「 我らの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かってひれ伏せ。我らの神、主は聖なる方。」
詩編 99編 9章
「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」
イザヤ書 6章 5節
聖なる方に向かうとき、自分が罪人中の罪人であり、霊的に死んだ状態であることを自覚する者は父なる神に喜ばれる。
神のこの聖さは私たちを排除するものではなく、私たちを招くものだというのです。神はこう言われます。
「 私が聖であるから、あなた方も聖なる者になりなさい。」 なぜ聖い神は 「 私のように聖なる者になれ 」 と
私たちを 「 聖なる人生 」 に召してくださるのでしょう。
それは罪赦されて本当にへりくだって神に近づく心だけが、神とつなり、神のいのち、神の祝福に生きられるからです。
そして清い人生は、神との交わりの道であるばかりではなく、平和で幸福な、人との交わりの唯一の道でもあります。
また天国へ行くために、私たちは聖なる者、神と共に歩む者とならなければなりません。
罪は私たちを天国から排除します。私たちがイエス・キリストの十字架の血による赦しと清めの中をくぐり抜けて、
キリスト共に歩むところに、清められた生活があるのです。
ここに神を礼拝し賛美する理由を持つことができるのです。この神の姿がはっきり見えている限り、またこの神の救いを経験してい
る限り、私たちの生涯はいつも神を賛美し、絶えず神を礼拝していくことができる、祝福された生涯を送ることができるのです。
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