
50人の作家や芸術家が寄稿しました。

また、国王一家は議会によるロンドンからの避難や
王女たち(後のエリザベス2世も含まれています)のカナダへの疎開を正式に拒みます。
王妃はこの時「娘たちは私がいなければ行かないし、私は王を残しては行かない。
そして王は決してここから離れない」と言っています。

王と王妃は戦時中、ロンドンの各地を、とりわけドイツの爆撃がひどい地域にも
足繁く訪れ国民を励ましました。
(もっとも、最初の頃は豪華な装いで出向き、困窮した市民たちに
 罵声を浴びたりもしたみたいです。その後落ち着いた色合いの服装に変えました)

エリザベスの存在は英国民や兵士の士気に大きく影響したようで
ヒトラーをして「ヨーロッパで最も警戒すべき女性」と言わしめています。

ジョージ6世の逝去後は、エリザベス2世の母后として
スコットランドの古城の復旧を監督したり、式典に参加したりと精力的に活動します。
(チャールズ皇太子とダイアナ妃の結婚式で、二人がバルコニーでキスした時の
 ビックリ顔が可愛かったですよね
競馬にもご執心だったようで「だいたい500レースぐらい勝った」と打ち明けています。
    
              
         100歳の誕生日にエリザベス2世からの電報を読み上げる母后です

チャールズと婚約したダイアナが、マスコミに追われて困っていた時も自宅によんでかくまい
二人にデートをさせてあげたというおちゃめなおばあちゃまは
2002年3月30日 午後3時15分、エリザベス2世に看取られて息を引き取りました。
眠っている間の、安らかな最期だったそうです。

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 Wikipedia英語版)

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イギリス王エドワード8世妃 ベッシィ・ウォリス

2008-12-09 01:49:39 | イングランド王妃・王女
シンデレラになれなかった?
エドワード8世(ウィンザー公)妃 ベッシィ・ウォリス・シンプソン


1896~1986/在位せず

よく “ シンプソン夫人 “ と言われますが、シンプソンはウォリスの二度目の夫の姓で
旧姓はウォーフォードといいます。
アメリカ・ボルティモアの旧家出身の女性です。
ただ、名門とはいいながら父も義父も早く亡くし、あまり豊かでない少女時代を送り
20歳で航空士官ウィンフィールド・スペンサー・Jrと結婚します。

      

若い彼女は男性と遊び廻るのが大好きで、11年で離婚しますが
以前から彼女にぞっこんで妻とも離婚してしまったアーネスト・シンプソンが
イギリスに渡るのを機に彼と再婚します。
なにもイギリスで王太子とお近づきになろうと思っていたわけではないでしょうが
彼女は少女時代に王太子の写真を持ち歩いていたという説もあります。

運命の糸ってあるものなんでしょうか?

一方王太子エドワードは、厳しく育てられたにもかかわらず
祖父の血を受け継いでしまったのか女性関係は派手で、遊び好きな陽気な男性でした。
社交界でも人気抜群だった彼は、アメリカの大富豪の令嬢セルマ・ファーネスと
付き合っていましたが、ウォリスに王太子を紹介したのはまさにこのセルマでした。

いよいよドロドロしてきましたね

上昇志向の強かったウォリスは盛んに社交界に出入りしていましたが
特に王太子の気を惹いているようでもありませんでした。
そこでセルマはアメリカに一時帰国する時、ウォリスに
「王太子が悪さをしないように見張ってて」とお願いしたんですって!
おおぉ~ なんてことを・・・
セルマがロンドンに戻ると、二人はすっかり恋人同士になってましたとさ。
絵に描いたような展開ですね。

ジョージ5世が逝去し、王太子がエドワード8世として即位すると
ウォリスは急いで夫との離婚手続きを始めます。
かねてから二人の関係に打ちのめされていたシンプソンは素直に離婚に応じたので
ウォリスの方は問題なしでした。

しかし母后メアリーはウォリスを嫌って会おうともせず
議会も生存中の夫がいる女性との結婚を認めようとしません。
エドワード8世は退位を決意します。

これが世にいう “ 王冠を賭けた恋 ” なんですが、これは英国議会、エドワード8世、
そしてウォリスも計算違いだったという説があります。
議会はまさか退位してまでウォリスと結婚するとは思っていなかったかもしれないし
エドワードもまさか本当に退位させられるとは思っていなかったかもしれないし
アメリカ生まれのウォリスも、まさか王ともあろうものが
結婚相手のことで退位させられるとは考えていなかったかもしれません。
しかし事はすらすらと運び、エドワード8世はラジオ放送で退位を宣言します。

さてどうでしょう?
王様のお妃になれなくてもウォリスは満ち足りたでしょうか?
確かにエドワードはウィンザー公という爵位をもらい、莫大な年金をもらって
パリで豪勢な生活を送れたわけですから、不幸ではなかったでしょう。
(英国も王経験者にみじめな生活をさせるわけにはいかないもんね)
エドワードは地位を認められないウォリスを不憫に思って
パーティーを催したり豪華な宝石をいくつも贈ったりしています。

でも爵位とは名ばかりで、特にやることもない夫と始終一緒にいなきゃいけないし
イギリスに行きたいな、と思ってもそうもいかず、再度イギリスを訪れたのは
36年もたってからでした。
しかもエドワードは王室関係者と会ったり、式典に参加したりしましたが
ウォリスが招かれることはありませんでした。

もしかしたら、お互いうんざりすることもあったかもしれません。
しかし世界的一大事を巻き起こしてまで結婚した相手と
おいそれと別れられるわけないですもんねぇ・・・

果たして英国王室の肩書き無くして、一国家の国民を全て敵にまわしてもいいような魅力が
エドワードにあったのかどうかは知りませんが
自分のために全てを捨ててくれた人がいるというのは女冥利に尽きますね。
すご~く重い十字架を背負いそうだけどね・・・

(参考文献 森譲氏『英国王室史話』 桐生操氏『世界悪女大全』
      ドーン・B・ソーヴァ『愛人百科』)

これさえあれば、あなたも英国王室通
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有名な愛人や愛妾をピックアップしA〜Zの順で紹介しています
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イギリス王ジョージ5世妃 メアリー

2008-12-06 18:40:19 | イングランド王妃・王女
古き良き時代の高貴な王妃
ジョージ5世妃 メアリー・オブ・テック


1867~1953/在位 1910~1936

メアリーが最初に婚約したのはジョージの兄、王太子アルバートでした。
アルバートは父王エドワード7世の放蕩な部分を多大に受け継いでいたようで
女性関係や素行の悪さが話題になっていました。
当時“ 切り裂きジャック ” はアルバートだと噂されたほどです

そんなアルバートが、フランス人伯爵の娘でカトリックのエレーヌと結婚したいと言いだし
慌てた両親が花嫁候補として選んだ中、承諾したのがメアリーでした。
メアリーの母ヴィクトリアは、ジョージ3世の孫娘でヴィクトリア女王の従妹にあたり
白羽の矢が立ったようです。
アルバートは(不品行が原因で)他の候補に断られていました。

      

ところが結婚の1ヶ月前、アルバートは病にかかり1週間後に亡くなってしまいます。
アルバートの最期に付き添っていたメアリーの前で、彼はエレーヌの名を口にしました。

しかし、こう言っちゃなんだけど、これがメアリーにはラッキーだったんじゃないか?

なぜなら、そんなメアリーが結婚したアルバートの弟ジョージ(後の5世)は
お勉強の方はちょっと不得手だったらしいけれど、真面目な好人物で
女性問題などもない男性だったんですから。

アルバートの両親であるエドワード7世夫婦と祖母のヴィクトリア女王は
すでに国民の人気者であったメアリーを手放したくなくて
弟のジョージを彼女と結婚させようと目論みます。

ジョージも、従妹でルーマニア王妃となったマリー・オブ・エディンバラに失恋したばかりで
二人の結婚はまったくの同情、あるいはお家事情によると言われました。
でも二人がやりとりした手紙から、お互いが愛し合って結婚したことがわかったそうです。

エドワード7世とアレグザンドラ妃は自由で愉快なことが大好きな人たちでしたが
ジョージとメアリーはヴィクトリア女王に倣って
厳格で堅実な王家のイメージづくりに励みました。
夫が王になってからは、世界大戦中疎開せずロンドンに残ったり、兵士を慰問したりして
国民からの信頼を得ていきました。
また、国民感情を意識して、“ サクス・コバーク=ゴータ家 ” というドイツ名を
“ ウィンザー家 ” に改名したのもジョージ5世でした。
(これはドイツが大っ嫌いだったアレグザンドラ王太后の主張だったようです)

メアリーは公務に一切不平を言わず、国民を愛する王妃ではありましたが
王妃という立場を重く意識していて、国民とは一線を隔していたようです。

一般の英国民が王妃の声を聞いたのはただ一度だけ、
客船クイーン・メアリー号の進水式のラジオ放送だけだったということです。
また、息子ジョージ6世が即位し、王太后となって隠居した後も
自分の宮殿では使用人たちに旧式の衣服を着せていました。

長男エドワード(8世)が王位を投げ出した時にも厳しい態度で臨み
死ぬまでシンプソン夫人に会うことはありませんでした。

次男ジョージ6世に先立たれ、孫娘エリザベス2世の戴冠式の2ヶ月前に亡くなります。
「決して(エリザベス2世の)戴冠式を延期しないように」と強く言い残していったメアリーは
王室の気品と格式を、頑固なまでに守り通した最後の王妃だったかもしれません。

              
                 後年のメアリー妃です。
                    貫禄があって頼りになりそうですね。

 余談です
私のようなドールハウス好きには、クイーン・メアリーはかなり有名です。
彼女は、ドールハウスの縮尺を12分の1に決めた人と言われていて
ウィンザー城の『クイーン・メアリーのドールハウス』はドールハウス好きなら
誰もが見に行きたいと憧れているものでございます。

(参考文献 デボラ・フィッシャー『プリンセス・オブ・ウェールズ』)

何名かの皇太子妃をピックアップしてエピソードが書かれています
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