”錯愛”by 龍千玉
と言うわけで。今年の春にリリースされた台湾演歌の大御所、龍千玉の最新作、”錯愛”であります。やはりベテランの満を持しての新作、相当の貫禄を感じさせる出来上がりとなっております。
もう十数年前になるのか、台湾の演歌に興味を持って聞いたみた初めての作品群の一つに龍千玉の”傷跡”なんてアルバムがあって、その時点でもすでに彼女は大御所であった訳で、だったら今の年齢は、なんて話題をファンがしていてはいかんのだけれど、いや、ジャケ写真なんか一瞬、まだまだ行けそうなねーちゃんに見えるけど、まあしかし良く見ると。
閑話休題。で、その十数年前に初めてまともに聴いた台湾の演歌だったのだけれど、国境を挟んだ彼我の文化の行き違い、なんて思いに頭がクラクラしてきたものでした。
なにしろいきなり飛び出してくる、フル・オーケストラによる”これが演歌だ!”みたいな大げさなイントロと、街角の流しのおにーさんから直送みたいな、やさぐれたギターの爪弾き。それは日本の演歌がもうずっと前、そうだな、昭和40年代の前半あたりに置き忘れてきた、極彩色のド演歌世界だったのであります。
これはいったいなんだろう?日本の過去の大衆文化が、遠く離れた文化も民族も違う外国で現役で機能している。なにしろ音楽的にそのまんま、だけではなく、尺八やツズミといった和楽器が大々的に鳴り渡りさえするのであって。
そんな楽器が演歌のフォームの中で鳴り渡ると私などの場合、昔の高倉健あたりが主演のヤクザ映画など思い出さずにはいられないのですな。
男には、負けると分かっている出入りにも行かなきゃならねえ時もある。義理ゆえに。「お供させていただきやす」「おうよ」なんつってねえ。ドスをのんで義兄弟が死を覚悟の歩を進める夜道に桜吹雪が散ったりいたします。そこに聴こえ来る尺八一閃。
でも、そんな風景、台湾演歌の聞き手である台湾の人々に見えているとも思えず。彼らにとって日本の演歌って何なのだろう?
もちろん、そのハザマには胡弓の音高々と鳴り渡る中華情緒万溢の伝統的歌謡も収められてはいるんだけど、メインデイッシュはやはり、台湾演歌界が勝手に正統を継承してしまったらしい日本の昔の演歌のパターンなのであって。
なにしろ油断して聞いていると、”ギャン”とか”ミャン”なんて音の印象が強く残るアクの強い台湾語に混じって”忘れな~い”とか”さようなら~”なんて日本語の歌詞さえ聞こえてきてしまうし、その後に控えるのは映画”愛染かつら”の主題歌として高名な日本の歌謡曲、”旅の夜風”の台湾語ヴァージョンだったりする。
ワールドミュージック好きの日本人としては、この居心地がいいようなよくないようなむずがゆい感覚、どう対処したらよいのかさっぱり分からないのでありました。
といって、「日本人と日本の文化は台湾の民衆に大いに愛されているのだ」などと調子に乗ったら、どこかでこっぴどいしっぺ返しにあうぞ、なんて予感もまた、非常にする訳でしてね。この辺の微妙なところ、いまだに良く分からない。
そして、久しぶりに聴いた龍千玉の新譜”錯愛”なのですが。豪華なフルオーケストラが、臆面もなく、なんて表現がいかにもふさわしいド演歌のフレーズを奏で、そして今回はストリングスまでが加わっているんで、ゴージャスさはいや増しとなる。それがまた、ある種スペーシィとも言いたいアレンジのセンスなのであって、プログレかよ、と。
この辺、もはや日本人の感覚ではなく、台湾演歌界も日本演歌の臍帯を離れつつあると言えましょうか。
さらにそれに絡むギターの音色にはディストーションがかかっていて、かっての街角の演歌流しのおにーさんっぽさの代わりに、いかにもロック兄ちゃんっぽいプレイだったりする。こちらが勝手に時が止まった世界みたいに思っていた台湾演歌の世界にもやはり、時代の波は押し寄せているんですなあ。
そして相変らず貫禄の龍千玉の歌声。バックに鳴り渡る豪華なストリングスの響きに包まれたその豊饒さは、台湾民衆の体温みたいなものをジトッと伝えてくるのでありました。