(はじめに)
以前の記事に出てきた千葉裁判所のトップ判事(今でいえば千葉地裁所長)を刑の適用ミスで降ろされた川西権少判事。肩書の「権少判事」は現代ではない肩書ですが、どのようなものだったのか調べてみました。
(権少判事の位置付け)
明治のはじめのころは、裁判官は次の6ランクに分かれていました(司法職務定制)。(現代では判事と判事補の2つ)
・大判事
・権大判事
・中判事
・権中判事
・少判事
・権少判事
川西さん(本名は川西分八又は川西徳化)は、権少判事でしたから、判事のランクでは一番下ということになります。
何だそれなら大したことないではないかと思ってしまいますが、明治5年5月時点では、判事は35名しかいません(うち権少判事が12名)。判事の中では一番下っ端と思われる権少判事の中には、大審院長になった児島維謙の名前もあることからすると、将来の幹部候補という位置付けと見て良いのではないでしょうか。
川西さんは千葉裁判所の立ち上げ時に任命されています。立ち上げ時のトップというのは、大事な役回りですから、結構期待されて千葉裁判所に来られたのではないかと思います。
(ミスは続発していた)
川西さんとしては、ミスによりキャリアを棒にふってしまったことになりますが、川西さんの名誉の為に言っておきますと、ミスはこの時期続発しており、ひとり川西さんだけの問題ではなかったといえます。
刑を決めるときの誤り等のミスにより、処分を待つ旨の伺いが、明治3年10月から明治7年11月までに集中して残っています。
川西さんの場合は、「権少判事川西徳化断刑失出ニ付待罪」というタイトルになっているのですが、「断刑失入」、「断刑失錯」「断刑失誤」等というタイトルでも文書が残っており、国立公文書館デジタルアーカイブで「断刑失」で検索すると55件がヒットします。
制度の変革期で運用が安定していないときでしたから、ミスをするのはある程度やむを得ない時期だったのかなと思います。時期が集中してこれだけ数があると、個人の資質のほか、組織的な問題があるような気がします。
参考文献
1 職員録・明治五年五月・官員全書改(司法省)(国立公文書館所蔵・請求番号:職A00041100)
2 「権少判事川西徳化断刑失出ニ付待罪」(太政類典第二編・国立公文書館所蔵・請求番号請求番号太00595100-051)