まりっぺのお気楽読書

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神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世妃 マリア

2009-11-24 00:09:01 | ハプスブルク帝国の妃・皇女
貧しき皇子に嫁いだブルゴーニュ公女
マクシミリアン1世妃 マリア・フォン・ブルグント


1457~1482/在位せず

フリードリヒ3世は、なんとか息子マクシミリアンを大国に縁付かせて
ハプスブルク家を大きくしてもらおうと考えていました。
そこでブルゴーニュ公家のひとり娘で相続人、マリアに白羽の矢をたてます。
まあ、申し込むのは勝手だから…

ブルゴーニュ公でしかもヴァロア家と言えばたいへんな名家なわけです。
マリアにもたくさんの縁談が舞い込んでいました。
それなのに、なぜに貧乏なハプスブルク家の息子なんかと?
    
ブルゴーニュ公シャルル突進公は、とても神聖ローマ皇帝になりたかったのです。
フリードリヒ3世に再三ローマ王を譲れと言っていたシャルル公でしたが
なんだかうまいことはぐらかされているうちに戴冠までされてしまい…

そんなシャルル公にフリードリヒ3世から娘マリアに縁談の申し入れがありました。
もしかして… シャルル公は自分が皇帝になれるかもしれない、と思い
とりあえずお相手のマクシミリアンと会うことにしたそうです。

するとどうでしょう!! 弱気で陰気な父親からは想像もつかない
元気はつらつで男らしい少年(14歳)が現れたではありませんか。

概ね結婚に同意したシャルル公でしたが条件の交渉が難航して4年の月日が流れます。
そして1477年、ふたりの結婚を指示する遺言を遺して亡くなりました。
急がないとブルゴーニュを狙うフランスが攻めて来ます。

マクシミリアンは急遽ブリュッセルへ向かい、やっと結婚することができました。
マリアはふたつ年上の姉さん女房でした。

ふたりは出会った時から惹かれ合って、とにかく仲が良かったということですが
最初はお互いの言葉が分からなかったんですって。
愛に言葉なんかいらない…ということですかね。

マクシミリアンはフランス軍も撃退してブルゴーニュ公の地位を確立し
王子も生まれて幸せ一杯の日々を送っていたのですが…

結婚から5年後、マリアは妊娠中にもかかわらずマクシミリアンの鷹狩りについて行き
落馬したところへ馬が倒れてきて、という不幸に見舞われます。
家族や国民の祈りも虚しく、3週間後に息を引き取りました。
15000人が参列し、ノートルダム寺院に埋葬されました。

なぜ誰か止めてあげなかっんでしょうね? よりによって乗馬とは…
幸せ一杯の王妃は早く亡くなる傾向がある気がしますが、気のせいでしょうか?

マクシミリアンはマリアの死から8年後、ブルターニュ公女アンヌと婚約し
結婚したとも言われていますが、フランス王シャルル8世に奪取されてしまいました。
シャルル8世は、マクシミリアンとマリアの娘マルグレートと婚約していたのに…
中世の結婚はなかなか波乱が多いものですね。

(参考文献 江村洋氏『ハプスブルク家』『ハプスブルク家の女たち』
          『ハプスブルク家史話』 Wikipedia英語版)

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2 コメント

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Unknown (花屋)
2015-08-08 10:23:45
楽しく拝読しております。
マクシミリアン一世妃マリアはマリー・ド・ブルゴーニュのことですか?
母はイザベル・ド・ブルボンではないのでしょうか。
返信する
こんばんわ (まりっぺ)
2015-08-10 19:45:52
花屋さま、こんばんわ
コメントありがとうございます

ほんとーだ!
私はてっきり一人目の妃カトリーヌがお母さんかと思っていましたが、イザベル・ド・ブルボンがお母さんですね。
ありがとうございます。
家系図修正いたしました。
返信する

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