まりっぺのお気楽読書

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オラニエ公フレデリク・ヘンドリク妃 アマリエ

2009-09-24 00:34:28 | オランダ王妃
義兄の意志を継いだ公妃
フレデリク・ヘンドリク妃 アマリエ・ファン
                  ソルムス=ブラウンフェルス


1602~1675/在位 1625~1647

フレデリク・ヘンドリクの前には、それぞれ母親の違う兄がオラニエ公を継いでいました。
フィリップス・ウィレムはコンデ公女エレオノールと結婚しましたが嫡子無し
マウリッツは生涯独身で庶子はいたのですが嫡子はいませんでした。

ソルムス=ブラウンフェルス伯の娘だったアマリエは、ブラウンフェルス城で育ち
ボヘミア王フリードリヒ5世妃エリーザベトの侍女になります。

      

フリードリヒ5世が皇帝争いに敗れてプファルツが攻められると
アマリエは妊娠中のエリーザベトと一緒に逃げることになりました。
けれどもハプスブルク家のフェルディナント2世からお達しが出ていたため
どこもフリードリヒ5世一家を受け入れようとしません。

やっと受け入れてくれたのがオラニエ公マウリッツです。
マウリッツの保護を受け度々宮廷を訪れている間に
弟のフレデリクがアマリエを見初めました。
侍女ですから愛人になっちゃうのが普通なのですが、アマリエは拒み続け
あくまで結婚を主張しました。

そんなふたりを端で見ていたマウリッツは、亡くなる時に結婚を約束させます。
というわけで1625年、フレデリクとアマリエは結婚しました。

マウリッツは着々と領土を拡大し、軍部を強化してスペインと争っていました。
この意志を継いだのはどちらかというとフレデリクよりアマリエで
ふたりは引き続き公国を拡大していきました。
ハウステンボスを含むいくつかの宮殿もこの時期に建設されています。

それからアマリエは縁談にとても熱心で、娘たちをドイツの王族たちに嫁がせ
息子のウィレムとイングランド王女メアリーとの結婚をまとめました。
もしかすると、仕えていたエリーザベト(イギリス王室出身)の口添えが
あったかもしれませんね。

フレデリクが1647年に亡くなリ、後を継いだ息子ウィレム2世が若くして亡くなると
アマリエは孫であるウィレム3世の後見人を務めています。

スペイン王フェリペ4世は、80年戦争終結後の1649年に
トゥルンホルト一帯をアマリエに譲渡しました。 領土はさらに拡大です。

マウリッツはアマリエの能力を見抜いていたのかもしれないですね。
愛人にはおしい!! と思って義弟に結婚を踏み切らせたのかもしれません。
アマリエもよくその期待に応えましたよね。

ちなみに、日本とオランダの交易はマウリッツの時代に始まっています。

(参考文献 Wikipedia英語版)

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1 コメント

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Unknown (Hope)
2019-11-01 07:34:28
アマリエって侍女といっても血筋はそんなに悪くない
(フレデリクと彼女の父が従兄弟同士)
ので、マウリッツが二人の結婚を後押ししたのはそういう理由もあったのかもしれませんね。
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