「 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてください。」
詩編 9 編 20節
昔、イスラエルの民は、モーゼに率いられてシナイの砂漠をさまよいました。
( 本当は神の導きの手の中にあったのですが、人々はそのことを理解し得なかったのです。
人は力に満ちた神の前に自らの弱さ、無能を悟らなければならない。) 彼らは天幕住まいでした。
その真ん中に神の契約の箱を置いた天幕がありました。モーゼは、雲の柱、火の柱の導きに従って、
契約の箱を担ぎ、前進しました。契約の箱を担いで前進するときはいつも、「 主よ。立ち上がってください 」
と言ったことが旧約聖書の民数記の中に記されています。私はその時の情景を心に描きます。そして、思うのです。
「 神様、立ち上がって敵を破り、私を助けてください 」 と。悲鳴のような叫び声を上げなくても、
( ここで知っていてほしいのは、主イエス・キリストの十字架の恵みによって、民ではなく、子とされたと言う事です。)
私の人生、私の朝夕の生活の中で、神が神として立ち上がっていてくださる。私が神の民として従っているところに、
私の人生の勝利も平和や喜びも、人生の使命も栄光もあるのだと思うのです。
聖書から
「 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。
むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。」 詩編 22:24
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