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日本民主主義文学会「葦立ち」28号

2012-04-26 23:09:38 | 文化・芸術・映画

足立区西伊興在住の嶋圭さん主宰の足立区民主主義文学会「葦立ち」28号が発行されました。そのなかから「帰りたくても帰れない」-中国抑留と戦後の生活を語る 三田綾子さんの記事に着目したので、一部のみ紹介します。

敗戦から六十六年目の八月がめぐってきました。中国に抑留を体験した人たちも高齢化し、存命孝も少なくなるなか、東京・足立区の酉竹の塚都営団地に住んでおられる、元気な三田綾子さん(八十八歳)に体験を語っていただきました。
     (聞き手と注。浜野恵男)

・おいたち
 私(三田綾子、以下同)が生まれたのは、大正十三年一月十三日生まれの現在八十八歳です。生まれたところは九州の佐賀県西松浦郡大川野字長野(現在は伊万里市大川町)になっています。家族は祖父母と父、堀田正治(まさじ)、母、ヤノの間に三人姉妹の二女として生まれました。

 姉は十歳上で、両親は今度こそ男の子が生まれることに期待していましたが、女の子だったのでがっかりしたそうです。その二年後にまたまた女の子、妹が生まれました。
小作農家で、家庭は封建的な家族制度にしばられ、絶対服従、口答えすることは許されなかった。ちょっと口答えすると[裏の川に放り込む]とか「どっかに連れていくぞ」と脅かされて。結局口答え出来なくって。ご無理、ごもっともで育ってきました。

女は礼儀正しく、悪いことは絶対するな、入に迷惑かけるな、入の言うことは良く聞けとか言われました。
 それでも、やっぱり小作農家では家が貧しかった。農家は年に一回地主にお米を納めないとお金が入らない。
だから入るまで私達に着物一枚買ってやれず、また下駄一足も買えないので、母親が畑に野菜を作って、その野菜を売りに出かけるのね。だから私が学校から帰ると、「今日は何をやって」「お風呂を沸かしておけ」「水を汲んでおけ」とかいろんな仕事をしたわ。

これ以上は「葦立ち」28号をお買いもとめてお読みください。なかなか、波乱万丈の人生、88歳にして矍鑠として話す、三田さんはすばらしい。私もこの年まで、生きられるのかと思います。

「葦立ち」編集部 足立区西伊興3-10-4 嶋 圭さん ☎3897-2565 葦立ち28号 500円です。