散りゆく桜が好きなのは 母との思い出のせいだった
降る雪が好きなのも 母との思い出からだった
そう知ったのは 語りを始めたすぐあとだった。
自分の中の 薄暗い階段を下り 過去に戻り 幼い頃を
訪ねたあの日 を わたしは 忘れない。
母は強くて わたしには その強さが うとましかった。
母を好きになったことなどない わたしは 父が大好き
そう思い込んでいたわたしは 過去を遡り 桜吹雪の下で
母がわたしのために 花びらをひとひらひとひら ひろい
あつめ 糸をとおし 桜の花びらの首飾りを 頸にかけて
くれた その日の 気が遠くなるほどの幸福感を 今
起きたことのように思い出し その記憶に驚愕した。
いつもいつも 母の背を追っていたわたし 母のひとこと
ひとことに耳を澄ませ 母の視線のゆくえを追っていた
わたし ほんとうは 母が 大好きだった わたしに
気がついたとき それは あたらしい旅のはじまりだった。
4年前 母は身罷ったが その記憶を 思い出せなかった
としたら わたしは あんなに 心を籠めて母を看取る
ことなどできなかっただろうと思う。
母の今際の際の ことばは わたしの 名前 だった。
夫が召されたのも 桜の散り際だった。
毎年 毎年 名残りのさくらを 見るたびに 来年もさくら
が見られるだろうか と 思わずにはいられない。
彼の岸には さくらが おぼろに咲いているであろう
瀬織津姫の統べる 川に沿って 瀬織津姫のさくらが…
たとえ どんなに美しかろうとそれでも この世にいるにしく
はない。
桜が散ると たちまち 白いあやめ 絢爛の牡丹 が
今を盛りと咲き誇る。
明日は雨 地を紅に染め 蕊の雨が 今を名残と降り頻る……