ユージン・スミスは、おそらく、もっとも英雄的に、写真雑誌が求める条件を満たしつつ、アートとして自分が納得しうる写真を撮影しようと努めた写真家でした。
「多くの写真家が、自分と被写体の間をガラス板一枚分隔てているようだ。中に入り込んで相手を知ることができないのだ。」 by ユージン・スミス
彼はこのことばを体現し第二次世界大戦中は従軍カメラマンとしてサイパンや沖縄戦を取材しました。日本との縁が深かったユージン・スミスは、1971年から3年余り熊本県の水俣に滞在し、水俣病の実態を撮影、発表しました。 なかでも有名なのが、胎児性水俣病患者の娘をいとおしむように胸に抱く母の姿をとらえた「入浴する智子と母」の一枚です。この写真は世界中に衝撃を与え水俣病を象徴する悲劇として、国内外のメディア、教科書などに掲載されました。智子さんの母の慈愛に満ちた顔はピエタさえしのぐ。この反響の影響で少女や家族に対する中傷も相次ぎ、少女の逝去後、98年に、アイリーンさんは「写された人の人権を尊重する」として、写真の決定権を両親に与え、自著で再掲載しないことを約束し、写真集を収蔵する美術館などにも展示への配慮を要請しました。
水俣は市民のほとんどがチッソ関連企業で生計を立てており、企業と行政と市民世論の壁に、患者らは諦めを強くしていたが、米国から来た写真家の精力的な活動に勇気づけられました。
72年、ユージン・スミスはチッソ五井工場を訪問し、患者と会社側との交渉を撮影中、同社従業員(従業員の姿をした雇われ暴力団員とも言われる)から暴行を受け、片目失明の大けがをしました。暴行した従業員は逮捕されず、この時抗議した患者が逮捕され、当時の患者側の立場の弱さと、チッソ側に立つ行政側の姿勢が浮き彫りになった。ユージン・スミスは、この時の暴行を告訴せず、写真撮影に没頭しました。1977年12月、脳溢血で倒れる。翌年奇跡的に回復し、セミナーを行うまでになったが、1978年10月15日にアリゾナ州トゥーソンの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、致命的な発作を起こし死去しました。享年59歳。
母方の祖母が、アメリカインディアンのポタワトミ族の血筋をひくこと、小麦商の父親が大恐慌で破産し銃自殺したことなどが、ユージン・スミスの写真家としての原点とあり 市井の人間の命や生活に関心を持ち続けたのではなかったかと思われます。
ユージン・スミスの写真の特徴は、「真っ暗闇のような黒とまっさらな白」のメリハリにあります。そのメリハリは、妥協を知らない徹底した暗室作業によって作り出され、それに加えてユージン・スミスは、トリミングを駆使して被写体を強調したり、重ね焼きを用いたりしました。例えばシュヴァイツァーを被写体とした1枚は手と鋸の影が重ね焼きされました。そもそもユージン・スミスは、リアリズム(写実主義)を排除していたとされます。彼は事実への誠実さをつらぬくためだったら 演出をすることもためらいませんでした。
http://www.atgetphotography.com/Japan/PhotographersJ/EugeneSmith.html
http://mediagres.com/wordpress/?p=1348
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9
ユージン・スミスは義のひとであり その信念を写真家としての自分に体現した類稀なひとです。報道ジャーナリストとして事実をつたえることと 芸術家として 完璧な「美」の世界を一致させようとしたひとです。美しい....という概念はひとによって違いますがユージン・スミスの美学は語りにも相通ずるように思います。彼の生き方からしたら 窒素の当時の会長が誰であれ そのことで孫娘雅子妃を糾弾することは たとえそれが彼を賛美するひとであったにせよ 喜ばないと思います。A家については天皇制の歴史的なアイロニーになるような根深い問題がおありです。元華族の博士様 これが答えですので今後同様のコメントはおひかえください。