(国立公文書館デジタルアーカイブで見る千葉県の前身の裁判所設置)
以前のブログ記事で、明治5年8月に千葉県の前身となる、印旛県、木更津県、新治県に裁判所が設置されたことについて触れましたが、この設置の文書は国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができます。
(「足柄始八県ヘ裁判所設置ノ御達」)
文書館によってつけられた同文書の件名は、「足柄始八県ヘ裁判所設置ノ御達」です(請求番号公00693100-006)。
まず、司法省が正院に対して、印旛県、木更津県、新治県を含む8県に裁判所を設置したいので、達を出していただくようお願いしますという文書があります。この日付は「壬申8月12日」となっています。
「正院」(せいいん)というのは、この当時のトップの機関です。今で言えば、内閣というところでしょうか。明治4年7月29日に太政官制が改正され、太政官は正院、右院、左院から構成されることになったのですが、その中でもトップの機関が「正院」でした。
「達」(たっし)というのは、上位の役所等から下位の役所等に対して出された指示・命令のことをいいます。「達」一文字では分かりにくいですが、現代でも「お達し」という言葉が使われていますから、イメージは難しくはないでしょう。
「壬申」というのは、ここでは明治5年(1872年)のことです。この時期、「明治5年」とは表記せず、干支で年を表していたことがわかります。
(正院の達)
司法省の要請を受けて、正院では8県に裁判所を設置する、委細は司法省へ承合すべきであるという達を出しています。日付は、司法省の要請と同日(壬申8月12日)です。
このとき設置された8県は、足柄、木更津、新治、栃木、茨城、印旛、群馬、宇都宮です。
(地方官の事務引渡し)
正院の達の後に、地方官が司法省に事務を引渡したという文書があります。裁判所を設置したのは8県なのですが、ここについている文書はなぜか3県分しかありません。
千葉県の前身となった新治県と印旛県の文書を見ていきましょう。
新治県では、新治県権参事大木良房及び参事中山信安の連名で、「今般当県に裁判所が設置されたという御達がありましたので、9月2日に聴訟断獄の事務を司法省に引渡しました」という趣旨の文書が出されています。この文書の日付は「壬申9月3日」です。
印旛県でも同趣旨ですが、引渡しの日は8月23日です。参事堀小四郎、県令河瀬秀治の連名の文書です。
「聴訟断獄」という言葉が出てきますが、「聴訟」は民事裁判のことで、「断獄」は刑事裁判のことです。江戸時代にもこのように呼ばれておりましたので、その用語をここでも使っています。