遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

語りをしていて しみじみ思うのが 身体の大切さ ほぐす ゆるめる 脱力の大事さです。 つながるためにはちいさな自己を棄てなければならない。語るためのよい器となるために身体に濁りがない 緩んでいる ことが必要です。もちろん魂も濁りがないほうがよいのですが 身体が変わること 天地とつながってゆくことで魂も変わってゆく。語りは表現などという皮相なものではない。 身体のゆるみは 語りだけでなく すべてにつながる しあわせに生きるための奥義でしょう。(筋肉が固まると骨格にも影響をあたえ、身体がゆがみます)

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〔もっとも固まっているのが首と腰のつけ根〕
大人は赤ちゃんと比べると、全身あらゆるところが固まっているが、もっとも固まって岩のようになっているのが、首のつけ根と腰のつけ根である。これは全員共通していて、外国人でも同じ。赤ちゃんは生後1年後、「首が座る」ころ首のつけ根が固まり始め、「お座り」ができるころ、腰のつけ根が固まってくる。さらに「這い這い」や「あんよ」で一層強固になっていく。
大人になっていくと、芯はより強く固まり、その「芯」がだんだん広がり体積も大きくなっていく。首のつけ根と腰のつけ根にあったものが、背中全体、肩全体、腰全体に広がる。そして、下腿は脛骨という太い骨と腓骨という細い骨であるが、その腓骨まわりの筋肉へ飛び火したりする。中年期以降になると、それらの拘束がみなつながってきてしまう。

特に背骨まわりと肋骨まわりの小筋群、深層筋は、早くからじわじわと固まってくる。背骨まわりが固まると、脊髄神経全体が圧迫される。脊髄神経は心臓、肺、肝臓、胃、小腸、大腸などすべての内臓を支配しているから、それらの働きが全部少しづつ少しづつ衰えていくのだ。肋骨まわりが固まってくると、呼吸がしづらくなり、息苦しくなってくる。これも背骨まわりと同様に少しづつ固まってくるので、ほとんど本人にも気づかれることはない。

〔日本人の身体が固まるようになった理由〕
 (維新後、政治家たちによって日本人の身体が変えられてしまった。身体が固まると脳の機能も衰える。また、温泉やマッサージでは芯までゆるまない、としている)

〔身体をゆるめると脳に何が起きるのか?~身体がゆるむと脳が活性化し若返る〕
 筋肉が凝って固まりっぱなしになるということは、筋肉を支配している脳の領域の活動水準が下がる。もう動かない筋肉になってしまうと、脳の支配領域も活動を停止する。そのように、必ず筋肉と脳は対応している。(めぐり巡って)前頭前野までもが衰えてしまうとこになる。身体が固まると心まで動かなくなる

〔目覚めた身体意識は「気」の流れを導く〕
 本当に実力のある人は、本領を発揮するときに笑えるほど身体がゆるんでいる。ゆるんだ身体と一緒に働いている生命エネルギーである気が、とてつもないパワーと勢いで回っているのです。最も大切なことは、身体を鍛えるのではなく、ゆるめるということ。

〔ゆるめば新陳代謝が活発になり気分までよくなる〕
 ポンプ機能というのは、筋肉の伸縮を繰り返す中で酸素と二酸化炭素を交換したり、栄養素と老廃物を交換したりしながら新陳代謝を行う。強い筋肉が悪いということではなく、ゆるめずに鍛えるのがよくない。全身をあらゆる部分にわたって最もゆるませてポンプ機能を高め、新陳代謝をよくすること。これがすべての土台となる。

〔幸福とは身体、意識、気が活性化している状態〕
 古来、中国で言われてきた「意至れば気至る」という気功理論の根本法則があるが、この「意」こそ私がいう身体意識だということが分かった。身体意識の土台となるセンターは大地を貫く無限のライン。上方向は成層圏や太陽系を超え、天の川銀河やアンドロメダ銀河を超えても成り立つ。
 一方、下方向のラインも地球中心(「地芯」)を貫いて、どこまでも続いている。地球の中心というのは、地球が生まれて以来の重力場が集中的、積極的に働いている。つまり、何十億年という歴史を重ねて、地球の中心に地球の外側の宇宙空間の気を集めているということも考えられる。
 地芯まで自分のセンターが到達すると、突然下から猛烈に凝縮した天性の気が、まさに噴出するように、時にレーザービームのように、またあるときにはニュルニュルとしたコンデンスミルクのように、滾々と湧き出すように上がってくることがある。私の実体験ですが、その気のパワーは言葉では表現できないくらいすさまじいものです。

 幸福とは、「身体」をゆるめ、「意」を鍛え、「気」を導いて、「心」を放つことだと言える。これらは、それぞれに連動し合ってスケールアップする円環構造になっている。私自身は、50歳くらいを境にして、センターの形成が非常に進み、その後もどんどん進んで、日常生活の中でもいつもここに紹介した状態に近い状態にある。センターが発達していると、毎日の生活が壮烈とも言うべきほどに快適そのものになります。

{幸せはゆるむことから始まる〕
私は10代後半から延べ何万人もの体に触れてきて、その中で掴み取ったことがあります。それは、なぜ多くの日本人が心の底から幸せだと感じることができなくなっているか、ということ。そして本当に幸せだと実感できる人生を歩むにはどうすればいいか、ということです。結論を先に述べると、「幸せが感じられない根本原因は、あなたの身体が固まっているから」で、「幸せを手に入れたいならはゆるむこと」です。その原理は、「身体をゆるめ、意を鍛え、気に導き、心を放つ」生き方こそが、何ものにも拘束されない、自分らしい本当の幸せを手に入れることだからです。

〔ほとんどの人の身体は固まっている〕
昔は、優れた職人のことを「腕がいい」と言っていた。それは前腕から上腕が固まっていなかったから、指先も非常に柔らかく器用に使えたため「腕がいい」と表現していたわけ。それに比べると、今の人は腕が固まっていて、指の可動性が悪く、腕のいい職人もどんどん少なくなっているのです。
さらに腰の中、股間接を中心とした腰の横あたり。この二つの骨の間の筋肉を中殿筋といい、ここの筋肉が固まっているのです(結果、ガニ股やO脚になる)。この状態は必ず歩きにくさを伴うので、歩き下手になる。日本人は海外では、「歩き方が世界一汚い国民」と見られている。結局は日本人の身体の硬さ、全身の筋肉が硬くなっていることが根本原因で、身体の芯からカチカチになっている
 一般的に、肩こりは僧帽筋の過度の緊張だとみられているが、実際にはもっと奥に問題がある。(表層筋の奥深くある)肋間筋、その筋肉が固まっている。この肋間筋がひどく凝っていると、その人の肩こりは何をやっても決して根治しない。身体が固まれば、脳の機能も衰え、心の柔軟さが失われる。それは「老化」である。加齢現象の中心、最たるものが「身体が固まる」ということ。

〔日本の国力の未来が危うい〕
 現代社会は、否応なく身体が固まるような仕組みになっている。身体も心もガチガチになるような社会現象は根深く、年齢とともにひどくなっていく。結局、それが1億2千万人集まれば、日本の国力にまで影響してしまうほど深刻な問題である。
 経済力だけでなく、幸福感や生きがいといった人間にとって最も根幹となる生きる力や意欲まで喪失する。しかし恐ろしいことに、大半の人がそれだけ問題が根深いことにまだ気づいていません

・屎尿くみ取り屋にも達人たちがいた/高岡英夫
 http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/474.html

 



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どう考えたって TPP 増税 ゲンパツ再稼動の裏切り 68歳年金支給引き上げの 自公が勝てるはずない と思うのですけど......

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以下転載

神奈川県横須賀市長選は30日投票が行われ、即日開票の結果、無所属現職の吉田雄人氏(37)が無所属新人で元副市長の広川聡美氏(61)=自民・公明推薦=を振り切り、再選を果たした。無所属新人で園芸業の岸牧子氏(56)=共産支持=は及ばなかった。投票率は50・72%(前回45・22%)だった。

広川氏の落選が決まった後、進次郎氏は支持者を前に「自分の選挙以上に全力を尽くしましたが、力及ばず勝利をつかむことができなかったのは、私の力不足以外ありません。広川さんに、奥様に本当に申し訳ない」と陳謝。広川氏の敗北の弁に時折、涙ぐむ場面もあった。

小泉氏はまた、参院選への影響について記者団から問われ、「国政に迷惑をかけないように頑張る」とだけ語った。これまでの選挙戦で「横須賀の政治史に残る激しい戦いになるが、必ず奇跡を起こし、勝利する」とげきを飛ばしてきた小泉氏は選挙期間中、“ベタ張り”となって広川氏の応援に明け暮れたが、吉田氏の前に苦杯を喫した。

今回の選挙戦は変革と脱官僚を掲げた吉田市政の是非が焦点となった。吉田氏は“ハコモノ行政”脱却による財政再建を実績としてアピールし、自転車で遊説を行うなど、無党派層の取り込みを意識した選挙戦を繰り広げた。

以上



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内宮前にバスが着いたので 三交タクシーにTELし迎えにきてもらいました。運転手さんは栗須さんというとても親切な方でした。道中たのしくおはなししてまいりましたが なんでも 伊勢にお参りにくるのは女性が圧倒的に多いそうです。それも パワースポットにとても詳しいとか....その方々はどこがお勧めでしたか?と聴くと 「月讀宮」とのことでした。

伊雑宮 いざわのみや いぞうぐう から 五十鈴宮 磯宮ではなかったかともいわれています。

シンとした霊気 なかへ進むにつれ 神気がみなぎるのを感じます。男らしい包み込まれるような  氣です。拍手が響きます。ただただ感謝のみでした。 もはや「日の元の国をおまもりください」 のことばも必要ではありません。守っていてくださるのだから......あとはわたしたち次第なのです。

先日 伊雑宮 についてはUPしましたのであとはそちらをごらんください。

伊雑宮について

伊雑宮の御田植えの祭りの日には7匹の龍が、的矢湾から川をさかのぼって伊雑宮の大御田橋まで上がってくる。

木を切ったところ 倭姫のお墓が出てきたので 倭姫神社に祀った。

この神さまは蛇 (龍蛇)神である。

この伊雑宮にもともとあったご神体である、「草薙の剣(天叢雲剣)」は、 現在熱田神宮のご神体となっている。

騒がれるまで 灯篭は六ぼう星 いわゆるダビデ紋であった。

ご神体はなんだかわからない。箱に入っている。

この地の海女さんは、六芒星の印をつけた額当てをしている。

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今回の旅の発端となったのは いつものようにひらめき そして友人からお土産にいただいた倭姫命ものがたりでした。ページをひらいたときキーンと眩しいものがつらぬいたのです。偶然といいますか 千葉の友人からそんなこととは関わりなく 6月28日に瀧原宮と伊勢の弾丸ツアーに申し込んだと連絡があり 即申し込んだというわけです。

早朝5時到着 白い霧が深い原初の森からしのびやかに涌いてくる しっとり湿った空気が身にまとわりついてくるけれど それはまるで精霊に....きたのだね...とうとうここまできたのだね....と迎えられているようでありました。御手洗..みたらしは神社の脇を流れる清流でした。さらさら流れる清い水で口をすすぎ 手を浄め 奥にすすむと しだいしだいに濃密な 氣がたちこめる 細かい微粒子が降ってくるかんじ....どこだっただろう 玉置神社で感じたような それから近江楽堂でマリアム(マグダラノマリア)を語ったとき 天上から降ってきた七色の微粒子もこんな感じだった....と思うまもなく 視界がひらけた。

なんといったらいいだろう。白の玉石 黒の玉石に区切られて古色蒼然としたお社が整然とならんでいるさまを.....ことばもなく 誘われるように おずおずと瀧原宮に進み出た。感謝の想いしかでてこなかった。こられたこと 国土がお守りいただいていること その御礼だけ.....

......ずっとここにいたかった。大木がたっている。見るだけで熱いものがこみあげ視界がぼやける。いつまでもそこにいてください。夜も昼も.....時の流れのなかに変わらずにいてください 人の世のうつりかわりをお見守りください。わたしたちは一生懸命日々を送っていきます いのちをつないでまいりますから......

 

以下は(lucaの)ものがたりです。

とおいむかし あまてるくにてるおおみかみがこの国をひとつにまとめてくださいました。おおみかみさまは男らしいあたたかなご気性で 家臣やくにびとたちにしたわれておりましたが とうとうみまかられてしまいおおみわのおやまが墓所となりました。それから歴代のすめらみことは即位の儀式をおおみわのお山でおこなうようになったのです。.....ところが時がたち代がかわるにつれて あまてるくにてるおおみかみだけではなく もうおひとはしらの神をたいせつにするようになり 宮廷であまてるくにてるおおみかみとアマテラスという女神 ニ柱がいっしょにまつられるようになったのです。......すると都で疫病がはやるようになりました。ご神意を占ってみると 神の思し召しは宮廷からもっとひろやかな場所にまつられたいとのこと そこで やまとひめが御杖代となり 神の安住の場所をさがす旅に出られたのです。やまとひめは旅をかさねて....とうとう宮川の支流におおかわのたきはらのくにといううつくしいくにをみつけ 神を祀られました。

 

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倭姫命世記によると、第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が、宮川下流の磯宮(いそのみや)より天照坐皇大御神(天照大神)を祀る地を探すために上流へ遡ったところ、宮川支流大内山川の流域に「大河の瀧原の国」という美しい場所があったので草木を刈り新宮を建てたが、その後すぐに神意により現在の内宮のある伊勢市宇治館町に新宮(五十鈴宮)を建てたため、天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)を祀る別宮となったとされる。神宮ではこの説を採るが、一般には伝説上の話であり、起源は明らかでないと考えられている。

804年(延暦23年)の皇太神宮儀式帳及び927年(延長5年)の延喜太神宮式には、天照大神の遙宮(とおのみや)と記述されており、それ以前からあったと考えられている。皇太神宮儀式帳では瀧原宮1院1号で、延喜太神宮式では別号とされているため、創建当初は瀧原竝宮は瀧原宮に含まれ、804年から927年の間に独立したと考えられている。

太神宮諸雑事記の771年(宝亀2年)12月条に651年(白雉2年)9月の神嘗祭に瀧原宮祭使が洪水の難によって遙拝したとあることから、651年には神宮別宮であったとする説があるが、他の史料がないことから確実視はされていない。

続日本紀の文武2年(698年)の記事に現れる多気太神宮を瀧原宮と考える説がある。



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日本大使館も「標的」に=米当局が盗聴・傍受-スノーデン容疑者、文書暴露・英紙

 米国家安全保障局(NSA)による情報監視問題で、英紙ガーディアン(電子版)は30日、元中央情報局(CIA)職員のエドワード・スノーデン容疑者(30)が暴露したNSA内部文書に基づき、米情報機関が日本を含む38の在米大使館・代表部の通信を盗聴・傍受していたと報じた。


【図解】エドワード・スノーデン容疑者の経歴と亡命経路


 米情報機関の情報監視問題をめぐっては、欧州連合(EU)が標的になっていたと報じられ、EU諸国が米国に説明を求めるなど、反発が強まっている。同紙が伝えた2010年9月の秘密文書によれば、EU諸国のほか、同盟国の日本や韓国、メキシコ、トルコ、インドも盗聴・情報監視の対象となっていた。
 また、07年の文書は「ドロップマイアー」の暗号名で呼んでいた盗聴・情報収集の手法を説明している。通信機器に盗聴器を埋め込んだり、特別なアンテナを使って通信情報を収集したりなど、具体的手法が記載されていた。(2013/07/01-09:53)

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以下転載

欧州連合(EU)は、「米国の査察活動は個人情報保護に対する深刻な挑戦だ!」という声明を発表した。集中的な監視を受けていたドイツのメルケル首相は、ベルリンで開かれた米独首脳会談でこの問題を取り上げたという。ドイツ連邦情報技術安全局のペテル・シャル局長は、「米当局がEU市民のデータにアクセスしたことは到底受け入れられない!」と猛烈に批判した。
香港政府は、米国の査察活動に関しての正式な釈明を文書で求めたという。オーストラリアもニュージーランドも“憂慮”を示している。
日本は何も言えないままだ。これは属国なので仕方がない。
面黒いのは…、静観していた中国が、ここにきて俄然、攻勢に転じたことだ。最も激しい論調は、中国人民解放軍の機関紙『解放軍報』で…、「スノーデン事件で米国はネット警察から盗賊になった!」と、米国を盗賊扱いして強烈に非難した。
以上


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金曜の夜 伊勢に向かいました。以前から伊勢神宮とはなにか知りたいと思いわたしには確認したいことがいくつかありました。それは「氣」です。ご祭神によって氣は異なります。その神社の由緒もひもとけるのではないかと感じたのです。もちろん これは自分のための確認に過ぎません。しかし そのまえに奇妙なことに気づきました。それは1600年ものあいだ 天皇が伊勢を参拝されなかったという事実です。明治天皇が伊勢神宮を始めて参拝されたのは明治5年、そして明治22年の式年遷宮は特別な年であったのでした。

式年遷宮と 憲法

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「古代の姿を寸分違わず保っている」という、現代の伊勢神宮「神話」である。この「神話」に信憑性をあたえているのが、式年遷宮という慣行だ。20年に一度、宮を建て替えて皇祖神が新殿に遷る神宮最大の祭である。飛鳥時代末期、女性天皇・持統の下で690年に始まり、今年10月に第62回を迎える。目の前に古殿があるのだから、そっくりそのまま造り替えることができる、だから「古代のまま」そこにあるといわれれば、だれしも納得しよう。

 だが調べてみると、事実は大きく違っていた。ひとことでいえば、当初に比べて驚くほど立派になっているのである。そこには〈成長-停止-復興-過剰-修正〉という、長期中断を含む変遷の大きなうねりがあった。伊勢神宮といえども、歴史の時間をまぬがれることはできなかったのである。そうした過程の全てをひっくるめて、伊勢神宮の現在があることがわかった。

 考えてみれば、当然のことであろう。しかし、こと伊勢神宮に関しては、「古代のまま」という神話が罷り通ってきた。この伊勢神宮「神話」は、記紀神話とは別種の、もうひとつの「神話」なのである

 式年遷宮に着目することによって、もうひとつ、現代につながる思わぬ発見があった。それは、欽定の大日本帝国憲法が式年遷宮の年に合わせて発布されたことだ。これには一瞬、わが目を疑った。思ってもみなかったことだからだ。その後、あたう限り文献を渉猟したが、これを指摘する論書はまったく見当たらなかった。調べてゆくなかで、驚きはさらにひろがった。この年、明治22年には皇室に関わる重要事案が目白押しなのであった。たとえば、宮中三殿に皇祖皇霊が遷座する、皇室典範が制定される、歴代天皇陵の指定作業が完了する、(のちの大正天皇の)立太子礼が大幅に前倒しして挙行される……。

 憲法は紀元節に合わせて発布されたが、この日取りは明治天皇自らの発案なのであった。発布年を式年遷宮の催行年に合わせたのも、天皇の意思であった可能性が高い。皇祖神が遷座する日、明治天皇は東京から伊勢に向って遥拝するのであった。皇祖をまつる伊勢神宮は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と謳う欽定憲法の内実を担っていたのである。「古代復興」を旗印に、この年の式年遷宮において伊勢神宮は大いに「改正」されたが、同時に、欽定憲法の発布を最大限寿ぐのであった。

以上

そして 式年遷宮の今年 明治憲法に戻ったような自民党の憲法改正案が取りざたされている、これは偶然の一致でしょうか?

なぜ 歴代の天皇は伊勢神宮を避けたのか 参拝しなかったのか?

参拝する必要がなかった..?  ....祖霊ではなかった? 

明治時代に ある意図をもって伊勢神宮は利用されたのではないか?



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