ワールドミュージック町十三番地

上海、香港、マカオと流れ、明日はチェニスかモロッコか。港々の歌謡曲をたずねる旅でございます。

タンゴの流れの果てに

2007-12-14 03:30:26 | 音楽論など


 昨日に続いてタンゴの話ですが。
 アルゼンチンで生まれたタンゴにインスパイアされてヨーロッパの人たちが作り出したの、コンチネンタル・タンゴという代物もありますね。こちらもいずれ、別の方向から探求してみたく思っています。

 面白いのは、あのタンゴのカチカチと律儀に刻まれるリズムを真正面から受け止めたのが、あの几帳面なドイツ人たちであったという事実。ああいうの、やっぱりドイツの人々は生理的に好きなんでしょうか。
 なんかその後、ずっと時代が下ってのドイツにおけるテクノポップの発生とも繋がるんではないか、などと思ってしまいます。

 というか、私の感性にしてみれば、テクノのクラフトワークなんて連中も、今日的コンチネンタル・タンゴのバンドに思えてなりません。 あの、機械の刻む冷徹なピコピコとしたリズムって、情け容赦もなく(?)タンタンと打ち込まれるタンゴのリズムのドイツ人的解釈の果てに生まれた鬼っ子って思えてきませんか?

 下は、知り合いのプカさんが見つけてきた日本製タンゴのシングル盤収集サイト。

 日本のタンゴ・コレクション・シングルレコードの部

 これなんか見ていると、一度聴いてみたい!と思うものもあれば、聞く機会がなくて幸いだったと思うもの(主にコミック系)もあり、でして(笑)
 しかし、日本人もタンゴ好きなんだって改めて思いますねえ。日向に出ることはあんまりないが、実は昔から結構、日本人の日常にぴったり寄り添ってきたのだなあ、と。

 (添付した写真は、ドイツの元祖テクノポップバンド、”Kraftwerk ”のアルバム、”Trans-Europe Express”のジャケのもの)

忘れられた楽譜から

2007-12-13 01:13:58 | 南アメリカ


 ”Raras Partituras”by Ramiro Gallo Quinteto 

 国立図書館の奥に眠っていた、忘れられていたタンゴの楽譜を発掘して演奏するという、なかなか心躍る企画のライブを収めた盤であります。

 かって、非常に和声に凝った、洗練されたサロン風のタンゴが一部のミュージシャンたちによってしきりに作られた、そんな時代があったのだそうですよ、アルゼンチンには。その時代の詳細については、毎度すみません、良く分かっていなくていまだ調査中なんだけど。

 いずれにせよその片隅のブームというもの、タンゴの主流を成すほどの流れにもならずに、いつか時代の中で忘れ去られてしまった。今回、それらの作品群に今日のタンゴ界でも非常に個性的な演奏活動で知られるラミロ・カージョの五重奏団がスポットライトをあて、”古きよき時代の前衛”とも言うべき作品群に新しい生命を与えている訳であります。

 上のような次第なので、タンゴの重要な構成要素とも言うべき裏町のうらぶれ感や都市の悪場所のやさぐれ美学、そのような尖った個性の発露は希薄です。あくまでも室内楽的良さの探求とでも申しましょうか。
 実は楽団、結構凝ったことやってるんですが、伝わってくるのはあくまでも物静かな安らぎに満ちた音楽で、旋律のうちに脈打つ、南欧風の甘美なセンチメンタリズムが光ります。

 長過ぎる灰色の冬に飽いた窓にふと小春日和の陽光が差し、遠い南の輝く青空の気配がつかの間、部屋を満たした、そんな手触りの音楽。こんなのも良いですねえ、たまには。

 何曲かではゲスト歌手も登場し、この独特の音楽世界にふさわしい優雅な歌唱を聞かせてくれます。ことに、なんでもっとアルバムを出してくれないのかなあ、と毎度、嘆息させてくれる私のヒイキのリディア・ボルダの歌声が3曲ほどで聴けるのが嬉しいです。

 やあ、早く憂鬱な冬なんか終わってしまって、光溢れる春がやってこないものかなあ、などと冬は始まったばかりなのにもう考えさせられてしまう、そんな一枚なのでありました。

鋼鉄の夢

2007-12-12 05:17:16 | その他の評論

 見てもいない映画の話で恐縮ですが。

 知り合いのVARIさんが先日の日記で触れておられた『リベリオン』(02・米 監督:カート・ウィマー)なる映画の話が妙に印象に残ったんで、ちょっと文章にしてみます。
 なにしろ見てもいない映画の話、全面的に見当違いの可能性、大いにありですが。

 まずは以下に、VARIさんが引用されていた”ストーリー紹介”を孫引きします。

 【第3次世界大戦後、人間は戦争の根源である「人間の感情」を抑制する薬、プロジウムを開発した。人々は毎日薬の投与を義務付けられ、本や絵画、音楽は一切禁止された。違反者の取り締まりを行うプレストン(クリスチャン・ベール)は、最小限の空間で銃の威力を最大限に伸ばす武道ガン・カタの達人。ある日プレストンは、誤ってプロジウムの瓶を割り、投与をしないまま仕事に就く。それは、プレストンが長い間忘れていた「感情」のかけらを、ゆっくりと目覚めさせていった…】

 なんじゃこりゃあ?なんてムチャクチャな反戦思想(?)だろう。「戦争の根源」は、「人間の感情」ですかね?

 戦争ってのは逆に、人間の感情などと言う”低劣”なものは無視して粛々と行なわれる冷徹なる国家プロジェクトでしょう。どういう発想をしているのかね、この映画の作者は?
 そんな”お上”の意向に沿い、尻馬に乗って騒ぎまくるお調子者、自らの死に直面してはじめて事態の真相に気がつくのだが、もちろんもう遅い。これが庶民の姿であるのであって。

 実際はどのような映画か知りません。ただ、上のストーリー紹介を読む限りでは”そりゃ話が全部逆だろう”みたいな、非常な理不尽さの連続と感じられる。
 まあ何のことはない、映画”ランボー”を見ただけで国際政治を学んだ気になっている頭の軽い人物が、一風変わったアクション映画をでっち上げるためにテキトーに思いついた舞台設定なんでしょうけどね。

 それにしても、描かれている感情抑制剤や「違反者」の取り締まりは、戦争を根絶やしにするというより、国民が政府の政策に反発して暴動を起こしたりしないように工作している、そんな風景にしか思えないのであって。
 製作者の心の底の泥沼に棲んでいるのは、実際のところ、そんな抑圧によって支えられた全体主義社会への歪んだ渇望、つまりは権力志向じゃないのかね。などと考えると、そんな渇望を底流に孕ませる時代の精神がなにやら不気味に感じられる今日この頃だったりするのでありました。


行け行け、レッガーダ!

2007-12-11 04:00:34 | イスラム世界


 ”BNAT REGGADA avac CHABA WAFAE, LIVE ”

 今年もそろそろ”本年の年間ベスト”など選出してみようかな、などと書いてみて、毎年毎年、時の流れの素早さについて行けなくなっている自分に弱ってしまうのであります。「今年も余すところ」などと言われたって、こちらの感覚では「そろそろ秋かな」くらいのものなのであって。

 昨年の今頃は、ちょうどそんな事を言っている最中に北アフリカから飛び込んできた謎の音楽、”レガーダ”を紹介するコンピレーション・アルバムに一発でやられてしまい、そのままそのアルバムを年間第1位に押し立ててしまったのだが、今年もインパクトで行くとあれを超えるものはないような気がする。

 とは言えまだまだ得体の知れない代物であり、いや、訳の分からないうちが一番おいしいと言うべきか、ほんとに吹けば飛ぶようなローカル音楽、つかの間の仇花とも思え、明日の風の吹きようで消し飛ぶかも知れず、今聴いておかねば聞く時はないのかも知れないのである。

 で、このレガーダなる音楽なのだが。と始めようにも、この音楽について当方は何も知らないに等しいのであった。
 北アフリカはモロッコ、アトラス山系の懐に抱かれたあたり(何度も言うが、良く分からないまま書いているので、ご注意を)に住まいするベルベル人なる民族の伝統音楽が現代化したもの、といって良さそうなのだが、そもそもその伝統音楽なるものがどのようなものやら、その辺の知識からしてこちらは持ち合わせない。すまん。

 とりあえず現代化とは言うものの、基本的にはルーツ・ミュージック丸出しの泥臭い風体をしているので、現地の非常にドメスティックな環境で機能している音楽なのだろうと想像される。
 そしてその音楽の輪郭が非常にダンサブルなものなので、おそらく現地ではダンスミュージック、あるいはもう少し範囲を広げて祝祭音楽として機能しているのだろうなと想像するくらいがせいぜいのもの。

 雑に言えば電気楽器などを導入してもともと騒がしいものがますます騒がしくなった素朴なアラブの民謡、そのような感じの音楽である(ひどいね、どうも)
 基本は打ち鳴らされる民族打楽器であり、吹き鳴らされる民族管楽器。そもそもがサハラ砂漠からの風に吹かれて乾ききったような、ハードボイルドな手触りを持つモロッコ方面の音楽なのであって、そいつが強力なトランス系反復ビートで突っ込むだけ突っ込む。前のめり一本調子の、ただもう前進あるのみみたいな脳内カラッポ音楽(あ、これ、全部褒め言葉ですからね、念のため)

 もっとも特徴的というか当方が魅力的に感じているのが、そのボーカルにかけられたヴォコーダーの効果。
 イスラム世界の音楽であるから当然、イスラミックなコブシというものが歌声にはかかるのだけれど、ええい面倒くさいや、普通に歌った歌声を電子的に変調させてキカイでコブシをかけてしまおう。と考えたのかどうか知らないが、ともかくレガーダの多くには、このイスラム系ヴォコーダー・コブシがギンギンに効いているのである。

 その結果、なんだかロボットが砂漠の真ん中でコーランを読み上げているようなみょうちきりんな風景が、レッガーダを聴く者の目の前に広がることとなる。しかもその歌声にエコーかなんかかけられていた日には。
 歌声は、サハラ砂漠からの風を受けてヒラヒラと舞い上がり、屹立するアトラス山脈の彼方へ飛んでいってしまう。

 狂騒の反復リズムと、その上を舞うロボット系コブシ・ヴォーカル。めちゃくちゃ泥臭くてアホらしい。この卑近美に溢れた音楽の手触りは、ヨーロッパの白人の息のかかったオシャレなワールドミュージック工房からは生まれようのないものだ。

 レッガーダはまだまだメインストリームの音楽界では無名の存在。なんとかこのまま西欧音楽等のつまらない影響など受けず、ムチャクチャで下品な生命力を堅持しつつ、大きく伸びていって欲しいと願うものである。

 冒頭に掲げたジャケは、何枚か聞いたレッガーダのうち、初の女性ボーカルもの。いかにもマグレブ女らしいタフな歌声(もちろん、ヴォコーダーによる工業コブシ付き)で、聴衆を煽る煽る。ほんとのライブか怪しい気もするが、そんなのはどうでもいいやね、確かに。

くだらねえ邦題、邦訳に関して

2007-12-09 23:44:03 | その他の評論

 知り合いのバッキンガム爺さんさんのところで、「バーズのどの辺の盤が最高か?」みたいな話題が出ていました。

 私はバーズに関しては”サイケな世界に色気を出してるフォークロックバンド”であった時代がやっぱりあの連中、創造的だったし刺激的だったとおもってるんで、その辺を推します。後のカントリーめいた時代って、完成度はどうだか知らないが、音楽的なスリルが感じられなくてね、なんか退屈じゃないか。

 で、そこの皆さんの書き込みを読みながらふと、「バーズって、そもそもどんなアルバムをどの位のペースで出してきたんだろう?」と気になって調べてみたのです。
 そしたら、昨年、ボックス物が出ていて、その邦題が「巡る季節の中で」なんですね。

 なんだよ、このタイトルは?今、初めて知ったんだけど、かっこわり~!

 恥ずかしいから、この商品がカタログから姿を消すまで、「バーズなんてバンドは聞いたこともない、なんだそれは?」ってな顔して生きて行こうと思います。
 それにしてもギョーカイの人間のセンスのなさって、どうにかならんの?フォークロックがどうの、カントリーがどうの、なんて語ってみても空しいですよ、マツヤマチハルと同じ扱いじゃさあ。

 そういえば昔、心の底から呆れた、「ハエハエカカカザッパッパ」なんてフランク・ザッパの作品に付けられた実にくだらん邦題、あれはまだ生きてるんですかね?面白いですか、ザッパの曲にそんな邦題を付けることが?
 このあたりに如実に現われている、レコード会社の洋楽担当者の趣味の悪さって、ほんと絶望的ですね。ザッパの名に”雑派”なんて漢字をあてたりしてさ。中学生の世間話か?と言うのだよ。

 以前、この”雑派”の件を、所属していた某メーリングリスト(音楽ライターなど、業界人多数参加)で話題にしてみたら、「ザッパ本人に確認を取っているんで、かまわないんじゃないの?」なんて返事が返って来てますます呆れたものでした。

 そりゃザッパにしてみたら、遠い東洋の国に演奏旅行に行った際、「俺らの国ではお前の名前をこう書くんだけど、これで良いよな?」とか訳の分からない文字を見せられたら、「オウイェ~、そいつはゴキゲンだぜ」とか、ご祝儀で言ったりもするだろうよ。それをもって「ザッパ本人もみとめた」ってのはいかがなものか。

 本来であれば、日本、そして東洋における漢字の歴史とその存在、いかなるものかなどを詳細に解説し、”雑派”なる文字表現のいかなるものかを完全にザッパ本人に理解させたのちに、それを名前の表記に使うか否か承諾を迫る、それがスジじゃないのか。
 うん、そんな面倒くさいことはやっちゃいられない。だろ?だからさ、やっちゃいけないんだよ、安易に”雑派”とかさ。

 あと、「××さんの許可取ったから良いんじゃないの?」って発言にも呆れたものでした。”××さん”ってのは、どうやら日本におけるザッパ研究の権威者らしいんだけどね。そんな奴には謹んで「引っ込んでいろ、バカ」と申し上げたい。何が許可だ。手前はザッパ本人じゃねーだろ。根拠のない図に乗り方をしやがってからに。

 それでは、そんなたちの悪いレコード会社の担当者諸氏に捧げるパスティーシュなど。

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 ☆セックスピストルズの最終決定版ボックスセット!

  邦題・”このぬくもり君に伝えたくて”

 ☆キング・クリムゾン、デビュー当時の未発表音源、集大成を公開!

  邦題・”思いやり”

 ☆シド・バレット、知られていなかった本当のラストアルバム発掘さる!

  邦題・”欽ちゃんに会いたかったんだよ”

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 悪ふざけ書いてますけどね、ありえないことじゃないですから。だって、あの”ミスター・タンブリンマン”のバーズのボックス名が”巡る季節の中で”なんだからさあ。

グギャアとガキは吠え倒す

2007-12-08 22:31:30 | 時事


 今、テレビから盛んに「マリと子犬の物語」とかいう映画のコマーシャルが流れてきますな。

 映画のストーリーは、あの新潟地震に取材した実話が元になっているそうで、”地震で全村避難した村に取り残された母犬と、地震当日に生まれた3匹の子犬を巡る物語”とか。「泣かせておけば金が入る」という世情、どういう魂胆で作られた映画か、もう丸分かりです。

 私なんかの世代には、「おいおい、どこかで聞いた話だぞ?あの無人の、極寒の基地に一年間も取り残されながらも生きていた南極観測隊の飼い犬、タロとジロの物語の二番煎じじゃないか」としか思えないんだが、製作者、恥ずかしくないのか。
 いや、それどころじゃない、すっごい良心的な映画を作ったつもりでいる気配があるな。

 そして我が日本国国民の皆様、コロッと丸め込まれちゃって見に行くんでしょうな、この映画。雁首そろえて。

 とにかくねえ、この映画のコマーシャルの冒頭、主演のガキが割れ切った喉で「グギャーッ!」とか絶叫するのが聴こえるたびに、ついに我々はこんな貧困な文化しか持てなかったのか。と、もう絶望の淵に落っこちるのである、当方の気分としては。

 泣けば感動、怒鳴れば熱演、ですか。シンプルなお仕事で、芸能人の皆さんも気楽でよろしいですねえ、いや、ほんと。

謎の台湾演歌男

2007-12-07 03:28:07 | アジア


 ”漢家の張四郎”

 以前から、いつかは記事にしなけりゃなあ、とは思いつつも形にならなかった物件に関しての話題です。古くなり過ぎないうちに書いてしまいます。
 ここに掲げましたのは台湾の演歌歌手、”漢家の張四郎”のデビュー・カセットです。製作年度は・・・ああ、書いてないや。もう大分前、もしかしたら十年くらいも前に手に入れたのかもしれません。

 収められている12曲はすべて日本の演歌です。”旅姿三人男”とか”無法松の一生”なんてやや古めのものから、さらに遡って”船頭可愛や””大利根月夜”あたりの戦前もの、かと思えば”北酒場”や北島三郎の”祭り”などという、いくらか新しめなものも収められている。
 まあいずれにせよ、我が国の深夜のスナックでは死ぬほどお馴染みの、ベタと言いたくなるような曲目が並んでいるわけです。

 で、それらの歌がこのカセットではすべて、台湾語と日本語、両方の歌詞で交互に歌われている。ここが面白いところ。
 たとえば1番と3番があちらで付けられた台湾語の歌詞で、2番と4番がオリジナルの日本語の歌詞で。あるいはその逆、と言う形です。カセットの背にも、”台日語専輯”なんて書いてあって、どうやらそれが”売り”の一つらしい。

 これはまあ、このカセットを手に入れてくれた人からの伝聞で、何も裏を取った話じゃないんですが、このカセットは発売当時、台湾の田舎で密かに小ヒットしたんだそうです。
 が、なにしろカセット・オンリーというマイナー世界の話ですし、ヒットと言ってもたかが知れている。そしてそもそも日本語の演歌なんか、オシャレな台北のシティボーイ&ガールは見向きもしないだろうから、台湾中央の音楽ジャーナリズムでは話題にもならず、このカセットも、歌い手の”漢家の張四郎”の話題も、歌のネタモトである我が日本に伝えられることもなかった。

 ・・・日本では誰も知りませんもんね、こんなカセット、こんな歌手。
 おそらく、このカセットを買ったのは・・・かって日本が台湾を植民地支配していた時代に何らかの感情を持つ人々、そしてそれらの人々から何らかの文化的影響を受けた人たちなんでしょうね。日本の領有時代を懐かしく思っているなんて断ずるのは問題ですから、そうは書きませんけどね。実際、もっと微妙なものでしょう。

 ともかく彼らは田舎に住み、”カセットのみ”なんて文化状況を感受している。そして、ここに収められている日本演歌の世界を”好!”と感じ、次々にこのカセットを購った。
 歌詞は、すべて台湾語ではいけなかったんですね。日本語でないと気分が出ない。とはいえ、すべて日本語でオーケイ、というほど彼らは外国語に堪能ではなかったから、カセットをかけて一緒に歌えるよう、台湾語の部分も作らねばならなかった。

 それ以上のことは言えません。ともかくこのカセットに関しては何の資料にも出会えず、何か言えばテキトーな推測にしかならないんで。

 ちなみに。台湾においては、ここまで徹底せずとも、日本の歌が一曲や二曲、アルバムの中に紛れ込んでいるってのは珍しいことじゃないのです。
 台湾語の演歌であるとか、台湾の先住山地民族(戦前は”高砂族”とかよばれました)たちの音楽なんてジャンルの中では、怪しげな発音の日本の懐メロがあるいは切々と、あるいは楽しげに歌われる様に、容易に出会うことが出来ます。

 台湾語の(つまり台湾の支配者階級の使用言語である北京語ではない)演歌や山地民族ポップス・・・そんなものを聴くのは、台湾において決して恵まれた立場にある人々じゃないですね。社会の底辺で働いていたり、少数民族としての軋轢の中に日々を送っていたり。そんな人たちが非常にディープなありようで日本の演歌を愛していたりする。この辺、チェックですね。
 (いやまあ、その一方で日本のアイドルに入れあげる少女たち、なんて風俗も台湾の都会には見受けられますが)

 カセットに話を戻します。主人公の”漢家の張四郎”は、いまどき日本でもなかなかお目にかかれないくらい粋でイナセで男らしい、キリッとした演歌歌手振りで、なかなか聞かせてくれます。
 日本語も上手いものですが、たまに発音が怪しかったりするところがある。非常にうまい外国人の日本語、というレベルでしょうか。
 ともかく予備知識なしに歌だけ聴かされたら外国人の歌う演歌だなんて、ちょっと分からないでしょうね。

 彼が自身で書いたらしい自己紹介文には、”おどうさん是日本京都人”なんて表記があり、このあたり象徴的です。父親を日本語表記する知識はあるが、”おどうさん”と、”と”に濁点をつけてしまった。日本語を教科書からではなく口伝いに習得した、これが証拠とは言えませんかね?

 彼の自己紹介文は以下のように結ばれます。”四郎最懐念日本演歌 欲更熱愛台湾民謡”と。
 彼の実像をもっと知りたいんだけれど、現在までのところ、それは叶わずにいます。その後、カセットはリリースしたんだろうか?日々、どのような活動を?などなど、興味深々なんですけれどね。何かご存知のかた、ご教示いただければ幸いです。

Soraちゃんのトロット

2007-12-05 23:12:43 | アジア


 ”Pledge Eternal Love Promise to Love Each Other Forever” by Jang sora

 どうもそんな流れが出来かけているんじゃないか、なんて事を書いた記憶があるんだけど、どうやら本当にそんな流行が来ているみたいな韓国音楽シーンであります。
 どんな流れって、日本ではアイドル歌手としてとうぜん扱われるようなタイプの、可愛いルックスの子を次々にトロット、つまりド演歌歌手としてデビューさせてしまう、というブーム。

 まあ、こちらとしては韓国のトロットは好きだし、それを歌うのが若いかわいい女の子であると言うのならますます大歓迎で何も問題はないんだけど、これはどういうブームなの?という疑問はある。日本でもたまにある民族文化回帰的気風とアイドル嗜好が変な風に結びついた?まあ、そんなところなんだろうけれど。

 気がついている、ブームの特徴を挙げてみます。

 1)ディスコアレンジ、それも安易なアゲアゲ・ムードのディスコアレンジである。
 2)取り上げられる曲は、あくまでもオーソドックスな演歌や歌謡曲である。
 3)アレンジは常に一本調子で、あまり劇的展開なしで進行する。
 4)それ以前の大前提として、ともかく可愛い子に歌わせる。

 こんなところで。いや、たいした発見はないですね(笑)

 と言うわけで今回も韓国のトロット・アイドル、 Jang Soraちゃんを紹介いたします。

 これがデビューアルバム、そしてルックス的にはこの子あたりが私は一番好みかなあ。上に挙げたジャケ写真ではなんか高島礼子みたいな顔に写ってますが、中ジャケの各写真(歌詞カードが、ほとんどミニ写真集みたいな構造になっている)では、もっと今日風の陰影を感じさせるルックスです。

 彼女はこれまで紹介してきたかわい子ちゃん系トロット歌手のような、ディスコのビートに乗ってハードに演歌を吠える鉄火肌の硬派な歌い手たちとは、ちょっと違う個性を持っている。実力派であるに違いはないんだけど、演歌というよりはやや歌謡曲よりの女性的な泣き節が、その歌声の中心にあるんですな。
 そんな彼女の個性に合わせて、収められている曲目もこの種のものとしては歌謡曲寄りの選曲となっており、アレンジも、この種のものとしては多彩な奥行きが楽しめる。

 もちろんこちらは韓国語は理解不能なんで何を歌っているのかは分からないんだけど、日本の昭和30年代のもののような、そうでもないような曲調のベタな歌謡曲が打ち込みのリズムに乗り、”いまどきの若い子”の歌声で、なおかつ意味の分からない異郷の言葉で次々に歌い流されて行く。

 そいつを聴いていると、過去と未来、懐かしい情景と見たこともない風景がゴタマゼになった奇妙な未来都市が、キムチとヤキイカの匂いを漂わせて玄界灘を船出して行く、そんな幻覚を見る思いなのであります。

審査員狩りの夜

2007-12-04 04:15:46 | その他の評論


 なんかこれ、凄く気持ち悪い事件だなあ。優勝作品にクレームを付けた人たちって、作品内容が、とか運営方法が、とかいろいろ指摘しているようだけど、言いたいことは要するに「優しいサンタさんをいじめるなんて許せない!」って”義憤”なんでしょ?

 さまざまな苦情内容ってのは、その怒りに公共性を帯びさせるための、そして「自分はもっと高邁な理想を掲げているのだ」と自らに信じ込ませるための口実に過ぎないんじゃないの?

 で、人々はそいつを掲げ、”サンタ狩り”に大賞を与えてしまった審査員たちを”正義の刃を振るう聖戦士”の姿で攻撃している訳だ。「自分たちは正義のための戦いをしているのだから、反抗するものは悪魔だ」なんて大書された旗を振りつつ。

 何のことはない、それじゃ、”サンタ狩り”と同じことだよ。”審査員狩り”じゃないか。
 今度は自分たちが、映像の中でサンタに暴行している連中と同じ事を審査員たちに対してしてしまっている、その滑稽さ、グロテスクさに気がついていない。
 あなたが主演の”審査員狩り”は、果たして”サンタ狩り”より立派な作品といえるんだろうか?
 そんな”あくまでも正義”な人々の、ヒステリックに硬直した”ピュアさ”を私は大いに恐怖します。

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 ○7人の審査員」と「不特定多数の住民」の間で――第1回「ニコニコ映画祭」騒動
  (ITmediaニュース - 12月03日 14:20)

 「こんな動画を選ぶなんて」――ユーザーから募集したユニークな動画作品に賞を授与する「第1回 国際ニコニコ映画祭」の大賞受賞作が、「面白くない上に暴力的」などとユーザーから批判が殺到。審査員の1人のブログに対して批判コメントが相次ぎ、ブログで謝罪に追い込まれる事態に発展した。
 ニコニコ動画は、多数の一般ユーザーが盛り上げて急成長したサービス。人気動画は再生回数の多さで分かり、いわばユーザー全員が“審査”に参加しているとも言える点も人気を集めた理由だ。
 これに対して映画祭は、専門家など少数の審査員が優秀作を選ぶ形。一般ユーザーの声は反映されておらず、このギャップが受賞作に対する批判コメントの殺到で浮き彫りになった形だ。
 ニコニコ映画祭は、ユーザーからオリジナルの動画作品を募集し、ユニークな作品に賞を授与する企画。第1回は11月上旬に作品を募集し、204作品が応募。1次審査で28作品が選ばれ、タレントの松嶋初音さんや、ビジュアリストの手塚眞さん、ニワンゴ取締役で2ちゃんねる管理人の西村博之さんなど7人が最終審査に参加した。
 大賞に選んだのは、繁華街でサンタクロースを追いかけてつかまえ、馬乗りになって殴る――という内容の「サンタ狩り」。だが、この作品が受賞作として公表されると、ユーザーからは「暴力的」「いじめだ」「悲しい気分になった」「何が面白いか分からない」といったコメントが殺到した。
 審査の様子をまとめた動画にも批判コメントが殺到。「サンタ狩り」を審査しているシーンでは「これを選ぶなんて信じられない」といったコメントとともに、松嶋さんなど審査員への中傷が多数書き込まれた。
 中傷は松嶋さんのブログにも飛び火し、松嶋さんは「今回はわたしの発言で気分を害するようなことになってしまい、本当に申し訳ありませんでした」などとブログで謝罪し、サンタ狩りを推した理由などを丁寧に説明した。
 ニコニコ動画の開発者ブログは29日付けで、批判は「映画祭への期待が予想以上に大きかったためだと前向きに受け止めている」とした上で、大賞作品については「審査方法も結果も間違っていたとは考えていない」とした。
 ただ、「よりユーザーが楽しめるような映画祭になるよう、選考過程や基準についてもっと明確にするなど、運営方法を改善していきたい」と、反省点をふまえて映画祭の運営も見直す方針を明らかにした。

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近くて遠き台湾演歌

2007-12-03 03:13:14 | アジア


 ”錯愛”by 龍千玉

 と言うわけで。今年の春にリリースされた台湾演歌の大御所、龍千玉の最新作、”錯愛”であります。やはりベテランの満を持しての新作、相当の貫禄を感じさせる出来上がりとなっております。

 もう十数年前になるのか、台湾の演歌に興味を持って聞いたみた初めての作品群の一つに龍千玉の”傷跡”なんてアルバムがあって、その時点でもすでに彼女は大御所であった訳で、だったら今の年齢は、なんて話題をファンがしていてはいかんのだけれど、いや、ジャケ写真なんか一瞬、まだまだ行けそうなねーちゃんに見えるけど、まあしかし良く見ると。

 閑話休題。で、その十数年前に初めてまともに聴いた台湾の演歌だったのだけれど、国境を挟んだ彼我の文化の行き違い、なんて思いに頭がクラクラしてきたものでした。
 なにしろいきなり飛び出してくる、フル・オーケストラによる”これが演歌だ!”みたいな大げさなイントロと、街角の流しのおにーさんから直送みたいな、やさぐれたギターの爪弾き。それは日本の演歌がもうずっと前、そうだな、昭和40年代の前半あたりに置き忘れてきた、極彩色のド演歌世界だったのであります。

 これはいったいなんだろう?日本の過去の大衆文化が、遠く離れた文化も民族も違う外国で現役で機能している。なにしろ音楽的にそのまんま、だけではなく、尺八やツズミといった和楽器が大々的に鳴り渡りさえするのであって。

 そんな楽器が演歌のフォームの中で鳴り渡ると私などの場合、昔の高倉健あたりが主演のヤクザ映画など思い出さずにはいられないのですな。
 男には、負けると分かっている出入りにも行かなきゃならねえ時もある。義理ゆえに。「お供させていただきやす」「おうよ」なんつってねえ。ドスをのんで義兄弟が死を覚悟の歩を進める夜道に桜吹雪が散ったりいたします。そこに聴こえ来る尺八一閃。

 でも、そんな風景、台湾演歌の聞き手である台湾の人々に見えているとも思えず。彼らにとって日本の演歌って何なのだろう?
 もちろん、そのハザマには胡弓の音高々と鳴り渡る中華情緒万溢の伝統的歌謡も収められてはいるんだけど、メインデイッシュはやはり、台湾演歌界が勝手に正統を継承してしまったらしい日本の昔の演歌のパターンなのであって。

 なにしろ油断して聞いていると、”ギャン”とか”ミャン”なんて音の印象が強く残るアクの強い台湾語に混じって”忘れな~い”とか”さようなら~”なんて日本語の歌詞さえ聞こえてきてしまうし、その後に控えるのは映画”愛染かつら”の主題歌として高名な日本の歌謡曲、”旅の夜風”の台湾語ヴァージョンだったりする。

 ワールドミュージック好きの日本人としては、この居心地がいいようなよくないようなむずがゆい感覚、どう対処したらよいのかさっぱり分からないのでありました。
 といって、「日本人と日本の文化は台湾の民衆に大いに愛されているのだ」などと調子に乗ったら、どこかでこっぴどいしっぺ返しにあうぞ、なんて予感もまた、非常にする訳でしてね。この辺の微妙なところ、いまだに良く分からない。

 そして、久しぶりに聴いた龍千玉の新譜”錯愛”なのですが。豪華なフルオーケストラが、臆面もなく、なんて表現がいかにもふさわしいド演歌のフレーズを奏で、そして今回はストリングスまでが加わっているんで、ゴージャスさはいや増しとなる。それがまた、ある種スペーシィとも言いたいアレンジのセンスなのであって、プログレかよ、と。
 この辺、もはや日本人の感覚ではなく、台湾演歌界も日本演歌の臍帯を離れつつあると言えましょうか。

 さらにそれに絡むギターの音色にはディストーションがかかっていて、かっての街角の演歌流しのおにーさんっぽさの代わりに、いかにもロック兄ちゃんっぽいプレイだったりする。こちらが勝手に時が止まった世界みたいに思っていた台湾演歌の世界にもやはり、時代の波は押し寄せているんですなあ。

 そして相変らず貫禄の龍千玉の歌声。バックに鳴り渡る豪華なストリングスの響きに包まれたその豊饒さは、台湾民衆の体温みたいなものをジトッと伝えてくるのでありました。