「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。
なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
使徒の手紙 5章4節
アナニヤとサッピラの罪は、代金を全部持って来なかったことではなかったことが、ここから分かります。
持ち物は残していても良かったし、売っても、その代金は自分のものにして一向に構わなかったのに、とペテロは言っています。
この二人の悪は偽善でした。自分たちを人々に良く見せるために、嘘をつきました。この偽善が問題だったのです。
また、アナニヤとサッピラの夫婦の根本にある問題点は、神に対する不信です。
だれが自分たちの生存と防衛を保障してくれるのかというニーズに対して、
完全に神に信頼していなかったという点です。単に、ごまかしたということではなく、
神への不信こそ、神を欺き、聖霊を欺くことへと発展しました。
神の民がエジプトから脱出して以来、神の民の心配はだれが生存と防衛の保障を与えてくれるのかという問題でした。
偶像礼拝の問題は基本的にこの「ニーズ」から起こって来るのです。これはいつの時代においても不変のテーマです。
しかし、知ってほしいことは、アナニアは特別に悪い人ではなく、私たち自身なのです。同時にバルナバの献身的信仰も私たちの中にあります。
私たちの心の中にアナニアと同じように惜しむ心(毒麦)があり、同時にバルナバのよう燃える信仰(良い麦)がある。
私たちが為すべきことは心にある毒麦と戦い、良い麦を伸ばしていくことだ。
そして、私たちは葛藤して獲得した献金を正直に神の前に差し出した時、私たちの献金は清められていく。
私たちは「僅かですがお納め下さい」として献金しない。僅かではない。戦って勝ち取った献金なのである。