母たちにそれから自分のために花を求めた
きのう今日と息子の運転手付きで古本屋に行く。自分で運転するのが億劫になってしまった。3000円で20数冊購入する。ブックオフではゲド戦記とソフィアの世界と官能小説と冬のソナタがとなりあわせに並んでいてぎょっとしたが、安いということはいいことである。内容は村上春樹と大島弓子と花郁悠紀子、篠原烏童 半分は少女漫画だった。
少女漫画!?とばかにすることなかれ 少女漫画は日本が世界に誇るサブカルチャーである。大島弓子の作品がなかったら 吉本ばななは世にでただろうか。また「秋日子かく語りき」と北村薫のスキップとの類似性、「秋日子かく語りき」「庭はみどり川はブルー」(1987年)と東野圭吾「秘密」のプロットとの類似性、四月怪談の弦の丞と江國香織「草の丞のはなし」の雰囲気の相似性等々、四月怪談他多くの作品が映像化されていることなども含めて 大島弓子の影響は大きいといわざるを得ない。
少女漫画を引き合いに出しながら語りの要素を考えてみよう。少女漫画の三要素はストーリーの構造とことばそして絵である。絵とことばでイメージを伝える。 一方語りの要素はものがたりの構造とことば ことばを載せる声 ことばと声でイメージを伝える。
ストーリー・ものがたりの構造はプロット・エピソードの積み重ねで起承転結 あるいは序破急の流れをつくり テーマ・メッセージを伝えようとする。もちろん双方ともに まず 読者・聞き手になにを伝えたいか作者あるいは語り手が希求するものがなければならない。三要素の比率は構造3ことば3絵あるいは聲4といったところか。
構造はきちんとしているにこしたことはない。が、どちらかといえば臨場感 勢いがあった方が生きているものがたりになる。磨きぬいたことば それしかないことばを択ぶ 新鮮なことばを生み出す 大島さんはことばの魔術師と呼ばれているが ...ミモザ館の住人のあれはさだめだったのだろう....ではじまるミモザ館でつかまえての導入....ことの起こりは花びらの乱舞する 七年前の春ではじまるジョカへ...の導入 家の近くの水の辺のげにしたたかなパスカルの群れ げにやさしきパスカルの群れ....で終るパスカルの群れ ぼくの前方に寂しさが 後方に寂しさがあった...ダリアの帯など そのことばの絶妙さは悶絶ものである。
そして漫画にとって 絵が重要なように 意外となおざりにされがちなのが語りにとっての聲である。聲は絵の具のようなものだ。いろあい 翳り 強弱 光 匂い 深さ あらゆるものが聲でまったく違うものになる。 そのうえに語りではパフォーマンス 歌 自然なしぐさ 目の輝き ほほえみ などが加わる。
そのほか 視点の問題がある。誰の立場で語るか 通常語りでは客観的に地の文で語りそこに登場人物の台詞がはいることが多い。だが わたしの場合 一人称の語りが比較的に多い。それはライフストーリーに近い語りが多いためである。
大島さんの初期の作品では地の文があり そこに主人公はじめ登場人物の台詞心象風景をあらわすモノローグがはいる。これは当然 感情移入しやすい。つまり読者は多角的にものがたりを見ている。神の視点である。後期になると一人称の語りが主流となる。読者は主人公の視点でものがたりを追ってゆくのだ。構造 ことば 聲 パフォーマンス 視点 まだまだ 実験的にできることはあるような気がする。
わたしが語りのつぎに少女漫画に言及することが多いのはなぜか?といえば上質の少女漫画は 女でいることの苦しみ、女になることの苦しみから救済するなにかを持っているからである。少女漫画で男性が中性であるように描かれたり(最近のどうしようもない少女漫画は別として)少女が少年に仮託されて描かれているのはそのような理由にもよる。たとえばグリムにおいても 女性が主人公である物語 積極的に前に進む物語は少ない。生と死 子どもの自立は象徴としてあつかわれても 女であることの苦痛を癒すものがたりは少ないのではないか。それはグリムが男系社会における男性であることにも起因しているのではないか。少女漫画における癒しについて また昔話におけるジェンダーの問題についてもいつか考えてみたい。
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