マラナ・タ  …  私たちの負い目を唯一人、背負われて父の元へ帰られたのは。神があなたを愛されているからです。   

ただ父なる神の愛とイエス・キリストの愛を多くの皆様にお知らせしたいのです。帰れやと、父はあなたを慕い待っておられます。

柔和とは

2018年08月03日 | キリスト教

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。

そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」

                     マタイ 11章 29節

 

「わたしのくびき」とは、イエスがこしらえたくびきであり、イエスがあなたのために立てられた計画のことを

さしています。したがって、「わたしのくびきを負いなさい。」と言うのは、主イエスの支配にゆだねなさい、

という事です。
 
私たちは、聖書を読んで、知識を蓄えればイ主エスのことを知ることができると勘違いをしてしまいますが、
 
主イエスに従わなければこの方を知ることはできません。使徒ヨハネも、1ヨハネ5:3

「神を愛する事は、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」と言いました。

ですから、主イエスに自分を奉げることは、実はとても楽なことなのです。
 

そして、主イエスのくびきを負います。くびきとは、自分のしたいことではなく、
 
イエス様のしたいことに自分を合わせることです。これは重荷とはならないと主イエスは言われます。
 
サタンの用いる最大の偽りは。主イエスに従うことが、重いことだと勝手に自分で思わせてしまうのですが、
 
サタンがそれを言い含めます。それを拒んでください、イ主エスの言葉の言われるように、
 
主イエスのくびきは軽いと宣言してください。主イエスはさまざまの重荷にあえぐ私たちを招き、十字架の死によって、

私たちの重荷を引き受け、重荷から解放してくださっていることを心にとめ、歩みたいものです。

 

 

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