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事業仕分けで危機にある文化予算

2010-09-23 23:50:48 | 文化・芸術・映画
「超大国アメリカの文化力」という本がでています。音楽評論家の小村公次さんがこの本の書評をある雑誌に書いておられたので紹介します。

文化政策を考える
          
        小村 公次
    
 昨年の行政刷新会議による「事業仕分け」で、文化芸術分野における予算縮減や事業見直しが迫られたが、その論理はきわめて乱暴なものだった。「芸術活動は自己責任」とし、「しっかりしたマーケティングで興行可能」とか、「特に予算をかける事業ではない」といったように、長期的な芸術文化政策にもとづく議論というよりは、予算縮減のためのパフォーマンスに終始していた。



 今年もその第二ラウンドが行われようとしているが、ここでしっかりと考えてみたいのが、文化支援のあり方についてである。その点で興味深く読んだのが、フランスの作家でジャーナリストのフレデリック・マルテルが著した『超大国アメリカの文化力ー仏文化外交官による全米踏査レポート』(根本長兵衛・林はる芽監訳、岩波書店刊)である。

 著者は2001年から05年にフランス大使館文化外交官としてアメリカのボストンに滞在し、全米35州で700回に及ぶインタビューと調査を行い、ケネディからブッシュにいたるアメリカ政府の文化政策と、文化にかかわるさまざまな組織について詳細な分析を行っている。その内容はアメリカという国とその文化についての既成概念を覆すものだった。

 著者は公的分野と非営利分野における文化支援の実態を詳しくレポートしているが、なかでも連邦政府の役割を歴史的に分析した内容が興味深かった。それによると、1929年の大恐慌後、政府の強力な介入による芸術家支援事業や冷戦期の対ソ宣伝を経て、1965年に連邦政府の文化機関である全米芸術基金(NEA)が創設される。



 当初、芸術的卓越性を支持する集団と深く結びついていたNEAは、カーター政権の下では文化政策としてではなく都市政策の問題とされ、レーガン政権下では多文化共存主義を批判し、規制緩和による文化産業とメディアの集中をもたらした。さらにブッシュ(父)政権時代にNEAは部分的に解体され、2000年以降、公的な立場からの直接的な文化支援は目に見えないものになった。

 文化支援が「国の仕事」ではないとするアメリカ社会のなかで、著者はそれを担う独特のシステムを明らかにしていく。すなわち「何千という、独立独歩で個人性を保ちながら、圧いに結びついている活動家」が共同して運営にあたるという、前例のない文化的市民主義によるシステムが誕生したとする。
 

      
 そしてこのシステムは、免税措置や間接助成金、「別枠予算」、「用途指定の準備金」、市債権などの恩恵に浴しており、それは連邦政府や地方自治体による間接的な公的助成に相当する。そしてこのシステムが、市場に左右されずに効率的に巨額の資金を集めている実態を明らかにしている。 
             
 と同時に、アメリカの文化政策が、国内的には文化的多様性を重視するいっぽう、国外ではハリウッド映画のように画一性が顕著で、文化的多様性を弱体化するという側面を持っており、こうした文化の商業化が非営利の文化活動を脅かしている実態も鋭く指摘している。

著者は、本書を通して自国フランスの文化政策の矛盾と課題を明らかにしようとしている。こうした真摯なアプローチこそ、いま日本の文化政策に強く求められていることではないだろうか。

音楽評論家